サムエル記講解

47.サムエル記下15:24-16:14『ダビデの逃亡-御手に委ねる信仰』

ここには、ヘブロンでイスラエルの王となったと宣言したアブサロムを避け、エルサレムから逃亡するダビデの姿が描かれています。しかし、アブサロムに何の反撃も加えず、己を無にして平和裏に将来を神に委ねて逃亡するダビデの姿には、神への力強い信仰が見られます。

サムエル記の記者はダビデの逃亡に最初に加わった人物としてガト人イタイの名を記し(17-22節)、その次に、神の箱の運搬と管理の責任を任されていた祭司ツァドクがレビ人全員を連れて、神の契約の箱を担いで兵士と共に従おうとしたことを報告しています。ツァドクは、王に同行する各部隊が神の箱の前を横切って行進する間に、犠牲を奉げ、その逃亡中の安全と神の守りを祈る執り成しの業を行っていました。宮廷祭司を務めるアビアタルも来て王の無事を祈る務めについていました。

かつて祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスは、ペリシテ人との戦いに勝利するために神の箱を戦場に持ち出しましたが、戦いに勝利するどころか、戦いに敗れただけでなく、二人は死に、神の箱もペリシテ人に奪われてしまうという不名誉なことがおこりましたが(サムエル記上4章)、それは、神の箱を魔術的力として利用しようとした間違った信仰に対する神の拒絶を表していました。ダビデはこの失われた神の箱をペリシテ人の地から持ちかえった功労者でしたが、その際に、ペレツにおけるウザの死という苦い経験をしました(サムエル記下6章)。ダビデは神の箱を魔術的な信仰によって頼りにすることの誤りも、不注意な扱いをするぞんざいな信仰の誤りも、これらの出来事を通して学んでいました。大切なのは神の意志に己を無にして従うことであるので、箱の力により頼むのではなく、その箱に収められている御言葉に従うことが必要でありました。そして神は、神の箱の贖いの蓋の上にケルビムが向かい合って翼を広げて、神の言葉をその間から聞く者を守られるように、御言葉に聞く者といつも共にいて、その者を守られます。この大切な信仰を欠く、神の箱への依り頼みは、偶像信仰です。ダビデはそのことを誰よりもよく知っていました。

神の箱は、都エルサレムに置かれたままでも、ダビデの信仰とその歩みが御心に適うものであれば、神は必ず自分を再びエルサレムに連れ戻し、神の箱とその住む所を見せてくれるはずだ、とダビデは固く信じていました。どんなに神の箱を持ち出し、それに依りたのもうとしても、神がダビデを愛さず省みられないなら、それらの努力は空しいものに終わるほかはないと見ていましたので、ダビデは、ただ神の御心が行われることのみを祈りました。それゆえダビデは、ツァドクに向って、神の箱を都に持ちかえり、祭司たちも全員平和に都に帰るよう命じました。ダビデはその決断を神の恩恵に全面的に委ねています。ダビデはただ自分が神の下にある人間であるとの信仰を、この危機において回復しました。神がこの信仰にどう答えてくださるか、ダビデはただ彼らからの知らせを、荒野の渡し場で待つことにしました。信仰とは、このように神の導きを信じ、良い知らせを待つことです。ひたすら信じて待ち望むのです。

しかし、ダビデは自分の後継者となるべき子アブサロムと平和裏に王位を譲ったのではなく、その子から一方的に王就任の宣言を聞かされ、その子と争わないために逃亡者とならねばならない身となったことを嘆かずにはおれませんでした。「頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら登って行く」ダビデの姿には、王の威厳は何処にも見られません。ダビデは自らに襲った苦境を、嘆きながら主なる神に向けて訴えています。

いまここに起こっていることは、運命の偶然の悪戯ではなく、神がこれから王と民をどのように取り扱おうとしておられるのか、ということに深く関わっています。

バト・シェバの祖父でダビデの顧問官をしていたギロ人アヒトフェルがアブサロムの陰謀に加担したとの知らせは(31節)、ダビデとその側近たちにとって大打撃であったに違いありません。ダビデがエルサレムから逃亡しようとした決定的要因であったともいえるかもしれません(15:12)。なぜなら、ダビデ側の唯一の強みは、アブサロムにはない知恵と経験でありましたが、その両方を兼ね備えたアヒトフェルがアブサロムの側についたなら、その強みも発揮できなくなるからです。

それゆえダビデは、その助言を愚かなものとするよう主に祈りました。そして、主を礼拝するためオリーブ山の頂上に登りました。そこに着くと、そこには王の友であるアルキ人フシャイが王の身を案じて、上着を裂き、頭に灰を被って待っていました。ダビデはこの友の厚意を本当に心強く、嬉しく思いました。しかし、ダビデは彼を心の友として親しくしてきただけに、既に高齢となっていたこの友が厳しい逃亡生活を共にすることは忍びないと考えました。とはいえ、この知恵豊かなフシャイなら、アヒトフェルの助言を愚かなものとすることができると考え、彼に都に戻り、アブサロムの僕となって彼に忠実に仕えるふりをし、アヒトフェルの助言を覆す働きをするようたのみます。ダビデがツァドクたちを帰したもう一つの理由も、実は同じ目的のためでした。

ダビデはその将来を神に委ねる信仰者でしたが、人としての何の知恵も努力もしない人物ではありません。神の導きを信じているからこそ、同じ信仰を持つ友や、助け手の力を遠慮なく借りることのできる実に柔軟な考えの持ち主でありました。

フシャイは決定的な役割を担い、アブサロムがエルサレムに入場するのと同時に、それを待ち受けるようにして都に入りました。ダビデも時を同じくして同行する最後の者たちと一緒にオリーブ山の頂上から下山しました。

16章1-14節には、荒野に入る前の二つの出来事が報告されています。一方は、ダビデにとって頼もしい体験でありましたが、もう一つは、不愉快な体験でした。頼もしい体験とは、1-4節の足の不自由なヨナタンの息子メフィボシェトに仕えるツィバとの出会いでありました。彼はこれから苦しい逃亡の旅を続けねばならないダビデとその側近の者を助けるささやかな援助を申し出ました。王はこの好意を喜んで受け、サウルの遺産を継ぐメフィボシェトに属する物すべてをツィバに与えるとの約束を与えました。それは、ダビデがいかに彼の好意を喜んでいたかを示す出来事でありました。

しかし、シムイとの出会いは、これとまったく性格の異なるものでありました。彼はサウル家の一族の出の人物であったとされています。彼はダビデを「流血の罪を犯した男、ならず者」として罵り、呪いました。アブサロムが王位についたのは、その罪の報いのためであると罵りました。

このシムイの罵りの言葉をダビデの側で聞いていたアビシャイは、王が何の咎めだてもしようとしないのを見て、激しい憤りを覚え、王に向って、「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」といいますが、ダビデはこのシムイの呪いの発言が、単なる人間の主観的な悪意ある発言とは考えず、そこに神の意志、神の命令が現されていることを、信仰の目で見、今自分を襲おうとしている運命を謙遜に神の正当な報いとして受け入れます。ダビデはこの神の呪いとしての裁きを受け入れることにより、神が将来において、あるいは恩恵により幸いを再び与えてくださるかも知らないとの希望をもって、神の委ねるのです。

ダビデとその兵士がそのしつこさに疲れるほどに、シムイは、ずっとダビデたちと平行して進み、呪っては、石を投げ、塵を浴びせかけ続けました。

このダビデの逃避行は、彼の生涯における深刻な危機を現しますが、しかし同時に、この逃避行は、ある意味でダビデの人生行路のクライマックスでもありました。なぜなら、ダビデはこのとき最も信仰的に全面的にその将来を神に委ねているからです。ダビデが示した可能生を採用するかしないかは、すべて神に握られています。ダビデはそれがどうなるかまったく予想できません。多くの労苦の末築き上げてきた王国を、一夜にして失うようなどん底を経験したダビデは、神よ、なぜ、といって抗議することなく、その原因、その責めを自らの罪にあることを認めつつ、その将来を神に委ねるしかない弱い一人の人間として留まろうとします。

サムエル記の記者は、ダビデのような偉大な王の歴史でさえ、偉人の歴史ではなく、一人の誤り多き人間の歴史として描いています。しかし、それにもかかわらず、その器を用いる主の歴史であることを明らかにします。歴史を支配し導くのは、偉大な誰かではなく、何処までも主なる神です。ダビデはその神に委ねる信仰の大切さをわたしたちに教え、彼は十字架上で己のためには何もなし得ない、何もなそうとしないで死んでいったメシアの信仰の先駆者となりました。神は己を無力にし、神に生きる者を死者の中から蘇らせる力ある方です。ダビデはこの神を信じ、この神に、自分とその民の歴史を委ねたのです。彼はそのようにしてメシアの信仰を指し示し、救いにつながる信仰の道を指し示しています。わたしたちもまたこの神に委ねて生きることが求められています。

旧約聖書講解