サムエル記講解

20.サムエル記上19章1-24節『サウルの追手からの救い』

前章には、サウル王がペリシテ人との戦いで大勝利を収めたダビデを称える女たちの歌声に嫉妬し、ダビデに敵意を抱き、ダビデをペリシテ人の手によって殺そうとしたことが物語られていました。サウル王は「陽皮百枚」を持ちかえるなら、娘ミカルを妻として与えるとの約束を与え、ダビデをペリシテ人との戦いで戦死させようとの企てをしますが、ダビデがその2倍の戦果を持ちかえったため、サウルは主がダビデと共におられることを知らされ、意に反して娘のミカルをダビデに与えねばならなくなりました。ダビデは王の婿として宮廷の中に住み、ダビデと娘ミカルとの結婚生活を見て、ミカルがダビデを愛していることを思い知らされる羽目になり、サウルのダビデに対する敵意と憎しみは癒し難いものとなりました。

本章には、サウルとダビデの関係が刺々しく悪化していく様が描かれています。サウルはついに間接的にペリシテ人の手によってダビデを殺す方法ではなく、ダビデを家臣の手によって直接殺そうと決心するに至り、サウルは息子ヨナタンや家臣の全員にダビデを殺すように命じ、その殺意を他人に打ち明けました。

サウル王の命令は、その息子ヨナタンと娘ミカルにとって、ダビデに対する愛が本物であるかを問われる危機に直面させることになりました。ダビデの命だけでなく、ヨナタンとダビデの友情、ミカルとダビデの夫婦愛の真実が問われ、危機に直面したのです。それはまた、主は本当にダビデと共におられるのかが問われる危機にでもありました。

ダビデはヨナタンの友情、ミカルの夫婦愛を通して、その命が守られるのでありますが、実はその背後に神が事柄を支配し導き、ダビデと共におられるので、ダビデは死ぬことなく、救われます。本章は、一方で、ダビデこそ主が共にいますものであり、神にも人にも愛される人物であり、来るべき王にふさわしい者であることを明らかにし、他方で、サウルは王にふさわし者でないことを物語っています。この点を物語りの中から読み取ることが大切です。

最初に記されているのは、ヨナタンとの友情の問題です(1-7節)。

ヨナタンは父サウルからダビデを殺すようにとの命令を聞き、深く心を痛めました。「ダビデに深い愛情を抱いていた」ヨナタンは、その事を隠すことができず、ダビデを救うために、ダビデに父の殺意を告げました。そして、自分は父に執り成しをはかり、その結果がどうであったかを伝えるので、それまで野原の隠れ場に止まるようにと、ヨナタンはダビデに告げました。

ヨナタンは、ダビデに約束した通り、父サウルと二人だけになる場所を選び、その機会を得た時に、ダビデがいかにサウル王に忠実で有用な人物であるかを話し、必死になって翻意を促しました。ヨナタンは、ダビデが父に対して罪を犯すことがなかっただけでなく、大変役に立つ人物であり、「あのペリシテ人(ゴリアト)を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです」(5節)と、サウルに訴えました。

ヨナタンの言葉は、誰も否定できない事実でありました。そして、その事実を認めるなら、その大勝利をもたらす人物に主が共にいることも認めないわけにはいきません。これらの事実を認めた上で、その罪なき者の血を流すことは、罪を犯すことになるという、ヨナタンの言葉は非常に説得力のあるものでありました。サウルは憤怒にかられて自己を失うところをしばしば見せる人物ではありましたが、冷静な論理的な議論のできる人物でもありました。ヨナタンは息子として、冷静に父親の性格を見ぬき、この議論をし、父親を説得することに成功したのです。ついにサウルは、息子ヨナタンの理にかなった説得を受け入れ、「主は生きておられる。彼を殺しはしない」と誓うに至ります。

この誓いを聞き、もう大丈夫と確信して、ヨナタンはダビデにことのすべてを伝え、ダビデをサウル王のところに連れて行きます。そして、ダビデとサウル王の和解が成立します。ダビデはこれまで通りサウル王に仕えられるようになり、ヨナタンは友情の危機を克服することに成功します。

ヨナタンのダビデとの契約に対する愛、誠実さは、神が人間の救いに向ける愛を鏡のように見ているようで、美しく、きらきらと輝いています。

ダビデは、地位と名誉を回復しただけでなく、戦士として相変わらず多くの戦果を上げ、ペリシテ人からますます恐れられる人物となりました。

しかし、サウルのダビデに対する嫉妬、敵意、憎しみの感情は、それでなくなりませんでした。サウルはまたダビデに対する敵意、殺意を抱くようになりました。

「主からの悪霊は降った」(9節)という語は、わたしたちには困惑を覚えさせる言葉です。主は悪霊も人に贈るのか、主は悪の原因になられる方か、と困惑するのです。しかし、この言葉はそのようなことを述べようとしているのでありません。サウルの精神の錯乱を通しても、主はダビデと共におられ、ダビデを守り、歴史を支配しておられるということを説明しようとしているのです。サウルが槍で殺そうとダビデに投げつけようとしても、主がダビデと共におられるので(18:12、14、28)、ダビデは身をかわすことができ、自分の命を救うことができたのです。

ダビデはサウル王のもとから逃れて自分の家に帰りますが、ダビデの家はサウルの命令によって遣わされた使者が見張りをしていました。そこで妻のミカルはダビデを救うために知恵を働かせます。

この光景は、思わず笑いたくなるような、コミカルなものです。ミカルはダビデを逃亡させる時間稼ぎをするために、見張りの目を欺く作戦を立てました。それは、テラフィムというお守りの働きをすると考えられた偶像を、ダビデがいつも寝る寝床に起き、その頭に山羊の毛をかぶせ、着物で覆って、いかにもダビデがそこに寝ているかのように思わせて、見張りの目を欺いたのです。サウルに遣わされた使者は、ダビデを捕らえようとしましたが、ミカルは「彼は、病気です」と答えたため、その中に入るのを断念しました。それをサウル王に伝えると、サムエルはダビデを見舞うのだといって中に入りこみ寝床ごと運び、ダビデを殺すよう命じますが、時既に遅しです。ダビデは城の城壁に編み込まれるようにしてある窓からミカルの手でつり降ろされて、逃亡してしまったあとです。サウルはなぜそのようなことをしたと問い詰めると、ミカルは、「殺す」と脅されたからだと答えています。

ヨナタンは理詰めでサウルを説得しダビデを救いましたが、ミカルは女らしい知恵を働かせて、見張りを欺き、父を欺いて、ダビデを救いました。しかし、ここでも背後に、真の救いの手として主ご自身が働いておられることを見逃してはなりません。主が共におられるので、主がダビデにもっておられる計画を、サウルは決して妨げることはできないのです。サウルの槍も、彼が遣わすどの使者も、主が共にいます人物には、まったく歯が立たないのです。

しかし、ミカルの物語は、一つの疑問をわたしたちに投げかけます。なぜ、ダビデの家にテラフィム(創世記31:19、士師17:5では家の守護神のように用いられているが、列王下23:24のヨシヤ王の宗教改革では厳しく禁止されている。その理由は、エゼキエル21:26、ホセア3:4、ゼカリア10:2に見られるごとく、それが占いに用いられたからです)という偶像があったのかという疑問です。テラフィムは、家の守護神と考えられていた偶像です。サウルに対する裁きを告げるサムエルの言葉が15章22-23節に述べられていますが、その中で、「高慢は偶像(テラフィム)崇拝に等しい」ということが述べられています。サウル王が既に家の神として、このような偶像をとり入れ、娘のミカルもその偶像を受け継ぐ者となっていたことを伺わせます。しかし、サムエルの言葉にも、十戒でも禁じられているように、テラフィムを持つことは罪でありました。サムエル記の記者は、この一件を単にダビデの逃亡に役立つ出来事として報告するだけでなく、サウルとその娘の共通する罪にも目を向けるように、読者の注意を喚起しています。ダビデとミカルとの結婚生活は決してうまく行きませんでした。二人の間には子もなく、後に契約の箱が帰還した時、上半身はだかで喜び踊ったダビデを、ミカルはさげすみ、非難の言葉を述べ、ダビデとミカルは以後決定的に冷めた関係になります(下6章20節以下)。ミカルはダビデの男としての魅力に恋心を持っていたかもしれませんが、ダビデの主に対する無垢な信仰を共有することはありませんでした。テラフィム像は、利用する対象であり、父サウルも同じようにして用いていたものです。それを、この親子がまことの神ヤハウエを欺き、人を欺くために用いたのは単なる偶然ではありません。しかし、そのような彼女の行為すら神は支配し用いダビデを救われるのです。

こうして難を逃れたダビデは、ラマのサムエルのところに行き、サウルから受けた仕打ちを報告し、助けを求めます。サムエルは逃亡して来たダビデとラマに共にいることは危険だと感じたのか、ダビデを連れてナヨトに行きます。その場所がどこにあったか、今日では特定することができません。サムエルはそこで預言者の学校の校長のような立場で預言者の指導にあたっていたようです。

しかし、そこにもサウル王の使いが遣わされ、ダビデを捕らえようとやって来ました。しかし、サウルの使いの者たちは、神の霊に妨げられてその目的を達することができません。再度使いが遣わされますが、二度目も同じ結果となります。そして、三度目にはサウル自身がやってきますが、彼も同じように狂想状態に陥り、一昼夜裸のままで倒れ、王の威厳も面目も失うようなことになります。この出来事もまた、主がダビデと共におられ、主がダビデを危機から救われること示しています。

ダビデはサウルのような「預言状態」(狂想状態)の陥ったといわれていません。サムエルについてもそうです。ペンテコステ系の熱狂主義の信仰にこうした宗教体験を重んじる考えが存在しますが、聖書はこの体験主義の信仰を決して肯定的に評価していません。神の言葉に忠実な預言者サムエルとダビデの信仰がむしろそのようなことと無縁であることを示していることの方がより重要です。信仰にとって重要なのは神秘的な宗教体験ではなく、御言葉に聞く信仰であり、神の支配と導きに委ねる静かな信仰であるということです。神はそのような信仰者と共におられ、救いの導きを変わりなくあたえておられるのです。

旧約聖書講解