エゼキエル書講解

4.エゼキエル書3章4-15節『イスラエルの家に遣わされた預言者』

エゼキエル書3章4-15節は、二つの出来事を記しています。4-11節は、エゼキエルに対する主の派遣の言葉が語られています。12-15節は、霊によって天に引きあげられ、ケバル川河畔のテル・アビブに住む捕囚の民のもとへ遣わされる、という体験の出来事が記しています。この二つの出来事は、エゼキエルという預言者の使命を明らかにしています。

4-11節に明らかにされている、エゼキエルに対する派遣の言葉は、その内容において、2章3,4節と関連があります。エゼキエルは、主に逆らう「反逆の民」に遣わされるが、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」(2章7節)という使命を与えられています。そして、エゼキエル自身は、「あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(2章8節)と告げられて、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」が記された巻物を食べるように命じられています。それは、彼が民に語るべき言葉であり、自らもその言葉に委ねて生きることが求められました。エゼキエルは御言葉をどのような民の反逆に遭おうとも、それを主の言葉として語ることにおいてのみ、主の預言者としての使命を全うすることができるし、預言者としての働きの光栄を知る道であることが示されていました。

3章4-11節に示される主の派遣の言葉は、エゼキエルの預言者として立つさらに厳しい現実を明らかにしています。エゼキエルが語るべき聴衆は、ここでも「イスラエルの家」であるといわれています。エゼキエルは、イスラエルの家に遣わされた預言者であることが、ここではっきりと再確認されています。言い換えれば、彼が語る使信は、ここバビロンいるイスラエルの民にも、エルサレムにいるイスラエルの民にも、聞くべき言葉として語られているということです。

そして、エゼキエルが語らねばならないのは、主が「わたしの言葉」といわれる主の言葉です。エゼキエルは「不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。あなたは聞き取ることができない不可解な言語や難しい言葉を語る多くの民に遣わされるのではない」(3章5,6節)と、どこまでもイスラエルに遣わされた預言者であることが明らかにされています。この点、諸国民の預言者(エレミヤ書1章10節)として立てられていたエレミヤとその使命において大きな違いがあります。

「しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い」(7節)といわれています。エゼキエルの聴衆は、このように主の言葉に心を硬く閉ざす民であるといわれています。彼らが預言者の言葉に聞かないのは、その言葉の意味が判らないからではありません。イスラエルの人にとって異邦人は、「不可解な言語や難しい言葉を語る民」です。言葉も心も通じないと考えられていた人々です。そういう人々に向かって語るのであれば、預言者の務めは、その意味が理解されずに困難に直面することも十分に考えられることです。しかし、エゼキエルの聴衆は、彼が語るその言葉の意味がわからないから、彼の言葉を退け、拒むのではありません。彼らがエゼキエルの言葉を拒むのは、「まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者」であるからだとその理由がのべられています。彼らは、自分たちを選び導かれる主に離反するものである故に、エゼキエルの言葉を拒絶するのです。むしろ、主の言葉に対して異邦人よりも劣るそのかたくなさを明らかにするために、「もしわたしがあなたをそれらの民(異邦人)に遣わすのなら、彼らはあなたに聞き従うであろう」(6節)とさえいわれています。

これはイザヤの思想を裏返しにしたような主の命令です。イザヤ書28章には、主の言葉を聞こうとしないイスラエルの民にふさわしく、「主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる」(11節)という言葉が記されています。

イスラエルの家は、異国の言葉を語る民以上に強情で主の言葉に聞こうとしないのです。だから、主は、エゼキエルにその現実を深く認識させるために、彼の顔を「彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする」(エゼキエル3:8-9)といわれます。主の言葉に対して、ダイヤモンドのように硬いというのは、「石の心」(エゼキエル11:19)と同じで、無反応で無表情ということを表わしています。ダイヤモンドのように喜び輝くというのではなく、反応がまったくなく無表情で硬いというのです。エゼキエルは、そういう民を前にして、たじろいではならないと言われ、彼自身は「すべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい」(3章10節)といわれています。これが巻物を腹に満たせ(3節)ということの意味です。エゼキエルは主の見張り人として「捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」(エゼキエル3:11)という主の命令に従って語り続けねばならないのです。

かつてエレミヤは、エルサレムの堕落について次のように語りましました。

エルサレムの通りを巡り
よく見て、悟るがよい。
広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか
正義を行い、真実を求める者が。
いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
「主は生きておられる」と言って誓うからこそ
彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。
主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか。
彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず
彼らを打ちのめされても
彼らは懲らしめを受け入れず
その顔を岩よりも固くして
立ち帰ることを拒みました。(エレミヤ書5章1-3節)

エゼキエルが直面する現実は、エレミヤが体験したのと基本的に違いはありません。場所は異なっても民のかたくなさ、主の言葉を拒むその態度には違いはなかったのです。

しかし、エゼキエルのなすべきことは、「わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておく」ことであり、「捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言い」続けることです。

エゼキエルはこれらの言葉を「人の子よ」と言う主の呼びかけによって聞いております。神の世界における栄光に比べ、弱い人間の被造性を「人の子」という言葉は示しています。それは、世界の主の光り輝く完全性と純粋さとが、惨めで弱い土の器に過ぎない人間を直撃するためです。エゼキエルは、自分の中に流れ込む神の力によって初めて塵の内より高められ、与えられる知識を聞き取り、また受け入れる力を得ることができます。もっぱら塵に生まれついた者として、常に「人の子よ」と呼びかけられるエゼキエルに神の言葉が託される時、人間という器が神的内容を入れるのに不十分な適性しか持たないということが余すところなく明らかになります。神の目指す意図は、そのような弱さを持つ「人の子」として召命を受けた人間が、言葉のうちに告げ知らされる神の意思とまったく一つになることです。エゼキエルは、与えられた巻物を従順に飲み下すことを通じて、彼の存在の一部となった御言葉の仲介者以外の何ものも欲しない、ということを「人の子」として自覚を促されます。

エゼキエルは、そのような者として神の言葉の担い手として立ち続けます。その彼を、今度は、霊が引きあげます。その時、彼は背後に主の栄光の御座から上るとどろきの音を聞くという体験をしています(12節)。それは1章において見た「あの生き物」の翼がふれ合う音であり、車輪の音であるといわれています(13節)。エゼキエルは霊に拘束され、その支配にある、主の言葉に仕える預言者であることを、この出来事は示しています。エゼキエルはその体験を、「わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた」(14節)と語っていますので、決して彼自身はそれを喜んで受け入れたわけではありません。強く捕らえる主の御手に委ねるほかなかったのです。エゼキエルは主の御手に委ねつつ、「彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた」(15節)のです。それは、不安の中でたたずんでいる預言者の姿を表わしています。エゼキエルが預言者として立った場所は、「ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚の民のもと」です。アッカド語のテル・アビブは「洪水による丘」という意味を持っています。それはニップル付近にある捕囚の民居住地であったと考えられています。エゼキエルがそこで、「ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた」のは、主の派遣の言葉に示される民の不信仰の現実の厳しさだけでなく、その町の置かれている厳しさにも向けられていたかもしれません。エゼキエルの「人の子」としての人間性の限界から見れば、そこに希望の光を見出すことはできません。しかし彼を遣わされた主の現実からみれば、やはり希望が示されています。そのようなところにエゼキエルは「主の御手」に捕らえられて、霊の導きによってきたのです。エゼキエルはその「人の子」の弱さの中で預言者として生き抜くことの中に、大きな希望が与えられています。「ぼう然とする」現実の中で、主が語られた「人の子よ、自分の足で立て」(2章1節)という言葉を思い起こす信仰が求められていました。そして彼を立たせたのは、そのような主の言葉であり、彼を導かれる主に対する信仰であったのです。

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