申命記講解

22.申命記30章1節-20節『御言葉はあなたの近くにあり、口と心にある』

申命記30章1-10節は、29章21節から28節の一続きの事柄を語っていて、主に立ち帰るという主題がその中心をなしています。語り手は、バビロン捕囚時代を生き、試みにあっている同時代人に向けて、主にある慰めと励ましを語っています。その眼差しは、未来に向けられています。この語り手は、バビロン捕囚の出来事を主に背いて歩んだイスラエルに対する主の懲罰として見る視点から、イスラエルがこの主の処罰を受け入れ、主に「立ち帰って」いるという前提から語っています。主はご自分の民を憐れみ、民を散らされた状態から集め、捕囚時代以前よりも、より大きな祝福を与えるために、ご自分が与えた土地に連れ戻すという慰めに満ちた約束を語っています。3節の「あなたの運命を回復し」は、意訳で、原語では、「あなたの捕囚を元に戻し」となっています。イスラエルは、「心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、・・・、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」という慰めの呼びかけを受けているのであります。

6節の「心の割礼」についての言葉は、エレミヤ書4章4節の、「 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ」、という言葉を想起させます。だが申命記の表象によれば、神ご自身が人間に対して、内面の刷新を成し遂げることが語られていますので、むしろエレミヤ31章33節の「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エゼキエル書36節25-27節の「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」という言葉を想起させます。

慰めの業における、主の喜びについて触れる9節の「あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる」という言葉は、エレミヤ書32章41節の、「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える」、という言葉と対応し、神の民に関するイメージ全体は、エレミヤ書32章に対応しています。ここで記されているイスラエルの状況は、申命記より古い部分で描かれている状況と全く別のもので、語り手の背後には、不従順の時代(王国時代)、裁きの時代(捕囚時代)が横たわっています。ここで律法と理解されている申命記の呪いの言葉は成就していて、そこから、語り手は、その眼差しを未来に向け、神の所有とされているその民に、まったき従順に至るための諸前提を創りだすことを通して、救いの業を告知しています。

11-14節にある「誰が天に昇らなければならないのか」という語法は、全く違う文脈で、既にアマルナ文書にも見られます。その他にも、バビロニアの『主人と奴隷の対話』、詩編139:8にも、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます」という言葉で用いられています。

「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という御言葉は、だれもが信仰を持って行おうとすれば実行することができること約束する慰めに満ちています。パウロは、これを、ローマ10:6-10において、14節の「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という言葉を引用し、イエス・キリストは主であると信じる「信仰の言葉」として使っています。
11-14節の言葉は、いずれの点においても、主の言葉が、イスラエルに向けられた究極のものであり、すべてを満たす規範であることを、指し示しています。それは、きわめて明瞭なものであり、人はそれを理解することができるし、それについて語ることもできるものです。前もって人間の側で、それをどこか遠く離れたところから目の前に持ってくるため、労苦する必要はまったくありません。必要なすべてのことは、主によって行なわれます。イスラエルに対し、主なるヤハウエがそれを唇に置き、また心に刻むからです。

それは、エレミヤ31:33の「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」、という言葉において表されています。すべてを満たす規範に関する、イスラエルに向けたこの神の呼びかけの表象には、この戒めが容易に従うことができるもので、イスラエルとその神との間に、これ以上新たな問題を持ち出す必要は何もないことが明らかにされています。
15-20節は、モアブ契約の伝統を記す最後の単元です。19節の「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」という、天と地を証人として召喚する定式は、宗主権契約の定式に則ったものです。君主と領主の契約では神と自然が呼び求められますが、ここでは申命記4章26節と同じく、天と地、すなわち自然だけが呼び求められています。なぜなら、大王は、主(ヤハウエ)ご自身だからです。詩編50:4の「神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる」、というみ言葉は、この契約における関係理解を示しています。

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