イザヤ書講解

43.イザヤ書44章24-28節『わたしは廃墟を再び起こす』

イザヤ書44章24-45章7節は、キュロスによる解放を告げています。この託宣には、神認識に新しい光を投げかける重要な意味を持つ言葉が含まれています。イザヤ書44章24-28節は、キュロスへの託宣の導入部に相当しますが、この部分は、法廷弁論の中で神が異邦人の神々に対して語ったことを前提にしています。すなわち、神が真実であることと唯一であることは、神の言葉と行為に一貫性において明らかになるということです。神は言葉と行為の一貫性において歴史の主です。そして神の一貫性は、神がその使者(預言者)を通して民に発した言葉を実現させることにおいて証明されます(44章26節)。それ故、神は、諸国民の神々が様々な仕方で発する言葉を破綻させられることにおいて、それらの神々が歴史の主でないことを明らかにされます(彼らは神でない!)。諸国の神々の言葉は実現せず、それらの神々に仕える占い師も知者も愚かにされる(25節)。神はご自身が歴史の支配者であることを、そのようにして明らかにされます。ここでは、そのような歴史の主として、神はエルサレムの再建を命じられたことが語られています(26節後半)。

この歴史の主は、創造主です。27-28節に見られる唐突な、簡潔な言葉は、創造者である神が歴史の支配者であることを明らかにしています。「深い水の底(深淵)に向かって、乾け」と命じることができる方は、ペルシャ王キュロスに向かって、神の計画の中にあることを遂行するよう命じることのできる方でもあります。このように創造主と贖い主は同じ神であることが明らかにされています。

イスラエルに呼びかけているのはこの神です。イスラエルがここで聞くのは、この創造者にして贖い主の言葉です。預言者は2節で用いた、「あなたを母の胎内に形づくられた方」という言葉を24節で繰り返し用い、その方こそ、「あなたの贖い主」であると告げています。この「あなたの贖い主―あなたの創造者」という神の二つの称号は、一本につながる救いの線を示し、一貫した歴史、民と共にある神の歴史を言い表す《鍵語(かぎご)》として用いられています。

「わたしは主、万物の造り主」(24節後半)は、原文を忠実に訳せば、「わたしは主(である)、すべてのものを造りつつ」となります。イスラエルの造り主(母の胎内に形づくられた方)にして贖い主である神が、イスラエルに向かって語る言葉は、万物の創造者として自分を称えることから始まります。「自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」という翻訳は少しわかりにくい感じがします。ここでは「わたし」が非常に強調されて用いられています。勿論この場合の「わたし」は、主のことです。「独り」は、原文は「わたし一人が」となっています。この独特な文体は、45章5節において次のように繰り返されています。

わたしが主、ほかにはいない。
わたしをおいて神はない。

このような神の自己賞賛、自己讃美の表現は、第二イザヤ以前の旧約聖書には確認できない、第二イザヤに特徴的な表現です。このような神の自己賞賛は、多神論的なバビロンにおいて、神々が他の神々に対し自らの偉大さや権力の大きさ強さを誇る形で見られます。しかし第二イザヤは、その競争の無意味なことを明らかにするために、ただ独り栄誉を持つ方を指し示します。彼は、神の唯一なることはその偉大さや力の誇示によってではなく、ご自身が存続し続けることにおいて実証されるべきだといいます。そのことは44章6節の「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」という神の自己証言において明らかにされていますが、神の存続を実証するのは、その言葉と行動が信頼できる形で一致する歴史の一貫性においてであると第二イザヤは語ります。

諸国の間にも、バビロンにも様々な形の預言や占いが存在しますが、それらはこの第二イザヤが示す基準に持ちこたえることができません。バビロンやアッシリアの王たちへの託宣には、勝利に関するものは多数見られますが、決定的敗北や崩壊を預言するものがありません。しかし、捕囚以前のイスラエルの預言者たちは、主の言葉に固く立たない王国の崩壊を語りました。神の約束は必ずしも王たちの望むような形では示されない。恐るべき崩壊について語る預言者の言葉が現実となったことを第二イザヤは目撃し、そこに表される神の働きの真実とゆるぎない御言葉の確かさを見てきました。それは預言者自身にとって決して喜ばしいこととは思えなかったのですが、その恐るべき崩壊を目撃することによって、神とその働きの真実さについて成熟した深い認識へと導くことになりました。神は約束された災いを実行された。預言者の災いに関する預言は生ける神の言葉であることがそのことによって明らかにされた、という深い認識を第二イザヤは持ちました。

神は、「僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。」(26節前半)預言者はこの深い神認識の基づき、エルサレムの再建について、その都市の名を挙げて初めて語ります。神はご自身が歴史の主であることをその言葉と行動の一致において実証されます。神はご自身が真実で唯一の神であることを、その審きの言葉を実行されることにおいて明らかにされました。しかし今度は、救いの言葉を実行することによってご自身の真実を明らかにされます。

エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い
ユダの町々に向かって、再建される、と言う。
わたしは廃虚を再び興す。

エルサレム再建がこのような神の言葉によって約束され、未来への希望が開かれています。審判預言の成就において辱められ、希望を失っていた者にとって、この神の言葉は実に慰めに満ちた希望の言葉となります。

このように約束する神は創造者であり歴史の主です。

深い水の底に向かって、乾け、と言い
お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う。(27節)

神はこのように語って、自ら創造された世界の様相を一変させることのできる創造者として今も働いておられることを、第二イザヤは時代の民に語ります。神は、洪水によって深く深淵に投げ込まれた世界を、その深い闇から希望ある場所へと変える働きをその言葉と共に始められる方です。その神が新しい前代未聞のことを命じることができる歴史の主として28節において次のように告げておられるのです。

キュロスに向かって、わたしの牧者
わたしの望みを成就させる者、と言う。
エルサレムには、再建される、と言い
神殿には基が置かれる、と言う。

神は、この歴史の主として異邦の王もご自分の民の救いのために用いることがおできになります。ペルシャ王キュロスは、「わたしの牧者」と呼ばれています。彼は主の牧者として、「わたしの望みを成就させる者」となるといわれています。この場合、ペルシャ王キュロス自身がそのようなことを意図したとか、主の僕として改宗者となるということが述べられているのでありません。「わたしの僕」と呼ばれているのは、ここではイスラエルだけです(45章4節)。キュロスは「わたしの牧者」とは呼ばれていますが、主の僕とは呼ばれていません。彼は「主が油注がれた人」(45章1節)として、メシア的な王の働きをこの歴史の中で行うものとなりますが、それはどこまでも、「わたしの僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために」行う業であり、「わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった」(45章4節)といわれているように、彼自身は主を信仰によって知ることはありませんでした。主なる方がどのような方であるかも知ることはありませんでした(45章5節)。

しかし主は、「わたしの望みを成就させる者」としてキュロスを用いられます。キュロスのバビロン侵攻は、捕囚の民のエルサレム帰還と神殿再建のために用いられることがこの導入の結びとして語られています。(28節)

わたしたちの救いの希望も、創造の神がこのように贖いの神として、この歴史の只中に介入を約束され、実現されます。それはまさに、イエス・キリストの救いの中に鮮やかに示されています。

旧約聖書講解