サムエル記講解

30.サムエル記上29:1-11『ペリシテ軍から離脱するダビデ』

ダビデは、サウルの追跡から逃れるために、イスラエルの仇敵であるペリシテ人ガトの王アキシュの下に逃れ、アキシュからツィケラグの町を与えられ、アキシュの信頼を得て1年4ヶ月の間ペリシテ人の地に平和に住んでいました(27:7)。その間、ダビデは、ペリシテとイスラエルの共通の敵となるところだけを攻め、将来の王国の基礎を固める備えになる働きをちゃっかりしていたわけですが、アキシュはすっかりダビデを信用してしまっていました。しかし、アキシュとダビデの信頼関係を終わらせる出来事が起こりました。ペリシテとイスラエルとの間で起こった全面戦争です。本章は、ペリシテ軍の戦列に加わっていたダビデが、その戦線から離脱することになる物語が記されています。

ペリシテ軍はアフェクに集結し、イスラエルはこれを迎え撃つためにイズレエルの泉の傍らに集結していました。アキシュはこの戦いにダビデも一緒に参加するよう求め、ダビデはこれに応えたので、彼を自分の護衛の長に任命しました(28:1-2)。ペリシテ軍は、それぞれの都市から参加した兵による混成部隊でありました。ペリシテ軍の行進に都市の領主たちも参加し、それぞれの軍の将官が百人隊、千人隊を率いて、イスラエルが陣をしいているイズレエルの泉に向かって、海の道に沿ってモレの丘のふもとシュネムへと前進していました。アキシュはこれらのペリシテ軍全体の王で、そのしんがりを行進していました。ダビデとその兵もアキシュの護衛を任されていましたので、アキシュと共にしんがりを進んでいました。

しかし、前を行くペリシテの武将たちは、ダビデがイスラエルのために裏切るのではないかという強い疑いを抱いていました。ダビデが率いている軍の数はわずか六百人の部隊であっても、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(5節)という人々の称賛の声は広くペリシテ中にも広まっていました。ダビデが最初にアキシュのもとに身を寄せようとした時にも、アキシュの家臣は、同じ評価を口にして、ダビデの危険性について王に進言していました(21:12)。ダビデが裏切るのではないかと疑念を抱くペリシテの各部隊の長たちは、ダビデたちがその背後から行進しているだけに一層不安でした。巨人ゴリアトを倒し、あれだけ勇敢にペリシテと戦ったダビデがどう考えても、ペリシテのために自分の国イスラエルと最後まで戦うとは思えなかったのです。

だから彼らは、アキシュ王に対する無礼をも顧みず、「このヘブライ人は何者だ」叫びました。アキシュはこの声に応えて、ダビデがいかに忠実に仕えてきたかを証言して見せました。ペリシテの将官たちの嫌疑は、たとえアキシュ王の言葉であっても、簡単に晴れるものではなく、つのるばかりでした。

彼らは、「何の欠点も見出せない」(3節)といって完全にダビデを信頼しきっているアキシュ王に対して、いらだちさえ覚えて、戦列からダビデを離脱させるようにと激しく迫りました。

「この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。

『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」(29:4-5)

この声に彼らのダビデに対する疑念の深さが表れています。「裏切られてはならない」は、ヘブル語原文を字義通りに訳すなら、「我々に対してはサタンになる」となります。しかし、旧約聖書において「サタン」は、「悪魔」という意味はなく、単に「敵対者、反対者」という意味を持つに過ぎません。ペリシテ人の将官たちにとってダビデは非常に危険な平和の錯乱者になる可能性を秘めた人物として恐れられていたのです。

だから彼らがここで提示した理屈は、反論しようのない説得力を持つ言葉となりました。このペリシテ人たちの言葉は、ダビデの名声がどれほど遠くまで轟きわたっていたかを物語る証拠となりますし、ペリシテ人はたとえ敵であっても外国人の武人としての栄誉を認めるほど懐の深い民族であることを伺わせます。ダビデを戦いに参加させるべきかどうか、進軍のさなか開かれた軍事会議の席で否という結論に達し、ついにダビデは軍から離脱させられて元の配置に返されることになりました。

アキシュは全軍を統括する王でありましたが、その軍事会議は民主的な合議制の形がとられたため、将軍たちの決定を苦々しい思いで聞くしかありませんでした。それは彼にとって侮辱的ではあっても、全体の士気に影響しますから、立場上、彼らの意見を聞かざるを得ません。

しかし、アキシュはダビデを本当に信用し、彼の名誉を深く思いやる高貴な精神を持った王でありました。アキシュはダビデを呼んでその決定を伝えますが、その際も、ダビデの名誉を十分考えて、ダビデがいかに忠実にこれまで仕え、今回にも戦いに直ぐな心で参加したかを高く評価し称賛し、ダビデに対する王の個人的信頼感が不変であることを伝えました。しかし、「今は、平和に帰ってほしい」とまるで目上の者に向かうようなへりくだった態度でダビデに伝えています。

注目に値するのは、ペリシテ人であるアキシュが「主は生きておられる」といって、イスラエルの神ヤハウエの名を呼び、まるで同じ神に対する信仰を共有する者であるかのようないい方をしていることです。アキシュ王がここまでしてダビデにおもねるのは、ペリシテの武将たちによる嫌疑のゆえに離脱させざるを得ない王の断腸の思いを伝え、今後も良好な関係でダビデを登用して行きたいという意思を伝えたいためであると思われます。

この王の謙遜な配慮のきいた言葉に対し、ダビデの言葉は、実に奔放で礼儀なしのように思えますが、ダビデはそのように言って、アキシュ王の為にこの戦いに参加しようとした純粋な思いを否定された無念さをあらわにしています。ダビデは本心からアキシュにこの言葉を語ったのでしょうか。サウル王に対しダビデがとり続けた態度や、このペリシテとのギルボアの戦いでこの後戦死するサウル王とその息子ヨナタンの死を嘆くダビデの弔歌からは、ダビデが本気でイスラエルとの戦いの列に加わろうとしていたとどう考えても思えません。そうであるならダビデは大変肝の座った役者です。王を向こうにまわしてこんな大芝居を打てるとは、すごい心臓です。ダビデは内心イスラエルと本当に戦わねばならないとすればどうしようか、はらはらしていたに違いないはずです。

ダビデの見事な演技にだまされたアキシュは、さらに「お前は神の御遣いのように良い人間だ」といって一層の称賛とともに、ペリシテの武将たちの決定も変えられないものであることを改めて伝え、ツィケラグへの帰還を丁重に申し渡しています。

ダビデはこの王の命令を受けて、言われた通りにし、その翌日ツィケラグに向けて帰還しています。そして、ペリシテ軍はイズレエルに向って進軍したことを告げ、この章は終わっています。

本章は、イスラエルとペリシテとの戦いに向けての大転換になる大きな変化が物語れているわりには、淡々と描かれています。本章は、ペリシテ人の武将のダビデに対する嫌疑をめぐるダビデとアキシュの葛藤を物語ることに主眼をおいているのではありません。物語られていることだけを見るならその葛藤に主眼が置かれているのではという錯覚を覚えますが、この物語の主題は決してそのようなところにはありません。ここで物語られている一番重要なことは、その文中にあるのではなく、その行間にあります。出来事はひとりでにダビデの願わない方向にどんどん展開していっています。

もしダビデが本当にアキシュと一緒にイスラエルに対する戦いに参加して、彼のために戦わねばならなかったとしたなら、ダビデは不運な板ばさみでどれほど苦しまねばならなかったか判りません。しかし、彼の意図したことでないのに、ペリシテ軍の武将たちの嫌疑のお陰で、アキシュに対する忠誠心をアキシュに疑われないまま、そして、イスラエルとの戦いをせずに、ダビデはツィケラグに帰ることに成功しました。

しかもこの時ダビデは気づいていなかったのですが、ツィケラグはアマレクに侵入されて、攻撃を受け、女や年若い者から年寄りまで、連れ去られていました。一刻の猶予もない緊急の帰還を必要としている危機的事態がツィケラグに起こっていました。

これらの出来事をダビデは何も知らずにいました。ダビデはこのような困難をいくつも経験する中で、歴史を支配される神の加護と導きを受けていたのです。この物語において、神の名を口にしたのは、異邦人のイスラエルの仇敵であったペリシテ人ガトの王アキシュだけです。しかし、彼は本当に主の支配を信じての言葉では在りませんでした。しかし、彼の口を通して語られた「主は生きておられる」真実を、これらの事態を人の見えない、人の思惑や行為に縛られないで、それらを超えて導かれることによって、主は明らかにしておられます。

神の摂理的支配の中には、人の猜疑心や悪意さえ予め計算に入れられています。ダビデは自分の敵たちによっても守られていますし、自分自身の不誠実さからも守られていたのです。人の思惑や計画に無力で翻弄されているように見える主こそ、これらの事柄を支配するお方です。神は同じようにわたしたちの現実の歴史を支配しておられます。

主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。
主の企てはとこしえに立ち
御心の計らいは代々に続く。
(詩篇33篇10~11節)

悪事にもめげず、最後まで主に信頼する者に主は助けを与えられるだけでなく、罪多き者にも、主はご自身の正義のために大きな憐れみと救いを、思いを超えたところから与えられことがあります。この物語を通してこの詩篇の言葉の真実が教えられています。

旧約聖書講解