サムエル記講解

21.サムエル記上20章1-42節『ダビデとヨナタンの別れ』

本章には、前章同様ダビデとヨナタンの美しい友情の物語が記されています。しかし、単にダビデとヨナタンのとの間に示された友情だけが記されているのではありません。サムエル記全体の流れからいえば、本章の事件以後、ダビデはサウルの宮廷を出て逃亡生活を始めます。ダビデとヨナタンはその深く固い友情に結ばれていたにもかかわらず、離別しなければならなくなります。サムエル記の記者は、ダビデがどのように宮廷に足を踏み入れることになったかということだけでなく、彼がどのようにしてそこから立ち去ったかについても物語っています。それは、単にダビデ個人に対する関心からからというよりもむしろ、王位に関わる問題として取り扱われています。サムエル記は、ダビデが王位継承に至るまで正当な道を歩んだことを記しています。しかし、そこに至る道は決して平坦ではありません。主の油注ぎを受け、ペリシテ人との戦いに勝利して宮廷に召抱えられることになったダビデは、民衆の間でも、王の宮廷においても、誰にも愛され、尊敬を集め、栄光の道を真っ直ぐ歩んでいましたが、サウル王は、そのゆえにダビデに嫉妬し激しい憎悪と敵意を抱き、殺意を剥き出しに表すようになりました。その結果、ダビデはサウル王の迫害の手から逃れるため、宮廷を去り、再び無に等しい地位に転落し、ペリシテ人の地に亡命したり、難民として荒野を逃げ回ったりしなければならなくなります。ダビデはいわばシンデレラボーイとして、祝福の道を一気に駆け上がったように見えましたが、今や王の心変わりによって、出世コースから完全に外れてしまったように見えます。

しかし、そのようなダビデを、サウルの娘ミカルや、預言者サムエルや、未来の王となるべきヨナタンさえも、入れ替わり立ち代わりダビデの逃亡に援助の手を差し伸べ、ダビデはサウル王の迫害を潜り抜けて生き延びます。こうした人々の手を通し、神の摂理的な支配のもとで王への道を歩むことになります。ヨナタンとの友情も、その道に向う一里塚に過ぎません。しかし、それは後の王に至る大事な第一歩を記す出来事として、ここに報告されています。

しかし、19章でサウル王から絶えず命を狙われて追われているダビデが再び、王の宮廷に帰ったと記す冒頭の言葉は不自然な感じがします。ダビデはなぜそんな危険なところに帰らねばならなかったのだろうか、と疑問がわきます。命をつけねらうサウルの部下がダビデの家を取り囲み見張りをしている中を、かろうじて妻ミカルの助けを借りて逃げ出したダビデが、再びサウルの宮廷に帰るのは現実にありそうもない話です。

しかし、サムエル記の記者はそれを事実として伝えようとしています。そうすることによって、サウル王にとっては悔い改めの最後のチャンスであったことを一方で伝え、他方、そのような危険を犯して帰ったダビデは無実の罪で迫害される者として描かれています。

神の計画における王位継承権は、ダビデに既に移されていますが、ダビデが危険を犯して帰ったこの出来事を通して、彼にその権利があることを一層確実なものとなったことを、サムエル記の記者は伝えようとしています。それは、ヨナタンの口を通して語られる言葉の中に明らかにされています(13―15節)。王子であるヨナタンが次の王位につくのが自然なのに、そのヨナタンがダビデのためにそれを放棄し、彼を助け、ダビデにより、自分とその家の将来を託そうとするヨナタンのダビデに対する契約に基づく不変の信頼、誠実、愛、友情(ヘセド)が表されています。神の歴史支配の誠実、愛は、ヨナタンの無私の愛を通して表されています。ヨナタンの名には「主は与えた」という意味があります。ダビデに対する主の恩恵、愛顧がヨナタンを通して表されるこの運命的出会いを記す物語ほど美しい物語ほかにありません。

ヨナタンの心は無垢なものです。無実を訴え自分の命をつけねらう父サウルの不当さを訴えるダビデの言葉に対して、ヨナタンはその無垢な心で、父は自分には何でもしようとしていることは息子のわたしに打ち明けてくれるはずだから、もし父が本当にダビデの命をねらっているのであれば、それを必ずダビデに知らせる旨約束します。

しかし、ダビデはヨナタンのように無垢な心でこの時ばかりはおれません。ダビデはヨナタンに向って、ヨナタンの父は、ヨナタンがダビデと親密にしていることを知っているがゆえに、息子であるヨナタンに本心をかえって明らかにしないのでは(3節)、と語ります。この点でダビデの方が人間の深層心理を読む洞察力に長けた面を見せています。それに比べればヨナタンは、無垢で純なこころの持ち主です。ヨナタンは高潔で律儀な内面性を持つ貴人として、旧約聖書の中で異彩を放っています。

ダビデよりも身分の上であるヨナタン、その彼がその無私の友情を示す態度において卓越しています。しかし、人の心理を読み取ることにおいてダビデの方が決然としており、優れた洞察力をもっています。ダビデはその洞察力をもって、サウルの真意を確かめるべく一つの計画をヨナタンに告げました(5―7節)。新月祭のために自分の家に帰ったという事実を知らされて、示すサウルの態度ですべてがわかるというダビデの提案をヨナタンは受け入れ、それを確かめるべくヨナタンは行動します。この無垢な王子ヨナタンは、自分よりも身分の低いダビデのためにひとはだもふたはだも脱いで働くのです。真実の愛は無私です。ヨナタンはその心で、ダビデの計画の実行者となります。

しかし、ヨナタンはダビデにどこまでも誠実にその計画を実行することを、主なる神の名にかけて誓いをたて、ダビデに一つのことを要望します。それを語るヨナタンの言葉はじつに感動的であります。ヨナタンは、「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」(13節)と、ダビデとサウルを同列において語っています。これはヨナタンがダビデを未来の王と認める発言をしているとしか解せません。そして、ヨナタンはダビデが後に栄光の地位(王位)についたなら、自分に対しても、自分の子孫に対しても、慈しみの態度を示して欲しいという嘆願をしました。ヨナタンはダビデに「主の慈しみ」を求めました。

新しく王となったものは、古い王家の一族には、その反逆の芽を根絶やしにするため、残虐な仕打ちをもって臨むということが常道のように行われていました。ヨナタンの嘆願は、そのような風習を踏まえての発言です。ヨナタンはダビデとの契約の友情に誠実です。ダビデにもその誠実を期待し、ダビデを信頼してこの嘆願を行っています。ダビデは後にこの友に対して誠実を果たします(下9章)。

ヨナタンは本来なら来るべき王であるのに、今や法的保護を失い、王のもとから逃亡生活者とならねばならない人物に向かい、主の将来における決定を予見し、その人物の王になることをひたすら願い、その人物の慈しみに、自分の命と自分の子孫の命を預けようとするのです。そこに、ダビデこそ主の選びの器であるという無垢で揺るぎないヨナタンの信仰があったからです。神の計画では、いままさに王に放逐されようとしている人物こそ、王になる人物なのです。それをヨナタンは信仰の目でしっかりと見極め、この神の計画に自らを委ねるのです。ヨナタンは「ダビデを自分自身のように愛していたので」(17節)彼に誓わせて、その命を預けたのです。命を預けるという行為は、そこまで信仰(信頼)しないとできません。わたしたちの神に対する信仰はそうなっているでしょうか。

そして、ヨナタンは父の意思を知らせる合図の方法を取り決め、「わたしとあなたが取り決めたこの事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」(創世記15:15参照)といって、二人の間には、主がおられ決して破り得ない取り決めであることを強調しています。ヨナタンは「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」(13節)とも告げています。

ダビデの指定した新月祭の時がきて、限られた者だけがつくことができる王の食卓が用意されました。この王の食卓につけるのは四人の男たちだけです。オリエントの世界では今日においても、このような機会に女性たちの出席は許されていません。王は壁を背中に最上の場所に座ります。その向かいには王子ヨナタン、その片方には、王の従兄弟で軍の長アブネル、そしてその向かいにはダビデが座ることになっていました。王は、一日目、不在のダビデのことは何も尋ねず、二日目にダビデの不在について尋ねました。ヨナタンはダビデと打ち合せたとおりに父サウルに告げました。

するとサウルは激怒し、「エッサイの子をひいきにする」ことは自分を辱めることだとヨナタンを激しく罵倒し、「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない」(31節)といって、ダビデが生きているか限り、サウル王家の安泰が確保できないという、サウルの心の奥底にある恐れを言葉にして表しました。そして、サウルはヨナタンに向って槍を投げつけました。サウルは激怒し息子に向って危険な行為をしましたが、ヨナタンに語ったことは理にかなった言葉でした。ヨナタンこそ正当な王位継承者であるというのは、紛れもない周知の事実でした。しかし、ヨナタンはダビデに対する友情のゆえに、自分の危険も顧みず、ダビデの約束を果たそうとします。

ヨナタンは、父の態度を見て父が本当にダビデを殺そうとしていることを知り、食事の席をたちました。ヨナタンは、ダビデに知らせるべく約束の野に年若い従者を連れて行き、弓を強く引き若者の頭をはるか越えたところに向けて射ました。「矢はお前のもっと先ではないか」「早くしろ、急げ、立ち止まるな」という意味は若者にはわかりませんが、ダビデにはその意味ははっきりと理解できました。ヨナタンは若者を町に帰し、ダビデと二人きりになりました。

二人は口づけし、共に激しく泣きました。ヨナタンはダビデに平安を語り、二人とその子孫との間には、主が共におられることを確認して、ダビデとヨナタンは、断腸の思いで別れます。激しく抱きあい、口づけして、共に泣く姿を叙述するその言葉から、二人の厚い思いが伝わってきます。

とこしえにいます主が二人の間を取り持ち、その友情を支え、離れ離れになっても、二人を強く結びつけるのです。しかし、その愛する友と別れねばならないことはやはり悲しいのです。

「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる」(42節)というヨナタンの言葉は、ダビデを励ます言葉であると同時に自分を励ます言葉でもあったのです。

旧約聖書講解