サムエル記講解

6.サムエル記上5章1-12節『ペリシテ人の地における神の箱』

4章において、イスラエルがペリシテとの戦いにおいて、主の臨在を証しする「神の箱」を持ち出し、戦いに敗れ、「神の箱」が奪われたことは、イスラエルにおける神の不在と、イスラエルの神は無力を意味するのではなく、神の現臨を受けるに値しないイスラエルに対し、神がご自身を隠し、神の箱の偶像化を拒否し、神はそれとは関わりなく歴史を形成することができる方であることを示すためであった、ということを既に明らかにしてきました。

この認識の下で5章の出来事を理解して行くことが大切です。5章は、ペリシテ人の地に奪われた神の箱がその後どうなったかを示す実に興味深いことが記されています。主は、神の箱をイスラエルの自由にはさせませんでした。神の箱はペリシテ人の手に渡りましたが、主は神の箱を放棄されたのでありません。そして、神の箱が姿を消しても、主ご自身が姿を消したわけでないことが、実に鮮やかに示されています。

ペリシテ人は、重要な戦利品として、神の箱をエベン・エゼルから彼らの領土の中央に位置するアシュドドにある彼らの神殿、即ちダコンに運びこみました。

ダゴンは、元来アモリ人の神で、シリア地方で広く崇拝されていました。ペリシテ人は、イスラエル人と違って自分たちが定着した地の実情に適応し、その地において信仰されていた神を崇拝しました。

彼らが神の箱をダゴンの神殿に運びこんだのは、イスラエルに対する勝利を単に軍事的なものとは考えず、「神対神」の戦いに対する勝利として、ダゴンに捧げるためでありました。この戦争は、イスラエルにおいて聖戦としてとして位置付けられていましたが、ペリシテ人もそのようなものとして意識していたことが、4章8-9節の「あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ。 ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」という言葉から明らかです。

ペリシテは戦いに勝利し、戦利品としてとったイスラエルの神ヤハウエの臨在を証する神の箱をダコンの前に置くことにより、ヤハウエとその神を信奉するイスラエルとがペリシテ人の信奉するダコンに仕える者となったことを示そうとしました。

これはダコンの神の卓越性とヤハウエの無力をイスラエルとその周辺世界に示す絶好の機会になるはずでありました。

しかし、翌朝になってみると、ダコンの像は、「主の箱」の前の地面にうつ伏せに這いつくばるようにして倒れていました。この姿勢は、主人の前で奴隷が、王の前で臣下が、そして神の前で礼拝者がとる姿勢です。ペリシテ人が戦いに敗れたなら起こるかも知れないと最も恐れていたことが、イスラエル人との戦いに勝利したのにもかかわらず、戦利品としてとってきたイスラエルの神の箱の前に彼らの神がその姿勢で倒れ臥していたのです(4章9節参照)。

これに驚いたペリシテの人々は、ダゴンを持ち上げ、元の場所に据えました。

詩編115篇4-8節において異教の偶像の神について次のように言われています。

国々の偶像は金銀にすぎず
人間の手が造ったもの。
口があっても話せず
目があっても見えない。
耳があっても聞こえず
鼻があってもかぐことができない。
手があってもつかめず
足があっても歩けず
喉があっても声を出せない。
偶像を造り、それに依り頼む者は
皆、偶像と同じようになる。
また預言者イザヤは次のように言っています。
ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。
彼らの像は獣や家畜に負わされ
お前たちの担いでいたものは重荷となって
疲れた動物に負わされる。
彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。
その重荷を救い出すことはできず
彼ら自身も捕らわれて行く。(イザヤ46:1-2)

偶像の神は、このように人の手で作られたもので無力です。無力な偶像によりかかる人は、偶像と同じように扱われます。イスラエルの「神の箱」利用はまさに異教徒の偶像の神への信仰と同じ所に立っていまいした。そして、神の箱の前でその威光を示そうとしたダコンの偶像は、同じ無力を示しています。

前587年にバビロンによるエルサレムの神殿破壊はイスラエル史における最悪の屈辱的な事態でありました。イスラエルは神が臨在される神殿を持っている限り国は滅びないと信じていましたが、肝心の御言葉に聞く信仰を示さず、異邦人のような偶像宗教化した歩みを繰り返し続けていた時に起こりました。神殿も国の主だった指導者も敵の手に渡り、国も神殿も失われてしまう恐るべき出来事でした。しかし、国の滅亡と神殿の消失は、イスラエルの神の無力を意味するのでも、神の啓示の終わりを意味するものでもありませんでした。むしろ、イスラエルの信仰に大きな転換をもたらすことになりました。イスラエルは、神殿やイスラエルの特権に対する偶像化の信仰に対する神の「ノー」をその出来事に見、悔い改めの心で新しく神の言葉によって立つ信仰の大切さを再発見しました。サムエル記はそういう体験を経た人物の手によって記されています。

元の場所に戻されたダゴンはさらに次の朝になってみると、今度は単に地面に倒れているだけでなく、頭と両手が切り離されて、胴体だけが残っていました。それは、ダゴンの神像の無力を示すものとなり、ペリシテ人のもくろみは完全に失敗し、かえってイスラエルの神の卓越性を証明することになりました。

この箱の持ち主である神は、こうしてご自身の卓越性をこの地の神ダゴンに思い知らされただけでなく、その神を信奉するアシュドドの住民にも破壊的な力を示されました。「 主の御手はアシュドドの人々の上に」(6節)及び、彼らは、「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」(7節)と言って、「主の箱」を好きなように引き回すことのできない恐るべきものであることを認識するようになり、神の箱を自分たちのところから遠ざけようとしました。「主の御手によって」もたらされた「災害」は、「はれ物」であったとされていますが、これを「線ペスト」であったのではないかと言われていますが、判りません。イスラエルの神の箱はアシュドドから同じペリシテ人の町ガトに移されましたが、そこでも同じような災いがもたらされ、「主の御手がその町にはなはだしい恐怖を引き起こし」ました。それゆえ、神の箱は、さらにガトからエクロンに送られました。エクロンの人々は、神の箱を送る行為を、自分たちを「殺すつもり」の悪意と見て、人をやりペリシテの領主全員を集め、イスラエルの神の箱を元の場所に戻す提案をしました。

この箱のおかげで、ペリシテ人の身体と農地は甚大な被害を受けていました。ペリシテ人の主要五都市の領主たち全員からなる評議会が開かれたのは、この事件が国家存亡の大事件に発展する危険性を察知していたからです。

ペリシテ人が打ち負かしたと思いこんでいた神は、実は打ち負かされてはいませんでした。むしろ本当の勝利者であることが明らかにされました。主なる神は、ご自分の民も、偶像化された神の箱も、敵の手に引き渡すこともできる自由を持っておられます。それゆえ神の箱が敵の手に渡ったのは、神の無力や不在ではなく。神の自由を示し、敵の地にある神の箱を用い、神はご自分が、イスラエルの地を越え、世界と歴史を支配する主であることを明らかにされました。神は何処においても存在することができ、どこをも支配され、主権をもっておられます。主は何処においても神であり続けます。イスラエルのシロの町では、神の箱が奪われペリシテ人の手に渡ったという知らせを聞き、「叫び声があがった」(4:13)といわれますが、ペリシテ人の町エクロンでも、重くのしかかる「主の御手」を見て、町中が「死の恐怖に包まれ」、「町の叫びは天にまで達した」と言われます。

人の思いの中で翻弄される神の箱を偶像化されることを神は拒否されます。しかし、その箱に臨在を明らかにされる主は、何処においても神であることを明らかにされます。同じように、十字架の主は、人々の勝手な考えや行いにより翻弄されますが、何処においてもご自分が神であることを明らかにされます。しかし、主は災いではなく救いをもたらそうと臨んでいてくださいます。その叫びは、まだ信仰といえないものかもしれません。しかし、主の臨在と力を恐れる叫びは、やがて十字架の主への信仰に結びついていくものでもあることを覚えることが大切です。そして、神は人に担われて存在し得るのではなく、神はご自身の言葉に聞く民を生まれる前から選び、白髪に至るまで背負い救い出される方であることを、次の言葉から覚えておくこてが大切です。

わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書46章3節~4節)

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