サムエル記講解

39.サムエル記下7章18-29節『ダビデの祈りに見る信仰』

ここに記されているのは、ナタンを通して、「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(16節)という預言を聞いたダビデの感謝の祈りです。前回は時間の関係で、この祈りを簡単に扱いましたが、この祈りの部分だけを、もう一度お話することにします。

ダビデのこの祈りは、主の民(=教会)の信仰を明らかにしています。それゆえすべてのキリスト者はダビデのこの祈りから、主なる神への信仰とは何かを学ぶことができます。

このダビデの祈りは大きく二つに分けることができます。第一の部分は、18-24節で、主への賛美と感謝です。第二の部分は、主への祈願です。

(1)賛美と感謝

日本人クリスチャンの祈りは、祈願がその大部分を占めています。しかもその祈願は個人的な願望で占められています。聖書はそのような祈りを禁じてはいませんが、聖書が教える祈りは異なるように思います。詩篇22編のように、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という神への訴えで始まる祈りも、最後は主への賛美と、主の支配に対する揺るぎない信仰を表明し、御業を宣べ伝えるとの言葉で終わっています。その祈りの中心は神賛美であり、神の支配と御業への揺るぎない信仰です。神への祈願は、その信仰からほとばしり出る、現状を神によって変えられたいという信仰の表明です。現状を変え、救うことができるのは神以外にないことを知っているからです。だからどのような状況が絶望的に見える時も、神を信じる者は祈ることを止められないのです。

祈り(pray)は、神を賛美する(praise)ことから始まります。主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の祈願も、「御名を崇めさせたまえ」という言葉で始められています。人は神を賛美することにおいて、自分が神に知られている存在であり、また神を知るようにされた存在であることを知ることができます。神の名を呼び、神を賛美することは、神の恵みに与り、神を知るものとされた者のみがなし得る特権であります。

ダビデはここで自分に与えられた恵みに対する感謝から、神への賛美を表しました。ダビデの賛美は、現在と未来と過去へと向けられています。

「牧場の羊の群れの後ろ」で羊の番をしていたダビデを、その「後ろから取って」「イスラエルの指導者にした」(8節)のは、主なる神です。ダビデはサウル王から迫害を受けましたが、主に守られて、全イスラエルの王となるよう導かれました。その事実を見ただけでも、ダビデにあらわされた主の恵みは、計り知れないほどの大きなものでありました。

しかし、ダビデは、それほど大きな主の恵みに与っても、「主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。」(19節)と告白します。ダビデに表される恵みは、未来にまでも及ぶものであることが約束されていたからです。ダビデはそれを、「あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。」といって神に感謝を言い表しています。普通なら隠されている未来に属する事柄を、人間に垣間見せてくれる神の恩恵に感謝をしています。

「遠い将来にかかわる御言葉」は決して中傷的なものでなく、具体的なものです。しかし、「遠い将来にかかわる御言葉」は信仰をもって聞かないと、少しもありがたい感謝すべき言葉とはなりません。人間は未来に関する事を見とおしそれを完全に見ることはできません。それは、約束としてしか与えられていません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)

アブラハムが主の約束を信じて、故郷を捨てて主の約束の地目指して旅に出たように、またモーセが海をわたったように、ダビデは主の約束を信じ、その未来に自分を委ねます。ダビデの感謝の言葉はその委ねの信仰から生まれたものです。ダビデはこのような主の約束を聞けるだけで十分幸せでした。ダビデが本当に主を賛美する理由は、20節において述べられています。しかし、その言葉は正確に訳されているとはいえません。「主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました」は、「主なる神よ、あなたはあなたの僕を本当によくご存知です」と訳されるべきです。ダビデが感謝する根本的な理由は、小さな存在でしかない自分が、主なる神に知られているという事です。神が単にダビデのことを覚えているだけでなく、その生涯を導き、将来にわたってまで約束し覚え続けておられるからです。自分が愛しいと感じている人から愛されているという事を知ることは喜びです。ダビデはそのようにして神に愛され覚えられている自分を発見し、これ以上の喜びはない、ということをこの言葉において表明しているのです。

ダビデにその事を知らせる主の方法は、「御言葉」と「御業」を通してです(21節)。神が私たちを愛しておられるという「御心」を知る手段は、「御言葉」と歴史の中で表される「御業」以外にありません。しかし、この神の現在表されている御業と将来表される御業の繋がりを見極める事は、実際、容易ではありません。ダビデは現在における神の導きと将来における神の約束の確かさを、過去に表された導きの確かさから求めます。

それは、ダビデの個人的な過去の体験ではありません。イスラエルが主の民として神から与った恵みの歴史から回顧されています。その回顧は申命記4章32-40節を彷彿させる内容です。つまり、イスラエルの信仰において、神の未来の約束の確かさを知る道は、出エジプトにあらわされた神の救済の業にありました。天地を創造された唯一の神は、創造の神として世界の基を据えられただけでなく、エジプトで奴隷の苦役に苦しんでいた民を覚え、神が自ら進み出てこの民を贖い出し、ご自分の民とし、ご自分の名を示して恵みを施し、交わりを保ち、「ご自分のために大きな御業を成し遂げ」、「とこしえにご自分の民として堅く立て」、「ご自身がその神となられる」ことを明らかにされた、とダビデは告白します。ダビデはこの過去において現された神の御業を賛美し告白する事によって、同じ神が現在の自分の歴史においても、未来の歴史においても救いの主として働れる生ける神であることを明らかにしています。

イスラエルの信仰において、過去は、遠い過ぎ去った懐かしい思い出としてあるのではありません。過去は後ろにあるのではなく、「前に置かれたもの」として、絶えず見ることができます。これに対て未来は見ることのできない「後ろの置かれたもの」として存在します。信仰はこうした過去・現在・未来を見通す目です。この目で見通すことのできる人は、神の御業を賛美し、感謝して生きます。当然ながらその祈りは、神への賛美と感謝で始まります。神が神としてご自分の御業をなされる、そこに揺るぎない救いの根拠があります。たとえ人間が神の事を忘れるようなことがあっても、この神に覚えられて、神が歴史を支配し導かれる、そこに救いの確かさがあります。ダビデはこの信仰を神への賛美の祈りの中で表明しています。私たちの祈りもまたそのような祈りから始められるなら、信仰の歩みは喜びに満たされるでしょう。

 

(2) 祈願

ダビデの祈りの祈願は、25節から始まります。私たちの祈願は個人的な願望が並べられますが、ダビデの祈願はそれとは異なっています。ダビデの祈願は、どこまでも「御言葉」に基づくものです。「主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。」(25節)と、主から約束されて御言葉をよりどころとした祈りとなっています。ダビデにとって「御心のままに」(21節)は、「御言葉のとおりに」(25節)です。神が神として約束されたことがその通りに実現すること、それが祈りの内容であり、祈りのすべてです。ダビデは「あなたのために家を建てる」といわれる主の言葉を聞き、「祈りをささげる勇気を得ました」と告白します。神の恵みの約束を聞くことこそ祈りの原動力です。神がイエス・キリストにあって、あなたを救うという約束をわたしたちは、聖書から聞いています。その約束の言葉を信じるから、私たちは祈る勇気を持つことができます。わしたちの未来のすべてがこのキリストの救いのもとに置かれているからです。

ダビデはこのように約束する神に、「主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。」(28節)と告白します。バビロンの地で捕囚となって苦しんでいる民に、慰めを語るように神から召命を受けた預言者は、神への信仰も失い希望を完全に失っている同胞の民に何と呼びかけたらよいのか、とためらいの言葉を述べました。その時神から示された言葉は、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)というものでありました。人の言葉も業も、野の花のようにはかなく脆いものに過ぎません。しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と預言者は語っています。ダビデはこの預言者と同じ所に立って、神の約束にしがみつきます。ダビデの家がとこしえに続くのは、その約束をした神が永遠の神だからです。その神の言葉がとこしえに立つからです。それゆえ、その神の言葉にしがみついていきる者をとこしえに立たせることができるからです。

このとこしえの言葉が絶えることなく聞ける、与えられるということが、その祝福に永遠に与からせられる道であることをダビデは告白します。この言葉は祈りであると同時に、信仰告白です。祈願はあるけど信仰の告白のない祈りは、不十分です。祈りには信仰の告白がともないます。その信仰が御言葉に基づくものであるなら、その祈りは聞かれます。ダビデはそう確信して祈りました。私たちの祈りはどうでしょうか。

最後に、御言葉に基づく祈りと個人的願望のことに少しふれて終わります。御言葉に基づく祈願の強調は、個人的願望を否定するものではありません。ダビデも個人的な願望を主に祈っています。その場合聞かれた祈りもあれば、聞かれなかった祈りもあります。そのことによって主の御心が示されますが、だからといって聞かれない個人的祈りは御心でなかったともいえません。ダビデの主のために家を建てたいという祈りは聞かれませんでしたが、主はもっと大きな計画、主がダビデのために家を建てるという約束を与え、彼の祈りを、その子ソロモンの時代において実現しておられます。だから、祈りが聞かれないからその祈りがまったく御心にかなわない、信仰的な祈りではないということもできません。しかし、どのような祈りも御言葉に導かれる必要があります。そこから聞いた主の御心にそう祈りを整えていくことが大切です。

旧約聖書講解