エゼキエル書講解

8.エゼキエル書9章1-11節『残りの者の裁き』

エゼキエル書8-11章には、エゼキエルが見た神殿の幻の体験が語られています。エゼキエルが見た幻は、エルサレムの神殿において行われていた偶像礼拝と、その罪のゆえに滅ぼされたエルサレムの姿です。

9章には、エゼキエルが見たイスラエルの残りの者を滅ぼす幻のことが記されています。エゼキエルが耳元で聞いたのは「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」(1節)と大声で語られる主の言葉です。エルサレムの罪を裁くために遣わされたのは7人の天使たちで、そのうち六人は「突き崩す道具」を手にし、一人は、「腰に書記の筆入れを着けて」いました。「腰に書記の筆入れを着けた者」には、「都の中…を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」と命じられましたが、「突き崩す道具」を手にした六人の男には、都の中を行きめぐり、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることも禁じられ(5節)、老若男女の別なく滅ぼし尽くすその徹底した裁きを「わたしの神殿から始めよ」(6節)と命じられています。

神の裁きが始められた場所が神殿であることは、その神の裁きが如何に容赦のないものであるかを明らかにしています。なぜなら、神殿は神が臨在を約束される聖所であり、神がそこで介入して救いがなされる場所であったからです。しかも、「わたしの神殿」と呼ばれるその「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ」(7節)と命じられるほどに、神はその裁きを容赦のないものとされることを固く決意をしておられます。聖所は救いを求めてくる者を庇護する権能を有していましたが、今やその権能を失い、略奪され、破壊されます。それゆえその庇護を求める者は、その庇護を得ることはできません。

そして、その裁きは、「神殿の前にいた長老たちから始めた」(6節)といわれています。民を霊的に指導すべき長老たちが、主を遠ざけ偶像崇拝を率先して行っていたからです。

主をのみ礼拝すべき神殿が、主をのみ礼拝するのではなく、他の神々を礼拝する偶像崇拝に用いられて汚されていました。神殿はもはや、主の神殿としての機能を果たしていませんでした。かつてエレミヤは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」(エレミヤ書7章4-6節)と語りましたが、そのエレミヤの警告にもかかわらず、主の正義を行わず、異教の神に従う偶像崇拝をしている民には、もはや神殿は不要となり、あっても汚されたままで存在していたに過ぎません。

ここに、主の神殿から破壊をはじめなければならない理由がありました。そして、その礼拝を率先して行った長老たちから裁きをはじめなければならない理由がありました。その裁きが徹底して行われるのを目撃したエゼキエルは、顔を伏せて、助けを求めて、「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」(8節)と祈りました。それは、ソドムの町の滅亡を告げられた時のアブラハムの祈りと同じ同胞を思う心情から出た祈りです(創世記18章)。その祈りは、民に主の裁きを語ることを使命とする預言者の持つ、民と共なる者として生きるという使命から来るものです。主の審判を徹底して語り続けたあのアモスも、主の災いの審判を告げられたとき、「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう、彼は小さいものです」(アモス7:2)と祈り、感動的な執り成しをしています。「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」(エレミヤ14:11-12、15:1)という主の御旨を聞き、苦悩するエレミヤと同じ苦悩をエゼキエルは共有しています。この罪ある者のために苦悩する姿は、十字架の主が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈り、その罪を背負い、その贖いをなそうとした姿とは同じではありませんが、民が悔い改めて救われるように祈りつつ、その罪問題にその民の只中にあって苦悩して共に戦おうとする預言者の生きざまが示されています。

そしてそれは、アブラハムが「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(創世記18:23)と、主に問うたその問いと同じ心情で、エゼキエルはその疑問を、「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」(8節)という形で表明しています。その疑問は、主に従って生きながら,現在苦悩しているバビロンにいる捕囚の民の疑問でもあります。

しかし、エゼキエルに告げられた主の答えは、「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する」(9,10節)というものでありました。

この主の言葉は、イスラエルの残りの者の存在はもはや赦されない、というものです。しかし、ここでは、流血と不正だけが裁きの理由として述べられています。だからといって、偶像礼拝の罪がまったく問題にされていないわけではありません。むしろ人の命を重んじない流血と不正は、宗教的腐敗堕落と密接な関係にあり、その表れとして、現実にはその両方の罪が裁かれています。こうして神は、これらの不正と罪に満ちている者の罰を減じる憐れみを拒絶しています。このように裁きを行う神には、本当に憐れみの心は残っていないのでしょうか。確かにこの神の決意の実行は、これまでの神の行為、忍耐深い誠実さを神自ら退けるものです。

しかし、神は、この一撃を加えることを楽しみにしているのではありません。「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。わたしは、野の若草のようにお前を栄えさせた。それでお前は、健やかに育ち、成熟して美しくなり、胸の形も整い、髪も伸びた。だが、お前は裸のままであった」(エゼキエル16:6,7)と語り、いまなお愛へと心を傾ける父であり続ける神であります。この神の本性の内奥を見る時、その裁きを実行する神の深い悲しみが隠されているのを理解することができます。

そして、その神の隠された深い愛は、「亜麻布をまとい腰に筆入れをつけている」書記が、「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」(4節)との主の命令を完全に実行したと報告する最後の言葉を記し(11節)、この幻の報告が結ばれていることによって明らかにされています。イスラエルの残りの者の存在は、もはや赦されないにしても、ただ偶像崇拝と不道徳と不正を嘆く者だけが、神の恵みにより救われたという事実が意味することは、実に深いものがあります。

そのように残された者の数が、何人であったかここに記されていません。民全体の罪が徹底して裁かれた状況の中で、その数はほんの一握りのわずかなものであったでしょう。そして、その主の取り扱いは、出エジプトにおける小羊の血による贖いによって救われた出来事に似ています(出エジプト記13章)。しかし、出エジプトの出来事においては、救いが述べられていますが、ここでは裁きが語られています。ここでその裁きを免れた者の額につけられたしるしは、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字タウの形が用いられました。それは二本の斜線でⅩの字のように変形された形をした文字です。この字を記す機能は、むしろ、その弟アベルを殺したカインの血の結果の罪を問い、彼をその報復から守る時に役立つようにつけられた「カインのしるし」(創世記4:15)と同じです。

それは、所有性を示す入れ墨ないし焼印のようなものです。そのしるしは、ヤハウエに属する者として、自らも罪あるものであるが、その罪ある者の中から神の恵みにより、わずかに残された残りの者としてつけられたものです。

それは、惨めな残りの者であっても、新しい救いの開始のために十分な数であります。神は、そのわずかなものから、真の神礼拝と真の信仰への道を用意されます。それは新しいイスラエルを集めるために記されるものです。

そのしるしは、やがて与えられる、「わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル11:17-20)という聖霊による再生の恵みを指し示すしるしとしての意味も持っていたことを覚えるべきでしょう。

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