サムエル記講解

53.サムエル記下22:1-51『ダビデの感謝の歌』

この章にある詩は、1節において記されている通り、ダビデが主によってすべての敵の手から救い出され守られたことを歌った感謝の歌です。そして、これとほぼ同じ詩が詩編18篇にあります。

この詩の語り手が王ダビデであるということは、それ自体に重要な意味を秘めています。なぜなら、王の体験はそのまま民の体験でありその歴史を表しているからです。王は自らの苦難と救いを通して、民の苦難と救いを表す存在です。そればかりか王は祭儀の中心にいます。サムエル記下6章で神の箱が搬入される時、ダビデがそれに参加したのは決して彼の私的な事柄ではなく、王は祭儀の中心にあって、神の恵みと祝福を媒介するものとしてその役割を担っていたのです。王はまさに「イスラエルの灯」(下21:17)でありました。この詩において歌われているのは、王の運命であり、神の恵みを受けた人物の運命です。

ダビデはこの他にも多くの詩をつくり、ダビデの生涯とはっきりと結びつけることのできる詩篇が数多くあります(詩3、7,34,51,52,54,56,57,59,60,63,142)。しかし、サムエル記にこれら多くの詩編の中で、詩編18篇をここに繰り返し記したのは、この詩がとりわけダビデ的特徴をもっていたからではありません。そうではなく、この詩編をもちいて、ダビデの軍事的行為全体を特徴づけ、解釈しょうとしたためです。この詩編は、ダビデ物語が読まれ、聞かれるよう、ダビデの歴史への神学的な註解とするため、この位置に置かれています。

この詩編は細部に余り気にとらわれすぎずに、一連の際立った特徴的なことに注意を払われるべきです。

2-4節、この冒頭部分は、この詩編全体を貫いているダビデの主に対する敬虔を明らかにしています。残念ながこの詩には詩編18篇の冒頭にある、「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。」という句が欠けています。この一句は非常にダビデ的な性格を持つもので、自己の存在のすべてを主とその加護に完全に委ねきる信仰を歌っています。この部分がなくても、2-4節には、神こそ救い主であることが強調され、主がダビデに勝利を与える方であることが歌われています。

5-7節、ここでは語り手が生死の境目にいることだけが記されています。それは、病気であることも、不当な訴えを受けたことも意味し得ます。しかし、サムエル記の文脈からは、それは、いずれも戦いの苦境、しかもダビデにとっての戦いの苦境を表しています。7節には、苦難の中にある者が主に呼び求めると、その叫びに主が耳を傾けておられることが歌われています。このダビデに起こった体験は、現在苦難の中にある者の体験でもあり、主なる神はその者の苦しみの叫びを現在も変わりなく耳を傾けて聞かれるお方であることが示されています。わたしたちの祈りは、このような神に向けられて信頼の中でなし得るものであることが明らかにされているのは、大きな慰めです。

8-16節、ここにはその祈りに答える神の反応が、壮大なイメージと擬人法を用いた神顕現によって描かれています。神が叱咤すれば、海は底に至るまで、大地もその基に至るまで激しく動揺します。ここで凄まじい存在感をもって現れているのは、単にシナイにおける神の再来ではありません。この神はそのような強大さに加え、義を持つ方として、歴史の現実に介入されることが明らかにされています。主はご自身が油注がれた者(メシア)の苦難に対処するために、力強く、かつ自覚的に介入されます。ダビデはそのような神を体験しました。

17-20節、ここではその神が、いまや救済を実現するさまが描かれています。ここではダビデの歴史が、ダビデと共にある神の歴史として理解されています。しかも、大いなる苦境から救う神の歴史として描写されています。ダビデはどこまでも人間であり、しかも罪人であります(下11章)。疲労困憊する人間です(下21:15)。しかし、神は底無しの苦難(5-7節)からも救うことができます。この視点を与えられることによって、ダビデの歴史は垂直的に見なおされ、そのことを通じて聖書的な出来事全体の中で正しく組み入れられています。ダビデは自分の歴史を、一人の強大で偉大な王の行為として物語ることもできました。しかし、この詩は、歴史が、強大で偉大な神の行為として理解されるように歌われています。この神は、かつてモーセを「大水の中から引き上げられた」ように、ダビデに対してもまた同じように行われます。この神がキリストを死者の中から復活させ、キリストの日にその救いをキリストにつながるすべての者に実現されるのです(フィリピ1:6)。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)として、その力をいまわたしたちに向けてくださっています。

21-25節、いまや語り手はここで自分の潔白さを告白するにいたります。ヨブ記31章のヨブのように、ダビデは、自分自身について神に弁明し、神にふさわしい価値ある人間であることを体験することになります。しかし、この「正しさ」を主張する人物は、自分がまったく罪のない者であるということを主張しようとしているのではありません。ここでは事柄は人間論的にではなく、神学的に見られています。神がダビデを愛顧してくれたのであり、既に行い示されていた誠実さと義を承認してくれているのであります。しかし、そこから、あたかも人間が正しい行為によって、自分の運命を左右できるのだと解釈することは許されていません。神の義は、究極的には、神の力と恩恵によって支えられています。神には人間の行為を斟酌する義務をもっておられません。しかし、それにもかかわらず、神があえてそれを斟酌されるのです。ここではそのようにされる神がたたえられているのです。下11章におけるダビデの罪は厳然とそこに存在します。その罪は決して拭い去れるものでありません。しかしそれは、赦されたのです。下11章と12章に見られるように、義と恩恵が双方に作用しあっているのです。ダビデは自分に対する神の義の働きが、神の救いの意思に支えられているのを知っていました。

26-31節ではこの事態はより一層明瞭にされます。神にとって、人間の振る舞いは決してどうでもよいことではありません。王の振る舞いについても同様です。神は万人に対して、またあらゆる一人に対しても義しいお方であります。このような神の本質と、そこから発する神の行為には、虐げられた者を救い、高慢な者を低める業が含まれています。ここで語っているダビデは敵の手に苦しむ者として、自分を高い者の側ではなく、神の救いと恩恵だけが頼りの低められた側にある者としておいています。ここには旧約聖書に見られる重要な原則、「神の義が恩恵として現れる、いや、恩恵そのものである」、が見られます。このことへの信頼を告白している人間として、ダビデは、自分が「イスラエルの灯」(21:17)と人々から見なされても、神を「わたしの灯火」とし、「わたしの闇を照らしてくださる」方として、平安を見出しています。視線を信じる人間に向けるのでなく、義と恩恵に満ちた神に釘付けされるダビデの信仰をわたしたちも学びたいものです。

32-43節、この部分もこのような観点から理解される必要があります。ここは賛美の調子が支配的で、人間の行為と人生の全体が、神の恩恵と助けによることが歌われています。第一に問題にされているのは、戦いと勝利です。神こそが勝利の与え手であり、助け手であり、勝利者であることが力強く歌われています。王の勝利は、彼に敵を引き渡した神の栄光の証明となります。

44-46節、ここでは、諸国の王とされた自身について語られています。しかしそれは、世界の主である神が、異国の民をその足の下に置かれたのであります。どれほど堅固な敵の要塞もこの神の勝利の進軍を阻むことはできません。ダビデの成功と勝利はこの神の力と支配の恩恵によることがこれによって歌われています。

47-51節、この勝利の賛美は、それをもたらされた主にこそ向けられるべきです。それゆえこの詩篇は、主への賛美で締めくくられています。結びの部分は「油注がれた人」(メシア)」に言及されています。「ダビデとその子孫をとこしえまで慈しみのうちにおかれる」という言葉でこの詩編は締めくくられています。ダビデの歩んだ道のすべてが、この救いの神を指し示しています。しかし、この救いの神が指し示す救いは、「敵からわたしを救い/刃向かう者よりも高く上げ/不法の者から助け出してください。」と祈るダビデの言葉とまったく反対の方法で実現されます。ダビデが指し示した王なるキリストは、刃向かう敵のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られています。地上の王国を打ち建てるダビデは、神の赦しを知る者でありましたが、その赦しを敵のために祈ることまでできません。刃向かう者より自分を高くして欲しいと神に祈り、不法を行う者の手から逃れることを願うのみです。しかし、天上の王国を打ち建てられるキリストは、刃向かう者が高く上げられ、不法を行う者が助け出されるよう、祈られます。それでもダビデは、この恩恵の無限の深さ、愛の偉大な勝利の力を指し示す者としてこの歌を歌っています。

旧約聖書講解