アモス書講解

7.アモス書4:1-5『サマリアの女』

ここには二つの別の預言が記されています。1-3節は、新共同訳聖書にも「サマリアの女たち」と表題が付けられている通り、サマリアの上流階級の婦人たちに向けて語られた言葉です。4-5節は、犠牲祭儀について述べられた言葉です。語られている内容は全く違いますが、敢えて一つにしてこのところを学ぶことにします。その理由は最後で述べます。

アモスは、首都サマリアの支配階級の婦人たちに向かい毒舌をもって、「バシャンの雌牛ども」と呼びます。この言葉は二重の意味を持っています。第一に、婦人たちが、血統正しい家畜になぞらえられて「高貴な種族」と呼ばれていたことに対する、皮肉としての意味があります。第二に、この婦人たちが虚しい空想にふけることを許さない、最後の姿を想起させる意味があります。

アモスは、この導入の言葉に続いて、貧しい同胞への虐げに対する厳しい非難の言葉を述べています。貧しい者への圧迫や虐げは、本来女性の役割や生活とは関わりのない事柄のように思われます。それは、男たちが直接なす行為であったからです。しかし、男たちの貧しき者への抑圧の究極の根拠が、婦人たちの贅沢な享楽生活への飽くことを知らない欲求にありましたから、アモスは彼女たちに向けてその非難の言葉を送っています。

その享楽生活の一端を、「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」と夫に向かって語る婦人たちの言葉によって、アモスは示します。家長である夫は、たしなみのない妻たちの度をはずれた生活の要求のため、その必要物を如何に調達するか、妻たちの顔色をうかがわねばならなかったのです。

人間の生の関係の転倒に対して、預言者は聖なる神を対置します。家の中で主人のごとく振る舞う婦人たちに対して、預言者は誰が本来の「主」であるかを示します。

今や傲慢な婦人たちに対してなされる、神の驚くべき審判による最後が語られます。

不従順な雌牛は、肉鉤で引っ張られ、列に戻されます。血統正しいバシャンの雌牛は屠殺された上、肉鉤で釣られる運命にあることにたとえられて、サマリアの上流階級の婦人たちも、戦争の敗北によって、強制的に捕囚の地へと追い立てられ、引いていかれることが語られているのかもしれません。

人間の無法な行為に対する神の審きの威力を、アモスはこのように語ります。しかし、この神の審きは、人間の個々の罪に対する審きとして語られているのではありません。神の神聖性の証明、貫徹として語られています。

神の聖とは、(1)神に対するあらゆる人間的な力に対する優越、(2)抑圧された者を保護して御手のうちに憩わせようとする神の意志、(3)生の秩序の絶対的な貫徹、をその内容としています。

4-5節の預言は、ベテルの宗教的な祭りの場で語られたものであると思われます。ベテルはヤロブアム1世がエルサレムに対抗して、金の子牛を礼拝するために建てた聖所のある町です。彼は「自分の造った子牛にいけにえをささげ、…イスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた」(列王上12:28以下)。

アモスの時代、秋の大祭の際、祭典に参加するためイスラエルの各地からの大勢の参拝者がベテルの聖所に集まりました。遠方から参拝にやってくるのは、第一に、聖所において彼らの神に対する真実と忠誠を証しするためでありました。第二に、その行為によって神と特別な近さに生きていることを自ら証明し、神からそれにふさわしい愛顧を受け、何らかの保証をいただくためでありました。彼らは、それに自分でふさわしいと思うことをなしました。

しかし、アモスは、そうした彼らの行為を、ただ神への不真実さと違反を示す罪以外の何ものでもないと断罪します。アモスは、「ベテルに行って神を礼拝せよ」とは言わず、「罪を犯せ」といいます。それは、期待と喜びに満ちてベテルに参拝にやってきた者には、雷鳴のごとく衝撃的な神の言葉でありました。

日本の西国巡礼に見られるように、敬虔の証しとして、イスラエルの人々は、ベテルだけでなくギルガルにも巡礼しました。当時すでに、いくつかの聖所を巡礼する祭儀的慣行が確立していたようです。アモスは、そうした慣習は、敬虔さを証しするものではなく、「罪を重ねる」ことでしかないときっぱりと断罪します。そして、個人的敬虔の証しとして守られる朝ごとのいけにえを捧げる礼拝行為、聖所への十分の一税の納付、友や貧しい人を招き、犠牲の食事を祝う自発的な供食等々と並べて批判されています。

アモスに批判されたこれらの行為は、民衆にとって最も尊い宗教的な行為であると考えられていたものばかりです。つまり民衆は、これらの行為を伴い祭りに参加することによって、神の臨在を告げる聖なる場所で、聖なる時を過ごし、聖なる神に近づき、その祝福に与れると考えていたのです。

しかし、アモスは、これらすべてが神に近づく行為ではなく、神からの離反であり、真の証しではなく、その欠如でしかないことを明らかにします。

ここに示されているのは、預言者アモスと、民衆との間にある祭儀的行事に関する価値判断の相違ではありません。人間の神に対する基本的なあり方(それは、礼拝だけでなく、生き方全体に関わる)の問題です。そこから派生する、神礼拝における預言者と民衆の理解の根本的な対立が示されています。

ここには新共同訳に表されていない「お前たちの」という言葉が強調されています。アモスは意識的に、「お前たちの朝ごとのいけにえ」、「お前たちの十分の一税」といい、「イスラエルの人々よ、それがお前たちの好んでいることだ」と告げています。この祭儀のやり方は、人間の必要から生じ、人間の満足に仕える利己的な営みでしかない、とアモスは見ています。それは、心の底から神を礼拝し、神に聞き従う礼拝ではなく、神に対して自己を主張し、神を犠牲と捧げものによって味方につけ、また神に義務を負わせようとする人間の願望から生まれた祭儀であることを、アモスは見ています。この祭儀の姿勢は、ヤロブアム1世の時代から少しも変わっていません。神殿の創建以来、イスラエルの礼拝に対する姿勢そのものに問題がありました。

アモスは祭儀そのものを否定しているのではありません。祭儀において表されたのは、本来、礼拝者自身を神の恵みに委ね、神に対して自己を主張しないということでありました。そこには神の恵みに服する人間の姿と同時に、審きをも神の意志と受けとめる人間の謙虚な姿が、当然求められます。人間の好みによる志向ではなく、神の意志と神の行為が貫徹されることを望む真の態度こそが重要となります。

しかし、アモスは、「それがお前たちの好んでいることだ」ということによって、イスラエルが自分たちの望むかたちでしか神を求めない、その望みに応える神を期待する根本的誤りを指摘します。彼らは神に対する関係を、祭儀的方法によって正当化し、それによって自分と他者に対する宗教的務めを果たしたと自覚し、それを誇る生き方をしていました。

それは、自らの力で神に近づくことであり、人間の努力や自己推薦により神に至る道でありました。しかし、それは、神に真実に近づく道ではなく、神から遠ざかる道でしかありませんでした。神に至る道への橋を人間自らが架けようとすることが、既に逆立ちした考えです。人間はただ生ける神に身を委ね、その力の中に生かされている存在でしかないのです。アモスの「それがお前たちの好んでいることだ」という言葉は、神に、そして神の定める方法に身を委ねて生きない、人間的な努力により神に至る道に対する、明快な神の拒否を告げる言葉でありました。

ヨハネ福音書4章には、イエスとサマリアの女の物語が記されています。新約聖書の記者は、このサマリアの女の姿に、アモスの預言の成就の一つの姿を見ているかもしれません。アモスが語った傲慢なサマリアの女たちの悲惨な未来が、ここに一つの成就として示されています。彼女は人々から見捨てられ、隠れてヤコブの井戸に水を汲みに来てイエスと出会います。そこで彼女と問答を繰り返す中で、イエスは彼女の生活の破れが神礼拝の問題にあることを示します。丁度、このアモスの祭儀に関する預言が、サマリアの女に関する預言に続いてあるように、イエスとサマリアの女の会話は、真の礼拝の問題に及んでいます。礼拝する場所がどこであるのかということが重要なのではなく、霊と真理をもって礼拝することが重要であり、その時が来るとイエスは告げておられます。人間が神に近づく道でなく、神の啓示を通して、神が人間に近づいてその道を示し、そこから真実な礼拝を守る道を、人となられた救い主イエスが用意されました。この道は、アモスの預言においても明らかにされています。「お前たちの好んでいること」による礼拝、神との交わりではなく、御言葉に聞き、神の導きに委ねる、その礼拝のあり方は、旧約時代も新約時代にも違いがあるわけではありません。違うのは、その約束の成就、神の近さ、場所に限定されないその開かれた礼拝の祝福の大きさです。それは、エルサレムに対抗して、聖所をわざわざ人間の手で作る必要のない、神から開かれた礼拝です。

旧約聖書講解