サムエル記講解

26.サムエル記上25章1-44節『ダビデとアビガイル』

本章は、サムエルの死が告げられてはじまっています。サムエルは神の御心を告げる「預言者」、また全イスラエルを裁く「士師」として、イスラエルを霊的に指導してきた偉大な指導者でした。サムエルの死は、イスラエルを統一する者がもはや存在しなくなるという危機を示していました。彼に代わるイスラエルを統一する者が登場するのかという読者の不安にサムエル記の記者は、この章に二人の人物を登場させて答えています。ダビデとアビガイルです。ダビデは全イスラエルを裁く王となると、アビガイルを通して語られます。

本章に記される『ダビデとアビガイル』の物語は、美しい短編小説のように実に生き生きとした筆致で描かれています。

サウルから逃亡していたダビデの下には、600人の生活困窮者や不満分子たちが集まり(22:2)、ダビデはその頭領として、彼らの生活の面倒を見ながら、彼らに護衛の役にも当たらせていました。ダビデの逃亡場所は、主として荒野であり、その間にはオアシスが点在していました。家畜を飼う者は、この荒野に羊などを放牧していましたが、時には、ベドウィンなどの攻撃を受け、家畜を奪われたり、命を奪われることがありました。ダビデは、そうした敵から家畜を飼うものたちを守ってやることによって、食料や生活の必要なものをその代償として彼らから得て生活していました。

マオンに「羊三千匹、山羊千匹」を所有する非常に裕福な牧畜事業をしていたナバルという人物がいて、彼に雇われ家畜の世話をしていた多くの牧童は危険な目にたびたび遭っていましたが、ダビデは彼らを何度も盗賊たちの手から守り、余分な代償を求めることもなく、彼らの平和に大いに貢献していました。

そういう間柄でありましたので、ダビデはナバルが「羊の毛を刈っている」と聞き、10人の従者を送り、彼が好意をあらわすことを期待する挨拶をさせています。「羊の毛の刈り入れ」は、羊飼いの収穫祭にあたり、穀物の収穫祭同様、盛大な祝祭行事が催される慣わしがありました。そのような機会に、貧しい隣人たちに何がしかのものが振る舞われるのが常でありました。ダビデはナバルに対してこれまで「兄弟」のような態度で、彼の家畜を飼う者の危機をたびたび救ってきたのですから、それにふさわしい扱いを受けることを期待し、10名の者を使いに出したのです。ダビデのメッセージだけを伝えるなら、2-3名の使いの者で十分でした。その数が10人であったことは、ダビデがかなり膨大な引き出物を期待していたことが暗示されています。ダビデの要望は、現代人の感覚からすれば、厚かましく実にちゃっかりしたものに思えますが、ダビデのような荒野を放浪する集団は、略奪を生業にしていたベドウィンのように、旅人や家畜飼育者にとって危険極まりない存在と見なされていましたから、そのようなものが平和的に振る舞うということは、それなりの見返りを期待することが許されていました。

このダビデの期待が的外れでなく、正当であることは、ナバルに雇われていた羊飼いたちも認めていました(15―16節)。ダビデは単に彼らに平和的に振舞っただけでなく、昼も夜も彼らの「防壁の役」をして、敵の手から守ることさえしてきたのですから、ダビデの使者の言葉をナバルは真剣に聞くべきでした。

しかし、ナバルは「頑固で行状が悪い」(3節)人物で、使者は真実を語りましたが、その言葉を真実とは受け取らず、ナバルは、「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10節)と答えて、ダビデの従者を追い返しました。

ナバルがダビデのことを全く知らないということはあり得ません。彼の妻アビガイルの言葉からも、その牧童達の言葉からも、ナバルがダビデのことについて十分に聞かされていたことは十分推察できます。彼自身の、「最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった」という言葉も、サウル王のもとから逃亡して来たダビデの存在を意識して語られたものであることを示しています。つまり、彼は収穫したすべてのものを「わたしの…」といって、貧しい者にも、手助けしてくれた隣人にも何一つ与えようとしない、「頑固で行状が悪い」人物であったことを自ら証明しました。

ダビデは予想に反する報告を使者から聞き、大変激怒し、従者に武器を取り、直ちにナバルに報復の攻撃を加えるように命じました(13節)。200人を荷物の番に残し、400人がダビデに従って、ナバルに攻撃を加えるべく立ち上がり、直ちに進軍を開始しました。

他方、ダビデの従者に語るナバルの言葉を聞いていたナバルの従者の一人は、「実に親切」に紳士的に振る舞い、「防壁の役をしてくれた」ダビデが祝福を述べようと使いをよこしたのに、主人のナバルは「ののしり」の言葉をもって追い帰してしまった顛末を心配しました。そこで彼の妻アビガイルに、主人の取った行動がいかに危険かを、「御主人にも、この家の者全体にも、災いがふりかかろうとしている今、あなたが何をなすべきか、しっかり考えてください。御主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません」(15節)といって、切々と訴えました。この愚かな主人は、部下の進言を受け入れることのない頑固でおろかなことを、この従者はこれまでもいやというほど経験していたのでしょう。しかし、彼の妻アビガイルは、「聡明で美しい」(3節)だけでなく、行動力もあり、迅速的確に対応できる女性であることをよく承知していましたから、彼はことの仔細をアビガイルに告げ、迅速な対応を求めたのです。

アビガイルはナバルの従者の言葉を聞き、夫の行動のもたらす結果がどのようになるかを即座に判断し、実に迅速で的確な行動を起こしました。アビガイルが用意した「パン二百、ぶどう酒の革袋二つ、料理された羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子二百」は、ダビデの従者たち600人分の食べ物としては決して多いものとはいえません。しかし、それでもダビデが10人の使者を遣わして期待したほどのものは十分にあったと思われます。アビガイルは、それらの贈り物をロバに背負わせ、自分もロバにまたがってダビデのもとへと急ぎ向かいました。

一方、ダビデも怒る感情を剥き出しにしながら、ナバルに報復するため兵を従え急いで向っていました。この山影を急ぎ進む二つの集団が出会う瞬間は実に見事な筆致で描かれています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。」という、憤懣やる方ないダビデのひとりごとを記すことによって、ダビデがどういう思いでナバル報復に向っているかが生き生きと描かれ、訪れる事態の深刻さが際立たされています。ナバルとそこに仕える男たちの皆殺しというダビデの決意のほどをこのように描くことによって、ダビデとナバルの妻アビガイルの絶妙な出会いと、行動が実に鮮やかに描き出されています。

アビガイルは向こうからやってくるダビデの姿を認めるやいなや、急いでろばを降り、ダビデの前にひれ伏して、夫ナバルの非礼、自分がダビデの使いの者に会わなかった失礼を、大げさなほどの慇懃さで詫びています。ナバルの野卑で非礼な行動とアビガイルの礼儀正しく如才ない行動とが、実に見事に対比されています。

アビガイルは夫ナバルのことを、「名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」と言って、そんな愚か者の言葉や行動をまともに取って関わらない方が、ダビデの名誉のために良いと、彼の名誉心に訴えました。ナバルの従者もアビガイルに、「御主人はならず者で、だれも話しかけることができません」(17節)と語っていますが、アビガイルも自分の夫を「愚か者」と切り捨てるようにダビデに告げる姿にドキッとします。そんな「ならず者」で「愚か者」が、義人ヨブの半分ほどの大変な資産家になり得たのは一体誰の才覚のおかげかと思わず考えたくなります。それにはこの賢い妻の才覚が陰に陽に働いたおかげかもしれません。しかし、テキストはこの点について何も語っていません。

ナバルとは、「愚か者」という意味を持ちます。親がそんな名を子供につけるかという素朴な疑問が沸きますが、ヘブル人はそういう災厄が及ばないようにとの願いから、あえてわが子にそのような名をつける習慣がありました。創世記35章には、ラケルが難産の末、その子を生み、息を引き取ろうとする時、生まれた子にベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名づけようとしましたが、父親のヤコブはそれではあまりにも惨めだと思ったのか、その子をベニヤミン(原意は「右の手の子」で、右手は祝福を表すから「幸いの子」という意味を持つ)と名づけました。しかし、母親の気持ちとしては、自分の乳房も与えられない子をベン・オニとしか呼べなかったのです。そう呼ぶことによって、その悲しみを乗り越えてほしいいという祈りをこめたのです。ナバルという名にも、そういう祈りが当然のごとくこめられていたことでしょう。しかし、現実はその名の通りの子となってしまったのですから皮肉です。

アビガイルのダビデに対する説得は、実に聡明な知恵からでた洞察に満ちたものでした。ダビデが胸に秘めた報復を自らの力で行ってしまうなら、不法な自力解決によって主なる神の特権を侵害することになり、ダビデはその流血の罪を犯すことになりました。アビガイルは、常にダビデの態度を、既に彼に約束された未来に照らして見ていました。アビガイルは、ダビデが未来に手にするであろう王の盾をピカピカのままに保っておくための、主の道具の役割を果たす人物としてここで登場しています。ダビデは主の戦いの戦士です。ダビデはその目的のためにのみ戦うべく召されています。それ以外の目的で多くの者を犠牲にすれば、その未来に傷をつけることになりかねません。ダビデはどこまでも主の戦いの戦士として、その約束された未来に見合う働きをしているし、し続けねばならないのです。決して、ナバルのようになってはならない、アビガイルはダビデに対する深い尊敬の思いから、この祈りの言葉を語ります。

そして、アビガイルは預言者的な声を語る者として、ダビデに、「主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから」(28節)、「主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになる」、などと告げました。

冒頭に、主の言葉を取り次ぎ、全イスラエルを一つに導く偉大な指導者サムエルの死が報じられ、果たしてイスラエルは存在し続けるのかというという不安な声がイスラエルの全土にあったという事実を指摘しましたが、ここに「イスラエルの指導者として立てられる」ダビデについてアビガイルが言及することによって、イスラエルの未来はダビデと共にあることを預言しています。

主の計画はダビデの命と結びついて実現するとのアビガイルの信仰の核心は、しかし、そのように主によって運命づけられた自己(ネフェシュ)は、主御自身によって守られるというものでありました。だから、主がダビデの為に堅固な家を建ててくれるに違いないとアビガイルはダビデに預言的に語るのです。

こうして主は、アビガイルを通して、ダビデを一つの危険から救いました。ダビデがもし自分の思いのまま怒りに任せて行動していたなら、ダビデは自分の問題を自分で解決し、自分の運命を主なるヤハウエに任せることなく、自分自身が自分の運命の開拓者、主人のように振る舞う、という罪を犯すことになったでしょう。

ダビデはこのアビガイルの命がけの言葉に、その危険に気づかされたことを感謝しました。そして、アビガイルを主が自分に遣わされた人物として受け入れ、その言葉を受け入れ、その言葉に従い、彼女が差し出す贈り物を受け取り、平和のうちに、アビガイルを帰しました。35節の「願いを尊重しよう」は、字義通りには、「お前の顔を上げた」です。これは民数記6章26節の祝祷のように、主の祝福を告げる言葉です。

アビガイルは、このダビデの祝福を受けて、夫ナバルのもとに帰りました。帰って見ると、夫ナバルは、妻や従者の危機意識をよそにして、能天気にも、宴会を催し、ぐでんぐでんに酔っぱらって、話をできる状態でありませんでした。そこで仕方なくアビガイルは翌朝まで夫の酔いの冷めるのを待ちました。ナバルは二日酔いのがんがんする耳に、妻の語る報告を聞きました。その報告はナバルの耳に恐るべきものでした。その報告を聞いたナバルは意識を失い、石のように固くなり、十日ほど後、ナバルは死にます。

そして、サムエル記の記者はその死を、「主はナバルを打たれ、彼は死んだ」(38節)と告げています。ダビデもまた、ナバルの死を、主の裁きとしてくだされたものであると語っています(39節)。ダビデはアビガイルの言葉に表される主の御旨を信じ、ナバルに対する報復を断念しました。そして今、ナバルの死の報を聞き、その死をそのように理解したのです。主は恵み深く、ダビデが自分で復讐せずにすむようにされたのです。

アビガイルが「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。あなたに対して災難を望む者、あなたの敵はナバルのようになりましょう。」(26節)と語った時、彼女がその結末をこのようなかたちで実現すると理解できていたかどうかはわかりません。しかし、アビガイルもまた、夫の死をダビデと同じ信仰で受け止めていたことは、間違いありません。

ダビデは、この聡明で主に対する揺るぎ無い信仰に生きる女性を妻にすることを願いました。使いを遣わしアビガイルを妻に迎えたいとの意志をアビガイルに伝えました。アビガイルは、ダビデの申し出を受け入れ、ダビデの妻となりました。この裕福な牧畜事業者の未亡人との結婚が、物質面でも士気の面でも、ダビデの立場をどれだけ強めたかについては、サムエル記は何も語っていません。しかし、ダビデはこの地の住民から尊敬と歓迎を受けて迎え入れられたに違いありません。おそらくアビガイルはその亡き夫以上に、夫の従者や、この地方の人々の尊敬を受けていたことでしょうから、ダビデは彼女を迎えることにより、この地の指導者として当然のごとく受け入れられて行ったでありましょう。

ダビデとアビガイルを結びつけたのは、男と女の愛があったとは語られていません。しかし、サムエル記は、二人の間にある主の将来に対する信仰について語っています。自分たちの思いや力で未来を切り開くのではなく、主に委ねて主の約束する未来を共有する、その未来をダビデとアビガイルは共に見ようとしたのかもしれません。アビガイルは、それを31節で、「主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。」という言葉で表していました。ダビデはその言葉を覚えて、アビガイルを迎えたのでしょう。

ダビデの暗い逃亡生活にとって、アビガイルという女性との出会いは、非常に大きな慰めであり、喜びと勇気を与える出来事であったに違いありません。本章はダビデの逃亡生活の間にあって、清涼飲料水のような、あるいは爽やかな風の香りを運ぶような時もあったことをしるしています。

旧約聖書講解