サムエル記講解

52.サムエル記下21:1-14『飢饉とサウルの子孫』

サムエル記の記す王位継承史の本論は、下20章で終わり、21章以下はその『補遺』です。サムエル記下21章1-14節の物語は、ダビデの治世のかなり初期に起こった出来事であると考えられます。時間的な順序でいえば、下9章のメフィボシェトに関する記事の前後当たりにくるのが適当であると思われますが、なぜこのギブオン人に関するエピソードが王位継承史の本論に組み込まれなかったのかは、一つの謎です。

ギブオン人の存在はイスラエルの歴史において特異であり、かつ重要な役割を果たしている事実を考えると、このエピソードはさまざまな示唆を与えてくれます。

ここでギブオン人の問題が、ダビデの治世における3年続けて襲ってきた飢饉の原因を知るため、ダビデが主に託宣を求めたことの関連で明らかにされています。飢饉は通常雨不足の結果として起こる自然現象でありますが、ダビデは3年連続した起こったことには、何か特別な宗教的な理由があるに違いない、と見定めて、主に託宣を求めました。そこで与えられた主の答えは、その原因が「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に」あるというものでありました。

そこでダビデは、早速、ギブオン人を招き、その原因となるサウルとその家にある罪の問題を処理し解決を図ろうとしますが、2節のダッシュ記号以下に、ギブオン人に関する簡単なエピソードが紹介されています。このエピソードは、ヨシュア記9章に記されているイスラエルのカナン征服時代における問題に遡ります。イスラエルはヨシュアというモーセに代わる指導者の下に約束の地カナン占領の戦いを始めました。最初にエリコ、続いてアイの町を征服しました。すると、このイスラエルによるカナン征服を恐れたカナン先住の諸部族の王たちは、一致団結してヨシュアの率いるイスラエルと戦おうとしました。しかし、ギブオンの住民だけが遠くから訪れた民を装って、古びた服や靴、使い古して繕ってある皮袋に入れたぶどう酒、干乾びてぼろぼろのなったパンを携えて、ヨシュアの所にやって来て、その食糧を差し出して協定を結ぶよう申し出ます。ヨショアはこのギブオンの住民の策略にだまされますが、だまされたことにすぐに気づきます。しかし、主にあって協定を結び、彼らの安全を約束しましたので、それを実行することを明らかにしますが、彼らをイスラエル共同体の奴隷として神の宮の芝刈りや水汲みの仕事に就かせました。それ以来、ギブオン人はイスラエルとは異なる民族でありながら、イスラエルの支配する領土の中で、イスラエルの奴隷として忠実に仕えることになりました。とりわけ彼らの重要な仕事は、神の宮と深く関わるものでありました。サムエル記上22章5節以下には、祭司の町ノブを、ダビデをかくまったとしてサウルがノブの祭司85人を惨殺したことが記されていますが、このノブの町はギブオンの聖所の近くにあったものと思われます。そうすると、ここで言及されているサウル王によるギブオン人殺害の出来事は、ノブにおける祭司を大量に惨殺した出来事と深い関連があった可能性があります。そうであるなら、このギブオン人は、イスラエルの祭司に深く関わる人たちであったということができます。

そう理解するとダビデがこのギブオン人に対する取り扱いに非常な神経を尖らせていることもよく理解できます。ダビデが障壁となっている流血の罪の問題が片付いたなら、ギブオン人が再び「主の嗣業を祝福」してくれるよう希望を表明していることから、彼らが何らかの宗教的な役割を担っていたが、サウルの一件以来彼らがそれを停止してしまったか、イスラエルのためのその役割を果たすことを止めてしまっていたように見うけられます。しかし、サウルの死後ギブオン人たちは再びこの地とその聖所の周りに集まるようになっていたものと思われます。いずれにせよダビデはサウルと違い親ギブオン的政策を取っていました。

それゆえ、ギブオン人は、このダビデの償いの申し出に対して、非常に友好的態度で答えています。彼らの求める賠償は、金銭ではなく、サウルの子孫7人の血でありました。それは、サウルとその子孫の罪の連帯責任を求める原則に従うものでありました。7という数字は、聖なる数字として選ばれたものであります。

ダビデはこの要求に同意しますが、その7名の中にサウル王の子ヨナタンの息子メフィボシェトを、ヨナタンとの契約(友情)のゆえに入れませんでした。ダビデが選んだ7人の内最初に選ばれたのは、サウルの側女であったリツパが生んだ二人の息子でありました。サウルの死後このリツパと彼に仕えていたアブネルが通じたというので、イシュ・ボシェトは激しく非難し、二人の間でいさかいが起きたといういわくつきの事件がサムエル記下3章に報告されています。

残りの五人は、サウルの娘ミカルの息子たちであったとあります。ヘブル語のマソラ・テキストも「ミカル」となっていますが、彼女はダビデの妻であり、彼女には子がなかったといわれていますので、かつてサウル王からダビデの妻となることを約束されていたミカルの姉「メラブ」の誤りであると思われます。サムエル記上18章19節の記述とも、「メラブ」と読む方が事実に合致しています。二つのヘブライ語写本や古代訳聖書もそうなっています。

サウルの七人の子孫が処刑されたのが「大麦の収穫の始まるころであった」といわれています。それは除酵祭が催される4月の中頃でありました(出エジプト23:15-16、申命記16:1-9)。彼らの処刑は、通常なら人々が収穫の初物を捧げる時期になされたことになります。それはまさに、特別の働きを期待して捧げられる働きを期待して捧げられる犠牲として屠られたかのような印象を与えます。あたかも雨乞いのための人身御供のような役割が期待されていたのかもしれません。しかし、後に預言者エレミヤは、「ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」(エレミヤ32:35)といって厳しく断罪しています。

この行為にはそのような問題がありますが、この聖なる山での処刑には、飢饉を終わらせるそのような儀式的意味合いがあるのを完全に否定することができません。この物語には、血の復讐、人身御供、降雨呪術というような旧約聖書において否定され克服されているはずの事柄が再び顧みられているように思われます。しかし、語り手の意図は、そのような異教的風習のイスラエルへの導入にあるものとは思われません。むしろ強調は、罪の贖いに、血の犠牲が求められるほど大きく、深刻であることを示すことにあるものと思われます。

雨が降り始めるまで、遺体が空の鳥に襲われないように守るリツパの姿は、実に敬虔で、親としての愛情、深い思いがにじみ出ています。ダビデも彼のその行動の報告を受け、サウル一族に対する丁重な取り扱いを決意するにいたります。

このエピソードは、戦慄と感動という二つの分裂した印象を読む人間に与えます。そこには宗教的行為において人間の憎しみの感情を鎮める側面が、異教的要素として取りこまれ、あるいは払拭しきれない現実が報告されているのかもしれません。ギブオンの祭司たちの役割の限界と問題が、そこにあるいは根本的には批判されているのかもしれません。ダビデはこうした求めに応じつつ、サウル家に対する変わらぬ愛を保ちます。「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」という最後の言葉は、ギブオン人の求めに応じたゆえの、神の愛顧か、この変わらざる敵対するサウル王やヨナタンへの友情に対するダビデの態度を祝福するものであるのか区別がつきにくい感じがしますが、答えは、間違いなく後者でしょう。

「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪も赦したまえ」この主の祈りの祈願を生きることが、いかに難しくとも、この赦しに生き切ることがわたしたちに何処までも求められている信仰であります。

旧約聖書講解