ハバクク書講解

2.ハバクク書1章5-17節『辛抱強い祈り』

1章2-4節のハバククの嘆きに対する神の回答が託宣の形式で、5-11節に与えられている。ここで語り出している「わたし」は、神である。そして、その神の答えは、預言者ハバクク個人に対してのみなされているのではなく、多くの人に向けてなされている。それは、預言者ハバククが個人的な困窮、嘆きを神に持ち出したのではないことを示している。

しかし、ハバククが受け取った神の回答は、全く驚嘆すべき内容であった。ハバククとその同胞の民は、「諸国を見渡し、目を留め 大いに驚くがよい」と告げられる。彼らがなすべき事は、全く理解し難い仕方でなされる神の世界支配に対して、驚嘆することであった。彼らの面前で起こっている世界史の一齣は、神の御業である。これが神から与えられた最初の回答であった。ハバククとその同胞の民はこの神の回答に従うべきことが示される。しかし、「それを告げられても、お前たちは信じまい」といわれている。神が行おうとされる御業が、どれほど信じ難いものであるか、6節以下に記されるカルデア人によってなされる支配が物語られることによって明らかにされる。

それは、まさに予期しないカルデア人の活動として起こることが明らかにされている。それがどんなに信じ難いものであっても、確かに神の御業である。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。」この言葉が、事態は神のイニシアチブによって起こることを強調している。どんなに彼らが信じ難い行動を起こしたとしても、彼らを起こすのは「このわたしである」と神は明確にされる。

この神の言葉は、カルデア人が将来征服者としてお前たちの土地を侵略し、悪の限りを尽くして悩ますことになるであろうとの予測が単に語られているのではない。「わたしはカルデア人を起こす」という神の言葉は、その事態を神が許し、神の意志の担い手として、彼らがその様な行動を起こすように神ご自身がする、ということを明らかにしている。

カルデア人とは、新バビロニア帝国のことである。バビロニアのネブカドネザル2世は、前597年と587年にエルサレムを攻撃・占領し、徹底的に破壊し、国の主だった王や指導者たちの多くをを殺し、あるいはバビロンに捕囚として連れ去った。略奪や婦女子に対する陵辱行為も当然の如くなされた。バビロニアに反旗を翻したエホヤキムは、戦死したか暗殺されたのか分からないが、前597年の第1回エルサレム占領と捕囚の際には既に死んでいた。その息子エホヤキンが王として治めたが、それは、バビロン軍に包囲された僅か3ヵ月の期間であり、彼は捕囚としてバビロニアに連れ去られた。ネブカドネザルは、ヨシアのもう一人の息子、エホアハズの実弟であったマッタニアを傀儡王として立て、彼の名をゼデキヤ(在位前597年-587年)と改めさせた。ゼデキヤは、最初、バビロニアに忠誠を示そうとしたが、前588年にバビロニアに対して反乱を起こした。ネブカドネザルは逃亡するゼデキヤを捕らえ、その報復として、彼の目の前で王子たちを殺した後、彼の両眼を抉り取って、バビロニアに捕囚として連れ去った。

6-10節に述べられているカルデア人の行為は、こうしたことが背後にあって語られている。ハバククは、自分の属する国の王・指導者たちの信仰なき振る舞いの結果、異教の外国の侵略者によって主の審きがなされる事自体については、エレミヤ同様受け入れることができた。彼は、主の審きが告げられるこの言葉に口を挟むつもりはなかった。大変な驚きを覚えたが、神に向かって抗弁することなく、この言葉を聞いている。

しかし、いくら神から告げられていたとはいえ、カルデア人の行為は、想像を絶するほど暴虐の限りを尽くすものであった。少なくとも、この預言者の目にはそう映った。悪しき者が裁かれるのは良いとしても、民の中に主を信じる者はおり、その残りの者を、「神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいる」(13節)事態を我慢することはできなかった。

ハバククは、11節の「彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。」という主の言葉をしっかりと心に刻み込んでいた。

彼はこの言葉を拠所として、再び主に向かって祈る。主の約束があるにもかかわらず、その日がいっこうに来ないからである。バビロニアが、これ以上ユダの罪を裁く主の裁き手としてなすがまま振る舞うなら、もはや、それを許す神は正義の神でないとハバククは判断した。

ハバククは、あまりにも長く続くバビロニアの支配と、不正義の現実を目の当たりにして、その信仰の良心がうずく。善であり義である神が世界史の導き手であるなら、この様な事態がこのまま続くのは何故か、ハバククには理解ができなかった。

ハバククは、12節の祈りの言葉において、神が「永遠の昔から」いまし給う方であるという表現で神が世界史を導いておられるという信仰を表明している。12節3行目のヘブル語マソラテキストの「我々は死ぬことはありません」は、本来なら、神に向かって「あなたは死ぬことがない」とあるべきところだ。このテキストを書き写したユダヤ人が、それでは神に対して不敬であるというので、このように書き改められたと推察されている。ハバククはこれらの言葉で、神が永遠にいまし歴史を支配しておられるということは、神がその歴史の始点から終点までの全期間、殊に現在の我々の生において、生き生きと活動しておられるということにほかならない、と表明している。

ハバククは、神をその様な方として「わが神」と告白する。その正義の支配を歴史の中で完遂される方として、神を「聖なる方である」と告白する。だから、その神の支配と、その神の審きを信じ受けいれることができる。「主よ、あなたは裁くために彼らを備えられた」という言葉は、ハバククのその様な信仰の表明であり、どんなに地が姿を変え、人の心が変化し、事態が深刻で悲惨になっても、歴史を支配し導く神の正義を信じることができた。それゆえ、歴史の導き手である神を、旧約の他の信仰者たちと共に「岩なる神」と告白し、この岩なる神が「我々を懲らしめるため彼らを立てられた」という事実を素直に認めることがでたのである。

しかし、カルデア人が神に立てられた審き手であるにしても、彼らの行動は、神の聖性に反する行き過ぎでしかない。人の労苦に目を留め、苦しむ者の声を聞く、神の愛と憐れみの心に反する現実が見られる。もはやその行為は欺きでしかなかった。神に逆らう者が、自分よりも正しい者を呑み込んでいる(亡き者にする)光景は、ハバククの目に神の聖性に反する由々しき事態と映った。それは、神の真実を信じる信仰の良心に耐えられない事態である。

正しい者が、まるで魚が網で捕らえるように、神に逆らう悪しき者に捕らえられて辱められている。ハバククは、このような事をなすことが神の審きの目的ではなかったはずだと抗議するのである。

しかし、11節の主の御言葉が告げているように、確かにそれは、主の最終の目的ではなかった。預言者には「いつまで」と叫びたくなる長さ、苦悩の深さを、主は決してご存じないのではない。主は、彼が苦悩する以上に、その苦悩をご自身のこととして受け止めておられる。十字架の苦しみを主イエスが耐え忍ばれたように、主はその苦しみを自らのこととして受け止めておられる。ハバククの深い苦悩の裏にもっと大きな主の苦悩があることを忘れてはならない。預言者の苦悩を通して、神がユダの罪にどれだけ苦悩してこられたか、覚えなければならない。この審きの長さ大きさに、その民の犯してきた罪の深さを見なければならない。しかし、主はそれを終わらせ、急ぎ救おうとされる。その主の言葉を、ハバククはこの後聞くことになる。主は、ハバククのこの真実な祈りを待っておられたのかもしれない。聖書は、その意味を直接語らないが、ハバククの祈りの後示される主の答えが、そのことを教えている。ハバククの祈りは、どんな時も神を信じ祈る祈りの必要なこと、神を信じる祈りがどれほど長く聞かれないことがあっても、必ず聞かれることを信じ、祈り続けることの大切さを教えている。

旧約聖書講解