ホセア書講解

10.ホセア書4章4-10節『祭司に向け荒れた主の告発』

4-14節は、祭司に向けて語られている。4-8節は、祭司の罪とそれに対する叱責の言葉が語られている。9-10節に威嚇の言葉が述べられている。そして、11-14節は威嚇と破滅が語られている。

ホセアがこれらの言葉を語ったのは、祭司、預言者、民が、祭儀のために集まる聖所(サマリアかベテル)であった。これは、神礼拝のために集まる場所において、民と神の仲立ちのつとめをする祭司に向けて語られた言葉であるだけに、重大な意味を持つ預言である。

ホセアは、「もはや告発するな、もはや争うな」という激しい口調でホセアは、祭司に呼びかけている。これは、ホセアが民の罪を告発するその言葉にあわせて、その罪を民に押し付けて、自分はそれから免れようとしたり、免れると考えている祭司に向けて、決して彼らがその罪から免れることはできないことを明らかにする目的で語られた、神の言葉である。神以外に、何人も告発しうる者はない。すべての者が、祭司を含めて、神に対して責任を問われている。しかし今や、祭司は神だけが行われる裁判に呼出されているのである。

この激しい言葉は、最初から祭司のあらゆる特権を奪い取っている。多く与えられた者は、神から多く求められる、これが聖書の示す原則である。民への責任がある霊的指導者は、それ故に他の者より鋭く神の審きにあう。自ら神の言葉に聞き、その言葉によって、確固とした歩みをなす者だけが、御前に相応しい指導者となることができる。

ところが、「昼、お前(祭司)はつまずき 夜、預言者もお前と共につまずく」(5節)と言われる。神と人との間にあってとりなす祭司も預言者も共に「つまずく」と言われる。

ここでホセアが祭司といっているのは、「お前は」と個人として呼びかけられているから、恐らく聖所の大祭司のことであろう。しかし、7-8節で「彼らは」と三人称複数形に変えられているので、ここでは大祭司は祭司を代表してその罪を叱責されているのであろう。ここで、祭司と並んで預言者があげられているのは、聖所において祭儀上の職務を持つ預言者のことであろう。ホセアは、これらの預言者と自らをはっきりと区別する。ホセアは、自らの預言者のつとめが、イザヤ、ミカ、エレミヤなどと同様に、神の召命によって与えられたものであることを自覚するが故に、その召しにふさわしく、これらの預言者と闘っているのである。この召命観こそ、国家宗教化した宗教と、その職務にある者に対する戦いの原動力であった。

ホセアは、これらの指導者を「民を破滅させる者」として、その責任を問うている。ホセアは、6節で「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる」といって、霊的指導者のもう一つの責任を強調している。祭司・預言者という霊的指導者の民に対する義務は、神に対する義務を示すものであったし、その逆もまた真であった。

「沈黙させられる」は、原意を弱めた翻訳で、ここは「滅ぼされる」と訳すべきである。即ち、「わが民は知ることを拒んだので滅ぼされる」とすべきである。この言葉を語った神の真意は、滅びを告げることにあるのでない。迷い滅びへの道を歩む「わが民(アンミ)」に対して、憐れみを告げる言葉である。祭司は、祭儀の技術を取り扱うことをその職務とするだけでなく、「神を知ること」、即ち、生ける神との内面的な生の交わり・関係に生きることを、教え伝える任務を委ねられていた。しかし、祭司が、この本来の知識を放棄してしまったとき、主の民は「神を知ること」ができなくなり、知ることを放棄することになる。

ホセアは、祭司がヤーウェ宗教の本質を拒否していることを、直接非難している。ホセアはヤーウェに対する内面的な信仰を欠如した形で祭儀だけを執り行うことで、宗教そのものが失われていくことを、鋭い目で見つめている。ヤーウェに対する内面的な信仰を欠く祭儀の組織化と自己目的化とは、ヤーウェ宗教の死を意味する。ホセアにとって、神との関係の内面性こそ、ヤーウェ宗教の固有の本質であって、それが失われることは、ヤーウェ宗教の危機を意味していた。預言者と祭司が「知ることを拒む」ことは、その職務の資格喪失を意味していた。それゆえ、主は「わたしもお前を退けて もはや、わたしの祭司とはしない」(6節)と宣告する。

祭司の任務は、祭儀、儀礼を執り行う「祭司の知識」を育むだけではなかった。神から委ねられた教え(律法)は、すべての人々に神(ヤーウェ)の本質を知らせることであった。しかし、祭司は、祭儀を行っている間に、この任務を忘れてしまっていた。そして、主もまた「わたしもお前の子らを忘れる」と宣告される。

その罪に対する叱責は、ひとり大祭司にのみ向けられたのでない。7-8節において、祭司全体に向けて告げられている。ホセアは「彼らは勢いを増すにつれて ますます、わたしに対して罪を犯した」と主の言葉を告げ、祭司全体とその任務について、根本的な判断が述べられている。この激しい叱責の言葉は、祭司自身が失ってしまっている祭司職の尊厳を、はっきりと指し示す。祭司は宗教生活の主人ではなく、民のための神の奉仕者である。霊的指導者として、神からの教育的責任が彼の手に置かれており、民を神に導くこと、神の本質と意思を民に知らせること、それが祭司の栄誉であるのに、それを祭司は軽率にも忘れ去ってしまっていた。それゆえ、神は断固たる態度で、「彼らの栄光を恥に変える」と宣言される。

罪と罰とが対応しているが、それは、機械的な報償観を示すことが目的ではなく、罪そのものの中に神の審きが働いている、という深刻な預言者の認識が示されている。

そして、この祭司の義務の把握と罪の本質に対する透徹した洞察は、8節において更に深められていく。祭司は民を教育するという高い任務、使命を忘れ、それをなおざりにしただけでない。彼らは、民が罪を犯すこと犯し続けることに期待する、個人的関心さえ示していたというのである。祭司は、犠牲にされる動物の下がりもので生活をしていた。それゆえ、民の罪が多ければ多いほど、祭司が肉の配当に与る罪祭の数は増える(レビ記6:19)ことになる。祭司は、その任務を、もはや稼ぎの手段としてしか見ていないエゴイストと化してしまっていた。このように享楽的な祭司が、民の霊的な向上や改善に関心を示すことはない。むしろ、罪にしか関心を持たないのは、当然である。

神への真の責任意識を欠く者が、その職務に留まるとき、そこに現れるのは低級な本能行為だけである。そこでは宗教も感覚的なものへと転落し、パンを得る為の職業の領域へと引き降ろされることになる。ホセアが、宗教生活について責任を負う指導者としての祭司に対して、神の鋭い弾劾を投げつけているのも当然である。

指導者であれ、指導される者であれ、両者を結びつけているものは、神に対する同等の責任である。指導する者の権威を基礎付け、それを保っているものは、より高次の責任であり、仕事(召命)への熱心さだけである。

4-8節の激しい叱責の言葉に関連して、9-10節の威嚇の言葉が来る。

ここでは民に対する祭司の特別な立場は拒否されている。祭司自体は、民より立派であるわけではないから、祭司には民を訴える権利はなく、したがって神の審きにおいても民よりよい運命を期待することはできない。神の前には、特権はなく、すべての人は、例外なく自らの生について神に責任を持ち、その「行いに従って」神から報いを受ける。

このような神の報いの意味は、10節において明らかにされる。ホセアはこれを8節でのべた犠牲の祭儀の罪と結びつけている。神の罰は、祭司をその罪に委ね、飽くことなく肉欲の悦楽の虜とする。その罪の飽くことなき衝動の奴隷とすることによって、その者を、自らの存在の無意味さを味わう疑惑の中に投げ込む。彼らは食べても満足せず、「淫行にふけっても子孫を増やすことはできない」という。ここで言及される淫行とは、カナンの豊穣宗教からヤーウェ祭祀の中に入ってきた祭祀的姦淫の習慣のことで、これは、神的存在の出産行為を真似ることで、人間や動物の豊穣さの祝福が得られる、と信じるものであった。

それは、呪術的でエクスタシー的・感覚的な生命感の充実を、一時的に与えるものでしかなかった。しかし、そこには本当の豊かさを実感できない、生の喜びの充実を感じることのできない、空しさが増すのみであった。それ自体が、実は、神の審きの最も深い逆説性の表われである。ホセアは、真実な神信仰から冷静な明晰さで、それを判断し洞察する。そこには、神と結ばれるべき生命の諸秩序が倒錯している。もはや宗教は、神への内的な誠実・愛が問題ではなく、祭司の収入源、職業と化してしまっているので、何の祝福も与えれないばかりか、それ自体の中に神の審きを内包するものとなってしまっている。倒錯した状況による生命感の充実への願望は、真の神の創造秩序を破壊することになるので、民の生命力は、結果的に失われることになる。民の生命力の崩壊は、それゆえ創造の秩序の無視した結果にほかならない。

祭司と民の目には、祭儀はヤーウェの神のためであっても、ホセアはこれをヤーウェへの背反であり、淫行であると見る。しかし、それは祭儀的姦淫のことだけを行っているのでない。ホセアは、神との交わりにとって本質的なものは、神の祝福を勝ち取ろうとする様々な祭儀の営みにあるのではなく、内面的な態度、神への忠誠の義務にのみある、と考える。それゆえ、ホセアは、感覚と幸福主義の世界から生まれ出た祭儀には、神からの背反しか認めることができない。そして、それは、神の審きの下にある、ということになる。それは、「主を捨て、聞き従おうとしない」背信にほかならない。(10節)

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