サムエル記講解

4.サムエル記上3章1節-4章1節『サムエルの召命とエリ一族への託宣』

2章12節以下にエリの家に示される主の審判が明らかにされている部分を前回学びました。敬虔な祭司エリの子として生まれた二人の息子ホフニとピネハスは、その委ねられた祭司の地位を利用して、礼拝のために捧げられた犠牲の動物の肉を私する重大な罪を犯していました。エリはこの二人の罪を神の人から告げられ、その子たちに忠告して止めさせようと努力しましたが、その子たちは父親の忠告に耳を傾けず、それを止めることはありませんでした。彼らの罪は、主を重んじないことにありました。それゆえ、主は「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。」(2:30)といって、エリ一族に対する裁きを告げられました。エリの家族の悲しむべき事実が告げられる中で、その家族と共にあって、エリのもとで祭司として修行をつみ、「すくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれるものとなった」(2:26)幼いサムエルの健気(けなげ)で純粋な心で仕える、かわいらしい姿が、実に印象的に対照されていました。

3章は、エリの家に告げられた裁きが少年サムエルを通して再度告げられる場面が記されています。彼が祭司となる修行をしているその家の裁きを告げる担い手として用いられることがすでに大きな皮肉ですが、神の言葉が一番語られ聞かれているはずのこの家に、その結果として、イスラエルには、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(1節)という状態が続いていました。1節の御言葉は、そういう状況の中で、相変わらず少年サムエルが黙々と「エリのもとで主に仕えていた」姿を報告しています。

既に高齢で目も体も不自由となっていたエリは、神の箱の置かれている神殿で寝ることはできなかったのか、「エリは自分の部屋で床に就く」(2節)ことが多くなっていました。「神のともし火」を神殿で夜切らさず燈すことは祭司の家の需要な務めでした(出エジプト27:20-21)。少年サムエルがこの重要な務めを任され、神の箱が安置されている主の神殿で番をしていたこの事実が、彼が成長し、祭司の務めに習熟し、エリの信頼を十分受ける存在になっていたことを示しています。しかし、他方、この目立たないが重要な勤めを果たすものが他にはいないため、少年のサムエルに頼まざるを得なかったのかもしれません。

いずれにせよ、1-3節に描かれていることは、これまでイスラエルを霊的に指導してきた祭司エリが高齢となり、その務めを十分果たすことができなくなり、その言葉を取り次ぐ適任者がいないという現実が示されています。またエリの家の腐敗、罪のゆえに、神の言葉が乏しくなり、幻も示されなくなっていた事実が示されています。

神が語られ幻を示される能力が乏しくなっていたのではなく、神の言葉に聞こうとしないこの家に、神からは何もなされなかったのです。神から何事も起こらないとすると、そこは、万事、専ら人間の思いや行動だけが支配する世界です。そこに神が存在しないのではなく、神はその顔を隠されたままでおられるのです。「 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか」(詩編14:2)と待っておられたのです。そこに現れたのがサムエルです。サムエルは、イスラエルに失われていた神の言葉を回復させる預言者として、神によって召し出されることになる一つの事件がここに報告されています。

4-9節に、主の神殿で「神のともし火」の番をして寝ていたサムエルに、主が3度呼びかけられる出来事が記されています。「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」状況でありました。それゆえサムエルは、主の言葉を聞いたこともなければ、どのように聞いていいのかも知りません。サムエルは、自分に向かって呼ばれる主の御声をエリの声だと勘違いします。この時呼びかけたのが主なる神であることを、エリもサムエルも気づかなかったのです。

しかし、三度同じ呼びかけを聞いたというサムエルの言葉を聞き、エリはそれが主の言葉であると悟り、主の言葉の聞き方をサムエルに教えます。

『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」とエリはサムエルに主の言葉の聞き方を教えました。主のお言葉を聞く、説教を聴くふさわしい態度は、主が語られるままを、僕として、聞くということです。僕として主の言葉を語られるままに聞くという行為は、音声として聞くということにとどまるのでありません。聞いた主の言葉に服するということが含まれています。主が語られることに聴従するのが信仰です。そして、主が語ることに聴従する信仰を持つために必要な準備が要ります。ここで用いられている「聞く」というヘブライ語は、分詞形で用いられた場合、「聞く用意ができている」というほどの意味を持つといわれています。神の言葉聞くためにそのような準備のできた態勢が必要であるということです。

しかし、この場合のサムエルに語られた主の言葉は、それ以上のものであり、特別な意味をもっていました。それは、久しくなかった主の言葉がイスラエルに臨んだということであり、また示されることの少なかった幻が示されたということであり、さらに重要なのは、このサムエルへの主の顕現と啓示により、彼は主の預言者として召しを受けたということを意味していたからです。

サムエルは祭司としての職務に習熟して行き、それにふさわしい者に整えられつつありました。彼は既に立派な祭司としての将来は約束されていましたことでしょう。そして、彼がそのように忠実であったから、もう一つの神の人としての職務への召しが与えられたのでしょうか。そうでありません。この預言者職への召しは、この奉仕の結果ではなく、あくまでも神の直接的な呼びかけによる召命の結果です。神はサムエルを聖別し選び分かち、預言者として召すべく、彼に呼びかけ、彼の語るべきご自身の言葉を告げられるのです。

サムエルは、この神の言葉を聞くふさわしい準備のし方をエリから教えられ、主の来られるのを待ちました。主は再びサムエルのところに来られ、「サムエルよ」(10節)と呼びかけられました。

サムエルに告げられた主の言葉(11-14節)は、エリの家の運命に対するまことに戦慄すべき主の裁きに関するものでありました。「それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう」といわれる裁きは、「エリの家をとこしえに裁く」という厳しさで臨み、「エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることがない」といわれ、2章で予め告げられた以上の厳しさで語られています。その厳しい裁きが避け得ない理由として、「 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のため」(13節)であることが明らかにされています。年老いて目の不自由なエリが、言葉だけでその子たちの罪の生活を改めさせることがいかに難しいことであったことかと同情したくなりますが、そこには斟酌される余地はありませんでした。

「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れ」(16節)ました。この恐るべき主のお告げを、老齢のエリに告げるにはあまりにも気の毒に思えたのです。しかし、エリはサムエルに3度呼びかけられた方が主であることを知り、主のお言葉の聞き方を教えていましたから、その後きっと主が重要な啓示をサムエルに行ったであろうことを知っていました。それゆえ、サムエルがいつまでも主の託宣を告げにやって来ないのを不思議に思ったエリは、サムエルを呼んで、「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」(17節)とサムエルに語りました。

エリは、サムエルに主の言葉の聞き方を教えました。それは、主の言葉を取り次ぐ預言者としての聞き方でありました。預言者に告げられる主の告知は、時には聞きたくない、人に語りたくない内容であることもあります。むしろそのような場合の方が多いかもしれません。しかし、それは何処までも示された主の真実な御旨です。聞きたくない、語りたくない、という人の思いで、それを語らないことは、預言者にとって罪となります。その者を主は祝福せず、呪い、罰せられます。エリは、「お前に語られた言葉を一つでも隠すな」とサムエルに告げます。預言者にとって主の言葉を聞くことは、それを隠さず告げることであることをエリはサムエルに教えました。未だ少年でしかなかったサムエルに、そのことの大切さをエリは教えました。自分の子を育てられなかったエリが、サムエルに神の言葉に聞くことの大切さを教え、その神の言葉によって、自分の家に下される神の審判の言葉をサムエルから聞かねばならないとは、何と皮肉なことでしょう。

サムエルは恐れましたが、エリの言葉に励まされ、隠し立てせず、「一部始終を話し」ました。エリは恐れと慎みをもって、サムエルが語る主の審判の言葉を聞きました。それは、サムエル以上に聞くのがつらい内容でありました。しかし、その言葉を最後まで聞いたエリは、「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」と語る信仰は実に立派で、感動的です。サムエルもエリも神の下に立つ人間であることを自覚し、明らかにされた神の御旨に信仰をもって聞き、主の目にかなうことだけが行なわれることを祈り願うのです。エリは自分の子の罪ゆえに、家に下される主の裁きを受け入れ、これに潔く服そうとします。その災いが主の裁きであるなら、それに聞くところにまた主の救いがあります。しかし、その信仰になかなかわたしたちは立てません。けれどもそれが喜ばしい救いの言葉でなくても、主の言葉である限り、徹底して聞くところに救いがあります。エリは信仰の目でその事実を静かに見ています。

サムエルはこうして成長し、「主は彼と共におられ」神の人として語る主の言葉は一つとして地におちることはなかったといわれます。「ダンからベエル・シェバ」は、イスラエルが最も広い領土を支配していた時の、北の端から南の端の地を指し、サムエルの語る主の言葉が全イスラエルに向かって語られ、預言者として人々に広く認められ、信頼されていたことが20節に明らかにされています。主の言葉が絶えてなかったイスラエルに対する主の言葉が回復は、サムエルが預言者として、主に選ばれることによって実現しました。彼は、依然として祭司としても働き、王的な働きもする預言者でもありました。シロは今や神の偉大な啓示の舞台となります。その権威は、神の箱がそこにあるからではなく、主の言葉の賜物を受けるふさわしい人がいるということに基づいて存続しました。サムエルはモーセ以来現れなかった、預言者、祭司、王の三職を兼ね備える王的なメシアの型として、「神の人」と呼ばれるにふさわしい人物として1~3章の物語は告げています。新約のルカ福音書は、来るべきメシア、キリストを指し示す預言者として、彼の物語を下敷きにして、その成就として救い主キリスト出現を書き記しています。

旧約聖書講解