イザヤ書講解

65.イザヤ書60章1-9節『起きよ、光を放て』

イザヤ書60-62章は、第三イザヤの中核となる救済使信が述べられているところです。60章は完結した統一性のある本文で、近づきつつある救いがシオンに告知されています。本章は、内容的には、1-9節と10-22節に分けることができます。内容豊かな本章を一度で扱いきれませんので、二回にわたって解説することにします。第一部となる1-9節は、まず1-3節において、イスラエルへの主の到来において光が昇ることが述べられ、4-9節では、イスラエルまたはシオンへの諸国民の到来が述べられています。

「起きよ、光を放て」という言葉で始まる1-3節は、独創的で美しい語句が集められていて、非常に印象的な言葉で神の約束が語られています。これらの語句は待降節の礼拝においてよく朗読され、特別な位置を占めていますが、これらの言葉は、捕囚後のイスラエルの礼拝から生まれた活力ある言葉であることを覚えることが大切です。

主の顕現は、旧約聖書においては自然の随伴現象を伴って示されることが多く(士師記5:4-5、詩篇18:8-16)、戦争などの場面においてなされる場合が多いが、ここでは戦争の要素は全くなく、神の到来の随伴現象のうち、光が輝き昇ることだけが語られています。この表現は、新約聖書においてはヨハネ福音書において見られます。第三イザヤは、イスラエルへのヤハウエの到来を、もはや第二イザヤのように特定の歴史的出来事と結び付けて語ることはありません。それにもかかわらず、第三イザヤにとって神の到来とそれによって始まる救済の時はまだ未来にあります。それは、彼の師である第二イザヤによって期待されたような、すべての事柄を変え、すべての人に認められる救済の時は、彼の認識するところでは、バビロンからの最初の帰還によっては始まらなかったからです。この現実を踏まえて語る第三イザヤには、第二イザヤのようにもはや特定の歴史的出来事を前もって示すことができないので、彼の語る神の到来は著しく歴史からはなれることになります。だから第三イザヤにとって、まだ外国にいる人の帰還も、40章9-11節の場合のように、神の到来のときと一致することはありません。彼においては捕囚からの帰還はむしろ、救済のための神の到来に続く、シオンに対する諸国民の反応の中に見出されます。その反応は3節で述べられ4-9節において展開されています。

導入部の1-3節は、シオンへの呼びかけです。「起きよ」という呼びかけは、51章17節の「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ」という呼びかけと同じく、悲しみに疲れ果てた人々に向けられた「目覚めよ」との呼びかけであります。そして第二の呼びかけ「光を放て」には、喜びへの呼びかけの響きが混じっています。呼びかけられた人のその顔は輝き始め、そのようにして光を放てといわれています。それは、「あなたを照らす光は昇り」「主の栄光はあなたの上に輝く」という神の到来に伴う輝きとして語られています。

悲しみに疲れ果てている人が、輝き光を放てといわれても、その人自身にはそのような力も輝きも持っていませんから、彼の上に照らす光が必要です。主ご自身が彼を照らす光となり、神ご自身が彼の光として力を与える必要があります。神はそのようにあなたの上に輝く、その到来を約束されているのです。

このような喜ばしい到来はいつ起こるのか、それは未決定のままであり、光が昇るという表現によって強調される事柄は歴史的には確定されてはいません。しかしここではっきりと、光が昇ることが闇の中にいる民に約束されています。

しかし、シオンに光が昇り、そこを照らすことは、それ以外の他の世界は闇の中に残すことになることが2節において、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」という言葉で表わされています。「しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。」といわれ、シオンにだけ主の光が臨むことが語られています。

では光のない他の世界はどうなるのか、「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(3節)ようになるといわれています。光のない暗黒でしかない他の世界の人も王も、シオンの光をあこがれ、したい求めて、光り輝くシオンにやってくるというのです。

そのシオンへの行進、行列がどのようになされるか、その描写が4-9節においてなされています。イスラエルは、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」という素晴らしい主の約束を聞きます。悲しみに疲れ果てて倒れ伏していたイスラエルが「起きよ」という呼びかけを受けるだけでなく、彼らの上に輝く光、主の栄光を見て、彼らのところに諸国民が皆集まってくるという素晴らしい約束が二人称で「あなたのもとへ」と語られています。

また、単に諸国民がシオンにやってくるということが言われているのではありません。諸国民が彼らの息子や娘を大切なものを抱くように抱き、共にやってくるというのです。第三イザヤの時代、捕囚民の帰還が待望されていましたが、圧倒的多数の人がまだ帰還できないでいました。だからこのような帰還は神の新しい奇跡を意味していました。それは軍事的な介入によってなされるのではなく、諸国民は自発的にエルサレムに向かい、イスラエルの息子娘たちを遠くから連れてやってくるというのです。

しかも、諸国民は多くの財宝を携えてくるその光景が実に豊かに5-9節において描写されています。それは陸路でらくだの大群によって、「黄金と乳香を携え」、さらに、犠牲として捧げる「羊の群れ」の行進が続き、神の栄光のために建てられた神殿の栄光が、「わたしはわが家の輝きに、輝きを加える」(7節)という言葉で表わされています。

それは陸路からだけではなく、「海からの宝」(5節)が、「タルシシュの船を先頭に、金銀」(9節)を携えてやってくることが述べられています。タルシシュは、南スペインにあるフェニキヤ人の植民地です。それらはすべて、

あなたの神、主の御名のため
あなたに輝きを与える
イスラエルの聖なる神のために。(9節)

なされるものであるといわれています。こうして主の栄光が称えられるといわれています。「栄光をたたえる」「栄光(輝き)を与える」という言い方は、第三イザヤに特徴的な言い方です。第三イザヤの救済告知において、シオンの栄光をほめたたえるときに、またそのほめたたえることによって、神がご自身の栄光をほめたたえるという事が重要なのです。

このイザヤ書60章において、諸国民は、シオンの栄光をたたえる救済財の担い手、及びそれをもたらす者にすぎません。彼らはシオンの栄光のほめたたえのために仕える者に留まっています。このことは一連の詩篇の証言の中にも見られることです。

そのときには、わたしたちの口に笑いが
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。(詩篇126:2)

それは、「すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕える」(詩篇72:11)ことを語っています。これは、「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。」(イザヤ書45:22)と語る第二イザヤの諸国民への招きからは退歩したようにみえます。事実第二イザヤでは、諸国御民は、イスラエルの礼拝のために仕える者としてではなく、共に招かれるものとして扱われています。しかし第三イザヤにおいては、シオンでのイスラエルの神殿祭儀に、異邦人も供え物を携えて、それに仕える者としてやってくる、一段低い扱いになっています。しかしそれでもなお諸国民に対する救いが完全に見られないのでも、視野に入れられていないわけでもありません。どこまでも諸国民を含めた、共なるシオンでの主への礼拝であり、主の救いに預かる恵みが強調されています。「主の家に輝きに、輝きを加える」わざに、諸国民もまた与る、彼らがイスラエルの息子や娘を携えてそれに与るためにやってくる、その姿がまさに主の栄光を表わすものであることを心に深く刻み込みたく思います。

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