ゼファニヤ書講解

2.ゼファニヤ書1章2-18節『主の怒りの日』

ゼファニヤ書1章2節―2章3節は、全般的にはゼファニヤ自身による預言であると言われているが、ここに記されている預言は、部分的には後世の編集者による加筆も認められる、という聖書の研究者の意見もあります。

今回は、1章2-18節までを取り上げるが、2章3節までを一まとめにしている新共同訳聖書の主題『主の怒りの日』、に基づいて講解します。

ゼファニヤの関心と使命は、主に対する真実の信仰を欠いたユダとエルサレムに下される主の審判を告げることです。4節からゼファニヤ本来の預言の言葉が記されています。この預言の時代的背景は、ヒゼキヤの宗教改革を逆行させたマナセ、アモンの時代に行われ、ヨシヤの宗教改革がまだ本格的に着手される以前に行われたエルサレムとユダの神礼拝のゆがみ、指導者層の外国かぶれによる風紀の乱れの問題があります。主の律法にしたがう真の信仰の欠如を見たゼファニヤの宗教批判の目、判断がその預言の言葉の中に示されています。

ゼファニヤは、ユダとエルサレムに下される「バアルのあらゆる名残りとその神官の名声を祭司たちと共に、この場所から絶つ」という主の言葉を最初に告げています。「名残り」は「残りの者」を指します。「残りの者」は、本来、イスラエル、ユダ、ヨセフについて言われる旧約聖書における重要な神学的な概念です。ヤーウエは審判の日に、ヤーウエに真の従順を示す者の一部が試練を経て生き残り、残りの者となる。終末論的な考えの中では、「残りの者」として選ばれた者は、最後の時に集められて新しい選民、新しいエルサレムとのなる、と言われています。

当時エルサレムでは異教の礼拝が行われており、そこにいた民は、まことの神であるヤーウエに背を向けて生きる「バアルの残りの者」に過ぎない状態でありました。「祭司」の語は、偶像に仕える異教の祭祀を表す特別な語が用いられています。4節の最後の行は、フランシスコ会訳聖書では「偶像に仕える祭司たちの名を絶つ」となっています。「名を断つ」とは、人格的な完全な破滅を意味します。神の裁きがそのように下されると述べているのです。

当時ユダは、アッシリアの勢力下にあり、その影響を強く受けていました。その影響の下で、星辰礼拝が、マナセ、アモンからヨシヤの時代になっても続いていました。月、太陽だけでなく「天の女王」と呼ばれる金星が礼拝されました。マルカムはアモン人の神で金星のことです。

これらのアッシリア起源の星辰礼拝は、ユダという属国が宗主国アッシリアに政治的に全く依存していることの宗教的表現であるということができます。その政治的忠誠を宗教において示すことは、ご自身に対する礼拝のみを求めるイスラエルを導き支配される神ヤーウエを否定することを意味します。主なるヤーウエは、ご自分以外のあの神もこの神もという立場を認めません。宇宙と全地を造られた神ヤーウエが唯一の神で、それ以外の神は偽りの神で偶像の神に他なりません。宗教的な混淆を許さない厳しさがあります。

宗教的混淆の態度に対しては、「主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者」(6節)として、そのような者を「絶つ」という毅然たる主の裁きをゼファニヤは明らかにしています。

イスラエルにとって神は遠き方ではありません。昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」となって臨在を示し、共にいて常に導きを与えるお方です。イスラエルは、そのような神の前に、神を身近に感じて神礼拝を行ってきたはずです。だから、ゼファニヤは「主なる神の前に沈黙せよ」(7節)と告知しています。

「主の日」は、裁きの日です。その前には、戦争、疫病、寒害や自然破壊等が来るとされています(イザヤ13:6、ヨエル2:1)。その様な裁きがなされる「主の日は近づいている」(7節)、「主の大いなる日は近づいている」(14節)とゼファニヤは主の審判の近さを告知しています。

王や高官は指導者として、民に対する政治的な統治だけでなく宗教的な生活に対しても大きな責任を担うものでありました。しかし、彼らは、外国の文化や風習にかぶれ宗教的にもそれらの習慣を取り入れ、王家とその関係者は全く異教化していました。「異邦人の服」を着ることは、特権階級の誇りのように考え、公の偶像礼拝が行われる場で着用する礼服として用いられていました。ゼファニヤの目には、それは外国かぶれであり、主なるヤーウエの民であるという自国の精神と誇りを失うものでありました。しかし、それを好んで着る人は、富や偉大さを人前で誇示することができ、イスラエルに伝統的宗教衣服よりも便利なものとしても、それらの衣服が重宝された面があります。これ以外にも異教的な風習が多く行われていました。

「魚の門」(10節)は、エルサレムの北にあるティロペオンの谷の南にあった門でネヘミヤ3:3,12:39、歴代下33:14にも出てきます。北方にあるティルスやガリラヤ湖から獲れた魚がこの門に運ばれ、商売でにぎわっていた場所であったのでしょう。

「マクテシュ地区」(11節)は、文字通りには「第二の地区」で、旧市街の新しく加えられた地区です。その昔女預言者フルダがここに住んでいました(列王下22:14)。エルサレムの北方は拡張しやすい地形をしていました。「魚の門」はこの新しい町に通じる門であったと思われます。

「商人」は直訳では「カナン人」です。パレスチナで商業や貿易を営んでいたのは、フェニキア人、つまりカナン人でありました。カナン人はしばしば預言者の非難の対象として取り上げられています。当時の商取引にはまだ銀貨がなく、銀を測って売買する商品の価値を測っていました。イスラエルに貨幣が登場するのはペルシャ時代の終わり捕囚期後の紀元前4世紀ごろです。

「主の大いなる日」(14節)の審判は「極めて速やかに近づいている」とゼファニヤは注意喚起を促し、その日には、勇士も苦しみの叫びを上げる、と告げ(15節)、「主の日」を5通りで表現しています。すなわち、「憤りの日」、「苦しみと悩みの日」、「荒廃と滅亡の日」、「闇と暗黒の日」、「雲と濃霧の日」であると告げています。

この日もたらされる災いが、「城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい、角笛がなり、鬨の声が上がる日である」(16節)、と告げられています。山羊の角から作られた角笛は、戦争や祭りの合図として用いられていました。戦争の時には鬨の声と共に敵に恐怖を与えるものであり、時には神の裁きの恐ろしさを表すのに用いられます(アモス1:14,2:1-2、ヨシュア6:5)。ここではまさに神の裁きを表すものとしてこの表現が用いられています。

14-16節は、真正のゼファニヤの預言であると認められていますが、17節は、再び一人称に戻り、この部分は編集者による加筆であると見る人が多い箇所です。

しかし、ゼファニヤの意図を汲んだ加筆であるとの意見もあります。聖書の信仰においては、人の「血」は生命の宿るところです。それが取るに足りないもの、塵のように扱われる(詩79:3)、と言われるところに裁きの厳しさが示されています。

「はらわた」(17節)は、ヨブ記20章23節と本節だけに訳されているはっきりしない語ですが、体、死体、力、水分などいろいろ解釈される語です。「血」との並行から見ると、体の大切な部分としての内臓を隠語的に述べたものであろう、という解釈もあります。

18節は、主の熱情の日としての焼きつくす審判について語っていますが、これらの語も一般的な形での語り口で、ゼファニヤの言葉とは言い難い感じがします。

しかし、ゼファニヤが告げている「主の日」になされる徹底した裁きを、真の恐れを持って主の言葉を聞くことが求められています。主の前に悔い改め、これらの預言者が語る言葉を聞く者には、「残りの者」としての救いへの道が備えられています。このわずかな、しかし、確かな道を歩むようにと、今を生きるわたしたちにも、この預言は語りかけています。

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