サムエル記講解

19.サムエル記上18章1-30節『ダビデとサウル王家の人々』

18章には、ゴリアトを倒したダビデが、サウル王に召し抱えられることにより、王への道がいかにして開かれて行ったかが描かれています。サウルの嫉妬と奸計にもかかわらず、ダビデは神の摂理的な支配のもとに、神にも人にも愛される王としてその道が確実に開かれてきます。そして、この章にはダビデとサウル家の人々との関係が実に生き生きと描かれています。父サウルの嫉妬にもかかわらず、長子ヨナタンはダビデと友情の契約を結びます。次女のミカルはダビデを愛し、ダビデと結婚することになります。イスラエルの人々だけでなく、王家の人々からも愛されるダビデの人物像がここに大きく描かれています。

1-4節には、ダビデとヨナタンの美しい友情の契約が記されています。「友情」という言葉を用いましたが、聖書には「友情」を表す語がありません。「友」「友人」の語はありますが、「友情」の語はありません。ここにはそれに変わる語として、「契約」(3節)の語が用いられています。人と人との友情の交わりを表すのに、神と人との交わりを表す「契約」の語が用いられ、しかもダビデとヨナタンは、後に「主の御前で契約を結」(23:18)びます。仲良くなろうという言葉だけの、事情や心変わりによって失われる友情ではなく、法的な強い絆で結ばれた友情が描かれ、この友情は神と人とのあり方をもさし示すものとしても描かれています。(雨宮慧著『旧約聖書のこころ』女子パウロ会、参照)

「ヨナタンの魂(ネフェシュ)はダビデの魂(ネフェシュ)に結びつき、ヨナタンは自分自身の(ネフェシュ)ようにダビデを愛した」(1節)といわれています。魂と訳されたヘブル語ネフェシュは、もともとは「喉」を表す語です。

「 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂(ネフェシュ)はあなたを求める」(詩篇42:2)というように、喉の渇きを覚え、また食欲など、人間の欲望・願望と強く結びつく器官としてヘブライ人は覚えてきました。ヨナタンがダビデを「自分のネフェシュのように愛した」ということは、自分の欲望、願望の全てを、ダビデに委ね、彼と一つにして生きるということです。ヨナタンはその具体的表明として、王子が身に着ける「上着」「弓」「帯」に至るまでダビデに与えました。ヨナタンとダビデの友情はヨナタンの死後にも及びました(下1:25-26)。ヨナタンは、「イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となる」(23:17)といって、ダビデにイスラエルの王の継承権を譲るほどダビデを愛し、その友情を不変の態度で最後まで貫きました。ダビデはヨナタンのこの友情を「女の愛にまさる愛」(下1:26)として称えています。

ダビデがそのように称えるほど、ヨナタンのダビデに対する友情は深く献身的なものでありました。ヨナタンは戦士としての勇敢さ、度量、人気、どれをとっても、サウルの後継王となる資質を十分に備えた人物でした(14章)。しかも彼はサウル家の長子でありましたので、彼が王位を継ぐことにイスラエルの中から異を唱える者が出る可能性もありませんでした。どこから見ても王になるのがふさわしい人物ヨナタンが、ダビデを自分のネフェシュのように愛し、彼にその王位を譲っても惜しいとまったく思わないだけでなく、ダビデのために仕える歩みに徹しきるヨナタンの友情、兄弟愛(実際ダビデとは義兄弟の間柄となる)は、この地上で見られる人間の愛の最も美しいものとして覚えられるべきでしょう。

しかし、見方を変えれば、ダビデという人物がそれほどまでに人を魅了する人間であったことを物語っています。ダビデはこうして、王の心だけでなく、その長子の心まで魅了しました。

そして、ダビデは、サウルに仕える兵士として戦場に遣わされる度に勝利をもたらす勲功を次々に上げ、サウルは彼を戦士の長に任命し、ダビデはすべての兵士からも、サウルの宮廷に仕える家臣にも喜ばれる人物になります。

こうして戦いのたびに大勝利をもたらすダビデを、イスラエルの女たちは歓声を上げ、太鼓や三弦琴を奏で、歌い踊り迎えました。女たちは「サウル王を迎えた」とありますが、実際に歓呼して迎えられたのはダビデです。

「サウルは千を討ち ダビデは万を討った」(7節)という女たちの歌い声は、サウル王とダビデの武勲を称えるものでありましたが、サウル王の耳には、ダビデの素晴らしさのみを称える歌声として入ってきました。

サウルはこの日以来、ダビデを激しく嫉妬するようになり、憎しみを抱くようになりました。かつてサウル王の荒ぶる心は、少年ダビデの奏でる美しい竪琴の響きで癒されましたが、成人し立派な勇士となって、人々から人気を博するようになったダビデの奏でる竪琴の響きの美しい音色は、もはやサウルの耳にも心にも響かなくなりました。ダビデの演奏、心が変わったからでありません。これを聞くサウルの心が変わったからです。その変化をサムエル記の記者は、「神からの悪霊がサウルに降った」(10節)ためだと説明しています。サウルの責任をそれで軽減しようとしているのではありません。サウルの悪しき行為の背後にも、人の理解を超えた神の大きな支配と導きがあることを、サムエル記の記者は説明しようとしているのです。

心の平静さを失ったサウルは、いつものようにサウルの心を慰めようとしたダビデの竪琴に響きを聞いて、サウル王は女たちの歌声を思い出し、怒りを覚え、槍を手にして、ダビデを突き刺そうと二度振りかざしましたが、ダビデは二度とも身をかわして、逃れました。

サウルは人々からますます愛されて行くダビデを恐れ、憎むようになり、自分のもとから遠ざけるため、千人隊の長に任命します。ダビデは、戦いの時に先頭に立ち、勝利して帰還する時も先頭に立ちました。先頭にたって指揮をして戦い勝利する勇敢な戦士ダビデは、「イスラエル人とユダ人」のすべての人から愛されるようになりました。ダビデの人気はもはや、ユダ部族だけでなく、全イスラエルに広がっていました。

サウルはダビデが勝利を収めるたびに恐れるようになりました。サウルは、人の声を大切にする王であったからです。神の声よりも人の声を敏感にかぎ分け、人の声を大切にしながらその王位を保つ、「他の国々」の王のような歩みをしていたからです。民の心がダビデに移っていることをサウルは恐れたのです。

しかし、サムエル記の記者はサウル王の心の変化は、「神からの悪霊」(10節)によるものであることを記しています。

ダビデが勝利を収めたのは、彼が軍人として優れた才能をもっていたからでも、人の気に入るパフォーマンスをいっぱい行ったからでもありません。「主は彼と共におられ」(14節)たからであるといっています。主はダビデと共におられたから、ダビデはいつも勝利することができたというのです。もちろんダビデの信仰は主と共に生きる信仰でありました。サウルもまた主が共にいまし、主に任命された王でありましたが、サウルは主と共にあることを第一とする生き方をせず、民衆の心と共にあることを第一として罪を犯したため、主はサウルと共におられなくなりました。そのサウルも「主がダビデと共におられること」(28節)を認めていました。サウルがダビデを一層恐れ、敵意を抱いた理由は、民衆の人気よりもむしろこのことにあったといえます。

サウルにとって不幸だったのは、このことを認識していたのに、主が共にいるダビデを人間的な悪意と陰謀によって殺そうとしたことです。

サウルは自分の手でダビデを殺すのではなく、ペリシテ人の手で殺そうとしました(18節)。そしてサウルは、その計画を実行するため、サウルの戦士として主の戦いをするなら、ダビデに長女のメラブを与えるとの約束をしました(17節)。このサウルの約束は、ゴリアトを倒した者に与えるとした約束を彷彿させるものです(17:25)。しかし、ダビデはゴリアトを倒したのに、サウルはそのことを実行していません。考えられるのは、その時ダビデは元服していない少年だったので、ここで元服した戦士として王のために武勲を上げるなら、という条件を改めてサウルが提示しているということです。それは、サウルの行為が恣意によるものではなく、正当なものであることを主張するために好都合でした。

ダビデはこの申し出を受けるに値しないものであるといって王の婿になることを辞退する謙遜さを示しましたが、サウルの命令には従って求められた勲功を上げました。しかし、サウルは、娘メラブがダビデに嫁ぐべき時に、メホラ人アドリエルに嫁がせてしまいました。これはダビデの忠実さとサウルの不誠実さを示す事件としてここに報告されています。

それでもダビデが生きている限り、サウルの心は平安ではなかったのです。サウルは、ダビデを何とかしてもっと危険な戦場に送り、もっと難しい条件を課して、ペリシテ人の手によって殺そうとチャンスを伺っていました。そして、とうとうそのチャンス巡ってきました。次女のミカルがダビデを愛しているという部下の情報を聞いた時です。サウルは、今度は二番目の娘を嫁に与えることを、家臣を通じてダビデに伝えました。

これを聞いたダビデは「わたしは貧しく、身分の低いものです」といって王の好意を受けることはできないといいます。ダビデは、王の娘に贈る結納金の用意ができない貧しいものであったからです。ダビデの父エッサイは民の長老をしていたくらいですから、それほど貧しい者であったとも思えませんが、王の婿になれるほど身分は高くありませんでした。しかし、サウルはそのような結納金などなくてもよいから、王の敵への報復のしるしとしてペリシテ人の「陽皮百枚」をもって来るなら王の婿にしようといいました(25節)。

しかし、これはダビデをペリシテ人の手で殺すための口実にしか過ぎませんでした。サウルがダビデに求めたのは、ペリシテ人の耳でも鼻でもなく「陽皮」(男性の性器の包皮)です。この要求は、割礼なき民であるペリシテ人を辱める『主の戦い』(17節)という意味合いをもたせるものであったと考えられます。その意味を理解してか、サウルの約束を聞いたダビデは「王の婿になることは良いことだ」と判断し、ダビデは兵を従えてペリシテ人を討ち取る戦いに出かけ、その倍の二百人分の「陽皮」を持ちかえりました。

そのゆえに、サウルはついに約束どおりダビデの妻として娘のミカルを与えねばならなくなります。サウルは二度までダビデをペリシテ人の手によって殺すという計画を失敗した上、自分の意図に反し娘のミカルを与えることになり、ダビデをますます王位継承者としての正当な権利ある者に近づけることに手を貸すことになりました。

サウルはダビデを殺す目的を達するだけであれば、ペリシテ人の「陽皮百人分」だけ持ちかえるようにという命令を発するだけでもよかったはずです。しかし、それが娘を与える条件としたところに彼の計算にない、神の深い計画がありました。そして、その事実を通して、「サウルは、主がダビデと共におられる」(28節)という事実をますますはっきりと知らされることになり、娘のミカルも本当にダビデを愛している事実も思い知らされて、二重のショックを受けることになります。彼はこの出来事を通して、ダビデをいっそう恐れ、その敵意は一時的な気まぐれではなく、生涯を通してのものに変わります。

しかし、サウルがダビデに敵意を抱き、排斥しょうとすればするほど、ダビデは民衆からも自分の子供たちからも愛される人物となっていきます。

この物語には、主の御心を求めないサウルから主が離れ、主の御心を大切にし、主の油注ぎを受けたサウルの命令に忠実に従う(そのことによって主に従っている)ダビデに主が共にあり、主から祝福を受けるダビデの様子が見事に描かれています。しかし、このダビデは同じような罪、あるいはそれ以上の罪、誤りを後に犯しています。自分の性的な罪を隠すために、バテシバの夫ウリヤを戦場の一番危険な所に遣わして殺すという、とんでもない罪をダビデは犯しているのです(下11:15)。ダビデの場合はそれでも赦されたのに、サウルはなぜ赦されなかったのか、それはなぞです。一ついえることは、ダビデは恣意のために敬虔を装う「主の戦い」(17節)という言葉は用いなかったということです。その罪は預言者ナタンによって厳しく断罪されましたが許されました。しかし、ここでのサウルの計画は、主の御心に反するものであるにもかかわらず、「主の戦い」のカモフラージュがなされていました。そこに赦されざる問題があったとしか考えようがありません。

この物語は、御心にかなわない人の計画は挫折し、主の御心だけが硬く立つことを、歴史の中でおりなされる実に人間くさいドラマの中に示される神の摂理的な導きを示しています。「他の国々のような」この世の王の生き方をするサウルは、自分の恣意でダビデを排斥しようとして失敗したことは、わたし達に多くの教訓を与えてくれます。現在の政治家や支配者たちも同じように恣意的な政治や支配を行いやすいのです。そのたびに国民は苦しんでいます。そしてそのような悪しき政治家たちの思うようにすべてがいっているかというと、そうではないのです。神は見えざる中にも確かな支配を表しておられるのです。神の支配を信じて、上なる権威にしたがって生きるダビデと共に主がおられたように、同じようにしてわたしたちが生きるなら、主が共にいて同じように守りのみ手を表されることを、この物語は伝えてくれているのです。

そして、サウルの憂鬱症は、神も人も信じない人間の本質は、コンプレクスによるジェラシーに支配されて行くところから発生する心理的な問題であることもこの物語はじつに見事に描いています。そして、悪霊に捉えられた心も、「主がダビデと共におられる」(28節)神の真理を認識できることを示しています。それは、神の計画に抵抗する悪霊に取り付かれたものの本能を示しています(マルコ1:24)。サウルはこの悪霊の呪縛から解放されませんでしたが、主イエスは言葉によって悪霊を追放されました(同1:25)。サウルの憂鬱症の癒しに必要なのは、彼の人生に神の言葉が回復され、神の言葉と霊の力でその心が神に正しく向けられ、人に対するコンプレックスやジェラシーから解放される必要があります。現代の病める問題にも同じことが言えるでしょう。

神に向けて心が開かれている生き方の大切さを深く教えられる物語でもあります。

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