列王記講解

34.列王記下23:31-25:30『ユダ王国の崩壊』

列王記最後のユダの王ヨアハズからゲダルヤに至る部分は、王国の崩壊の姿を描いている。この期間ずっとエルサレムにいたエレミヤは、国に起ころうとしていたことを明確に見抜いた数少ない人物の一人であった。彼は恐れることなく、はばかることなく、王国の滅亡を語った。だが、彼は、王たちやその助言者たちに強い影響を与えることができなかった。エレミヤは孤立し、彼らに迫害された。エレミヤはヨシヤを畏敬していたが(エレミヤ22:15-16)、彼の後継者たちに対しては、そうでなかった。

ユダとエルサレムの滅亡を不可避とする決定的転機は、ヨシヤの死(前609年)であった。それは、彼の努力目標であった独立と国家的な自負心を消滅させ、ユダを事実上エジプトの属国としてしまった。しかし、ヨシヤの計画が挫折したとするなら、エジプトのファラオ・ネコの計画も同様であった。彼はメギドでヨシヤを破った後、北に向かって、アッシリアを助けるため進軍したが、アッシリアの最期の敗北を防ぐことに失敗し、前605年のカルケミシュの戦いで、彼自身、決定的な敗北をバビロンに喫した。その敗北の事情は、エレミヤ書46章1-12節に報告されている。ユダの滅亡は、バビロンとエジプトの戦いに巻き込まれたことに、直接の原因がある。ヨシヤの死後、ユダは急速に衰退していった。それは、ユダの指導者たちの指導力の低下に、原因があった。彼らの関心は、神から課せられた使命ではなく、もっぱら自己保身と幸福の追求に向けられていた。彼らには、国を守る真の勇気もなく、その神信仰と自己信頼は腐食してしまっていた。この時代を生きた王たちは、バビロンとエジプトの、武力外交の人質に過ぎなくなっていた。

ヨシヤの後、彼の息子ヨアハズ(エレミヤは彼のことをシャルムと呼んだ)が23歳で王となった。彼は、僅か3ヶ月間だけエルサレムで王位にあったとあるが(23:31)、彼は兄エルヤキムを差し置いて『国の民』によって選抜された(23:30)のは、彼の方が有能で、父ヨシヤの政策を推進できると期待されたからであると思われる。パレスチナの覇権を確立しようと望んでいたエジプトのファラオ・ネコにとって、父ヨシヤの政策を引き継ごうとするヨアハズは、不都合な王であったので、彼は滞在先のハマテ地方のリブラからユダに介入し、ヨアハズを捕らえてエジプトに送ってしまった(23:33-35、エレミヤ22:10-12)。ないがしろにされていたエルヤキムは、民に課税して、集めた貢物を納めてネコに取り入ったので、ネコは彼を傀儡王とし、彼の名をヨヤキムと改めさせた。この名前の変更は、彼がエジプトのファラオの従属者であることを示すためのものであったが、ネコはヨシヤの改革を支持した人々の気に入るように、その名を与えたと思われる。改名前のエルヤキムのエルは、カナン人が用いた神を表す一般の名であるが、それがヤハウエを表す形式に変えられたからである。

ヨヤキムは、25歳で王となったといわれているので(23:26)、ヨアハズより2歳年上の兄であったのであろう。ヨヤキムは、しばらくの間はエジプトへの忠誠を保ち、しかし民に対しては暴君として振舞っていた(23:37)。

エレミヤは、彼の暴君ぶりを、「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て/大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け/レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。あなたは、レバノン杉を多く得れば/立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし/正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ/わたしを知ることではないか、と主は言われる。あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。」(エレミヤ22:13-17)と批判している。

彼の治世の時に、バビロン王ネブカドネツァルが攻め上ってきたとあるが(24:1)、彼がこの時(前605年)、カルケミシュでエジプトのネコを破ったため、ヨヤキムは、すばやくネブカドネツァルに屈服し、彼の僕となったのかもしれない。しかし、「ヨヤキムは3年間彼に屈服したが、再び反逆した」(24:1)といわれている。これは、前601年に、ネブカドネツァルがエジプトに対しさらに軍事行動を起こした時は、ネコに破られたので、これを見たヨヤキムが、ネブカドネツァルの力を見くびって、彼への貢納を止め、再びエジプトに寝返ったのであろう。実際、ネブカドネツァルは、エジプト戦後の体制の建て直しに手間取り、直ぐには正規軍を出すことができず、「カルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わして」(24:2)、時間を稼がざるを得なかったと思われる。

列王記は、これを「主は」(24:1)といって、ユダの背信の罪を裁く器として、これらの部隊が用いられたことを説明している。それは、ユダヤ人がどのようにしてネブカドネツァルとネコとの戦いに巻き込まれ、最後の災いに至ったかを示している。その滅亡への道は、20章17節の預言の成就として24章2節で述べられ、その災いの原因が、3-4節で、マナセの罪にあるとステレオ・タイプ的に述べられている。4節は、マナセの「罪のない者の血を流した」責任を述べているが、前述の通り、エレミヤはヨヤキムの「不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行った」事実を、で厳しく断罪している(エレミヤ22:13-17)。

24章5-6節は、列王記における、ユダの王の年代記の最後の言及となっている。これ以後の年代記述は、バビロンの年代に従ってなされている。

ネブカドネツァルは、前598年12月になって、ようやくパレスチナに到着した。その前後に、ヨヤキムは死んでいる。列王記は、その死の原因について、何も記していないが、エレミヤ書22章18-19や36章30節の記述から推測すると、おそらくゲリラ隊との戦闘で戦死したか、国内の親バビロン派に暗殺されたのであろう。

ユダヤ人の多くの人々は、ヨシヤの死後生じた不幸の間、ずっと間違った楽観主義に陥っていた。彼らは、申命記律法と改革を、神が、エルサレム神殿とそれを支える共同体との維持を、全面的に約束された、という意味において解釈していた。それ故、その反対を示すあらゆる状況があるにもかかわらず、エルサレムとユダは、困難を潜り抜け、害を及ぶことはないと信じていた。しかし、エレミヤは、エレミヤ書7章1-15節で、その見方が間違っていることを厳しく批判している。列王記もエレミヤとほぼ同じ立場に立って、王たちの歴史を批判的に見ている。神は、ご自分が民と結ばれた契約を、民が真に受け入れることを常に望んでおられたし、その様に要求された。だが、彼らは、契約を尊重することを、常に拒否した。彼らは、忠誠を告白することがあっても、実際にはカナンの習慣や宗教的風習に従った。それは、彼らが本当に愛していたのは、カナンの価値であったことを示している。マナセとヨシヤは、この点でその両極にいた。マナセは、カナンとそれが表しているすべてに、心からの忠誠を尽くした。ヨシヤは、改革をし、その考えを一掃しようとした。その改革は、ユダの宗教的習慣と神殿の外的な改革に留まらず、内的にも主なるヤハウエへの愛に根ざした回心を伴うべきであった。しかし現実の歴史は、ヨシヤの死後、そうした回心が起こっていないことが、明らかになった。預言者エレミヤは、この点で、ヨシヤの改革は失敗であったと見なしている。マナセの罪がなお残ったことは、ユダに下る災いの根拠となった。

ヨヤキムの死後、息子ヨヤキンが18歳で王となっているが(24:8)、彼は、僅か3ヶ月間王であったに過ぎない。この期間に、エルサレムは、初めてバビロンに攻略された。それは、バビロンの記録によれば、前597年3月16日のことと考えられる。エレミヤは、ヨヤキンのことをエコンヤ(エレミヤ24:1)あるいはコンヤ(22:24)と呼んでいる。9節には、父が行ったように、彼も悪を行ったとされているが、僅か3ヶ月の短い治世で、しかもバビロンに包囲されて、悪を行う時間的余裕はなかったであろう。

ここでも「主が告げられたとおり」(13節)と、下20章17節の預言の成就としての捕囚とエルサレム神殿の破壊が、言及されている。ネブカドネツァルによるエルサレム神殿の什器の毀損や持ち出しは、神殿が本来の礼拝目的に供されなくなっていることに対する、主の裁きとして記されている。

ネブカドネツァルは、ユダの状況を新たに秩序付け、バビロンへの抵抗が燃え上がるのを防ぐため、ヨヤキンを退位させ、彼の家族や廷臣たち、多くの国の指導層を捕囚として連れ去った。その時、高級官吏や貴族、要塞建築に携わる職人たちも、一緒に連れ去られた。捕囚とされた者の列王記の記す数には、誇張があると思われる。エレミヤ書52章28節によれば、「ネブカドレツァルが捕囚として連れ去った民の数をここに記すと、第七年に連れ去ったユダの人々が3,023人」と言われている。こちらの方が正確であると思われる。この捕囚の人々の中に、預言者エゼキエルも含まれていたと思われる(エゼキエル1:1-3)。捕囚とされバビロンに連れ去られたヨヤキンは、ネブカドネツァルが死ぬまで、37年間囚人であった(25:27-30)。しかし、ヨヤキンは獄に捕らえられていたのではなく、軟禁されていたのであろう。その生活は、かなり自由が保障され、「王と食事を共にする」(25:29)ほど優遇されていた。

ネブカドネツァルは、ユダがエジプトとの緩衝国となることを期待したのか、ユダを差し当たっては国家として解体し、バビロンの属州に編入することをせず、ヨシヤのもう一人の息子でヨアハズの実弟であったマタンヤを傀儡王とし、名をゼデキヤ(「ヤハウエは正しい」の意)と改めさせた。

バビロンのエルサレム攻撃に先行する、ゼデキヤの治世の9年のことについては、ここでは何も語られていない。その時代の細かいことについては、エレミヤ書に記されている。エレミヤは、この時代、エルサレムに住み、政治的な事柄に、積極的に参与している。ゼデキヤは、バビロン王の従属者であったが、有力な貴族グループが、背信を絶えずしつこく勧め、エジプトが啓発を止めようとしなかった陰謀に加わるよう迫ってきた。エレミヤは、こうした親エジプト派に、敵対者としての立場をとり、親エジプト派の人たちから恐れられていた。このため、親エジプト派は、エレミヤが公衆の面前で語ることを禁じ、ついには彼を逮捕させ、死に至らせよとさえした(エレミヤ38:4-5)。エレミヤは、バビロンの支配を、イスラエルの罪に対する神の裁きとして受け入れるよう説いたが、結局、ゼデキヤは恐ろしい結果につながる親エジプト派と運命を共にした。ネブカドネツァルに敗れたエジプトのファラオ・ネコは、前593年に死んだ。プサンメティクス2世がその後をついだが、彼はバビロンに対しては、ほとんど何もしなかった。前588年にホフラ(エレミヤ44:30)とエレミヤが呼んだエジプトのファラオが、彼の後を継いだ。彼は、できるだけ迅速に、バビロンの攻撃をかけた。25章1節に記される前588年のバビロンに対するゼデキヤの反乱は、このエジプトの攻撃が原因であったらしい。

これに対する、ネブカドネツァルの反応は素早かった。彼は、遅くとも587年春までに、エルサレム、アゼカ、ラキシュの三要塞を除くユダヤ全土を征服した(エレミヤ34:7)。ラキシュの城門の塔の瓦礫の中からは、このときの絶望的な状況を告げる司令官に宛てた報告文が、発見されている。その一つは、次のようにアゼカの陥落を継げている。「われわれはラキシュの信号に注意しています。アゼカの信号はもはや見えません。」前588年のうちにラキシュは征服され、発掘が示すように、火によって破壊された。ネブカドネツァルは、エルサレムの包囲を、短期間中断しなければならなかった。ゼデキヤを支援するために急行して来るエジプト軍に、反撃しなければならかったからである(エレミヤ37章)。しかしその後、半年の包囲の後、飢餓と伝染病で城内が疲弊した時、バビロン軍は城壁に破れ口をうがつことに成功し、一気にエルサレムになだれ込んだ。前587年7月29日のことである。ゼデキヤは、ヨルダン川の東岸に逃れようとしたが、エリコでバビロン軍に捕らえられ、ネブカドネツァルが駐留しているシリアのリブラに護送された。「彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。」(25:7)といわれている。ゼデキヤが生きていたときに見た最後の光景は、自分の息子たちが、ネブカドネツァルによって殺される場面である。その光景が目に焼きついたままの状態で、その目が抉り出され、その記憶は彼の脳裏に消えがたく残った。ネブカドネツァルは、王宮とエルサレムにある他の大建築物に火を放ち、防衛施設を毀損した。神殿の炎上と共に、おそらくその中に収められていた「契約の箱」もこのとき焼失したであろう。いずれにせよ、これ以後、箱についての言及は、聖書に見出せなくなる。彼は、神殿の破壊によって、この聖所と結びついたすべての希望を奪い、そこから生じる新たな抵抗の芽を摘み取ろうとしたのであろう。

列王記の記述は、町の破壊よりも神殿の破壊に注目し、その状況を詳細に伝えている。申命記史家の関心がそこにあるからである。それは、神殿それ自身のためではなく、神がイスラエルに委ねられた使命の象徴であったからである。神の民であるというこの使命は、他のすべての国々にあって、その真の地位をイスラエルに与えたのであった。それは、イスラエルが他のすべての国々と異なるものとなるべきことが要求されていた。しかし、イスラエルはこの要求にしたがって生きることができなかった。また、そのように生きることを好んでいないということが判明した。こうして、先ず北王国が滅亡し、ユダが滅亡した。列王記は、常に神の選びとイスラエルの応答の外的しるしとして描いてきた建物、エルサレム神殿の崩壊は、少なくとも王たちの時代に存在したような形での契約の民が滅んだことを示した。

バビロンは、住民の社会構成の組換えに着手し、前597年に、残っていた上層階級や、有力者層832人が新たに捕囚としてバビロンに連れ去られた(エレミヤ52:29)。さらに前582年の第3回捕囚で、745人がバビロンの送られた(エレミヤ52:30)。エレミヤの記録によれば、バビロンに捕囚として送られた総数は、4,600人である。ユダに残ったのは、主として下層の地方居住者であった。バビロン人は、アッシリア人のように異民族の強制移住による混血策は取らなかった。むしろ、捕囚に送られた人々の不動産を、土地をもたない残留民に貸し与えた。上層階級の流刑は、明らかにユダにとって大きな打撃であった。しかし、人口比から見れば、捕囚にされた者はわずかな割合を占めるに過ぎない。ネブカドネツァルは、リブラで多くの祭司、官吏、廷臣、また60名ほどの指導住民を処刑した。彼らは、バビロンから独立運動を指導した者であり、その謀反の責任を問うためであろう。これらの政策は、バビロンへの反抗を不可能にするためのものであった。

ネブカドネツァルは、最終的にはユダから独立を奪い属州としたが、アッシリアのような征服策は取らなかった。むしろ彼は、ユダヤ人の中からこの地の総督を抜擢した。それがゲダルヤである。彼は、ヨヤキムの手からエレミヤを保護した高級官吏アヒカムの息子である(エレミヤ26:24、下22:12,14)。ゲダルヤは賢明な人物であったが、イシュマエルという男に、はっきりしない理由で暗殺されてしまった。彼は、ネブカドネツァルの報復を恐れてエジプトへ下った。彼らはエジプトに逃れることをいさめたエレミヤの忠告を聞き入れず、エレミヤをも無理やりエジプトに連れて行ってしまった。ネブカドネツァルが、彼の任命した総督の暗殺に対し、いかなる反応を示したか、彼がゲダルヤの後継者に誰を指名したのか、聖書はその後の消息について沈黙している。

列王記は最後に、ネブカドネツァルの死後、彼の子が37年間囚人であったヨヤキンを解放したことを告げている(25:27)。列王記は、これによって、一つの希望を読者に告げている。それは、契約の民の将来を暗示するメッセージとしての意味を持つ。彼らは、ヨシヤ王の子孫としてのユダの王を持っている。もし彼らが、彼らを教えるために与えられた、王の歴史のこれらの教訓から学ぶなら、神は、なお彼らを用い、契約の民を再建される、という希望である。捕囚の民の間に生きた預言者は、そうしたメッセージを説いた。例えばエゼキエルは、国は滅びたが、神は、それに新しい息吹を与え、よみがえらされるであろうことを告げた(エゼキエル37:1-14)。イザヤ書40-55章にも同様のメッセージが説かれている。

イスラエルに、神の言葉が残った。それは、神への真の立ち返りと希望が何であるかを、この王たちの滅亡を通し、神は、われわれに教えられたのである。それは、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)という信仰である。

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