サムエル記講解

3.サムエル記上2章12-36節『聖所で仕えるサムエルとエリの息子たち』

この箇所は、11節の「 エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた」という言葉を受けて、聖所において祭司エリの下で仕えるサムエルの成長と彼がその定められていた祭司の職務に習熟して行く姿とエリの家の罪とがコントラストされて描かれています。ここには、単にサムエルの成長の過程が描かれているだけではありません。主に対して乞い願われ、そして主に委ねられた少年サムエルは、最も高い権威によって指導的な役割を予定され、またそのための素質も付与された人物であることが描かれています。

「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」という12節の言葉は、エリの息子たちがサムエルの反対像のように浮かび上がらせています。エリ自身は敬虔な祭司でありましたが、その息子たちは「ならず者」(原文はベリアル「無価値な者」)で、「主を知ろうとしなかった」とんでもない者たちでした。彼らの思い計ることは、神の意思を正しく行うことではなく、専ら自分たちの利益を追求することだけに向けられました。律法で規定された祭司の取り分は胸の肉と右後ろ肢の肉(レビ7:34)か肩と両頬と胃の部分(申18:3)に限られていたのに、「肉刺しで突き上げたものはすべて、祭司のものとし」(14節)、いけにえの肉についている脂肪はすべて主の分として焼き、煙にするのが規定であった(レビ3:3-5)のに、煙にする前にエリの家に仕える「祭司の下働きたち」は、それを捧げる人々から無理やり奪い取っていました。エリの息子たちは、明らかに法を退けて恣意を行い、神の意志を退け、人間の利己心を行っていました。生肉を要求することは、神を差し置いて自分たちを第一の地位に置くことを意味していました。主の取り分である脂肪を捧げようとした信徒たちの方が、本来聖なる法の番人であるはずの祭司たちよりも、主の律法の擁護者としてふるまっているのは大変な皮肉です。

しかし、このような聖所における堕落した陰鬱な情景の中で、一人無関係に「主の御前に仕えていた」(18節)少年サムエルの快活な修業生活が描かれています。サムエルはすでに祭司の装束である「亜麻布のエフォドを着て」この職務についてかわいらしいほほえましい姿で「祭司の下働き」をしていました。幼くして聖別されて祭司として仕えることになったサムエルは、日常の生活の中で母と口を交わすことのできない別の生活をしていましたが、彼の家族は、変わりなく毎年、年毎のいけにえを携え、巡礼のためシロの聖所にやってきました。母のハンナはどんどん成長する息子サムエルのために「小さな上着を縫い」(19節)それを持参し、それを届けるのを楽しみにしていました。成長の早い少年は前年の上着は着れなくなりますので、サムエルは毎年母の造る上着を着てその愛を離れていても感じ、同時に自分を捧げた母の誇りを心に強く感じていたことでしょう。この年に一度の親子の再開は、双方に喜びを与え生きることの誇りを与え希望を与えるときとなりました。子供は近くにいて育てるから立派に成長するとも限りません。エリの息子たちは親のそばにいても「ならず者で、主を知ろうとしない」者に育ちましたが、サムエルは母の元を離れても立派に成長しています。1年間かけて紡がれた一枚の上着にこめられる母の愛は、遠く離れていても少年の心に届いたでしょうし、主に捧げ祈りの中で主に仕える子の成長を願う母の心を主は気遣い配慮されます。この夫婦の愛、主への献身を見た祭司エリはエルカナとその妻を祝福し、「主に願って得たこの子の代わりに、主があなたにこの妻による子供を授けてくださいますように」と言い、主はハンナを顧み5人の子供を与えられました。旧約聖書は、主の祝福をこのように見える形で表します。そして、母の下ではなく、しかし「主にあって」(1節)という母の祈りの通り、「少年サムエルは主のもとで成長」(21節)します。神の恵みの光が献身するこの家族に強く当てられています。

このように成長するサムエルに対し、エリの息子たちの罪はますます大きくなります。年老いたエリの目がますますその息子たちに届かなくなります。こともあろうに聖所で仕える女性たちと床を共にする一層おぞましい罪が犯されます(22節)。その良くないうわさがエリのもとに届き、エリは父親として厳しく叱責しますが、息子たちはこの忠告を聴こうとしません。祭司の家は、普通の人の家であれば気づかれないことでも、ガラス張りで人々の目に付きます。この事態は祭司の家にとって致命的なことであるとの認識はエリにはありました。だからエリは、息子たちに厳しく叱責したのです。「 人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」(25節)というエリの言葉は、祭司が犯す罪は、人が人に対して犯す罪とは違い、神に対して犯す罪であるゆえに、神の善意をもはや表し得ない致命的な、神への挑戦となることを明らかにします。

しかし、彼の息子たちは、それにまったく耳を貸そうとせず、取り返しのつかない結果を引き起こします。この出来事はエリにとって責任のある悲しい事となります。しかし、「主は彼らの命を絶とうとしておられた」(25節後半)という言葉は、エリの家の罪もまた、神の全能の計画の中にあったことをしましています。この悲しい心痛む家族の歴史の傍においても、成長する少年サムエルの姿があり、「主にも人々にも喜ばれる者」がいます。そこに罪の世を救う救い主として世に来られる方を指し示すサムエルの存在が示されています(ルカ2:52参照)。神は大きな罪が犯されその罪を悲しむ家族の願いを超えたところで、それにも影響されずにご自身の計画を遂行し、それを包み込む大きさでその救いを成就されるお方です。

しかし、祭司エリは厳しい主の裁きを聞かねばなりませんでした。エリの祖先は主エジプトの時代に、レビ族の中でも特に祝福されたアロンの家に属する祭司職の担い手として名誉ある地位を与えられていました。それは、その家系に属するものたちだけに与えられていた特権であった祭司の職務だけに、その本務に関わる罪はとりわけ重大なものとみなされます。エリの子供たちへの態度が決していつも甘かったわけでないと思われますが、主に捧げられるべき最上のものを私したその罪は、見過ごされることはありません。「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。」(29節)といって主はエリにその罪を激しく非難しておられます。

この罪を犯した家に与えられていた「とこしえ」の約束(30節)は、取り消されると告げられます。主は捧げ物を問題にしておられるのでありません。主へ捧げられるべき「最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やす」心を問題にされるのです。主は、「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。」(30節)といわれます。

主の祝福が具体的な子孫の繁栄という形で表されましたが(21節)、裁きと呪いも子孫の減少という形で表されています(31節以下)。祭司職は永続します。しかし、その職をあてがわれた家系は「とこしえ」の約束にもかかわらず、重大な背信の罪のゆえに退けられて行きます。しかし、全面的にエリの家族が祭司の職務から排除されるわけでないことが、「 わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく」との一つの慰めが語られています。

主は祭司の家系を更迭することを語られます。重大な罪を犯した張本人であるホフニとピネハスの「二人は同じ日に死ぬ」(34節)といわれ、新しい主の御心にかなった主の望むことを行う忠実な祭司を立て、その家を確かにする(35節)ことが告げられます。

祭司の務めは、個人の家に与えられた特権を守って行くことではありません。そのことが勘違いされる現実があることを、この出来事一方で語りつつ、そのような企てをもし人が計ろうとも、主がその権利侵害に対してご自身が立ちあがられること、またそのつとめを果たす家を主ご自身が起こされることを明らかにされます。主の権利を侵害し、善良で誠実な礼拝者の心を踏みにじったエリの息子たちは、それで肥え太ったかもしれませんが、「あなたの家の生き残った者は皆、彼のもとに来て身をかがめ、銀一枚、パン一切れを乞い、『一切れのパンでも食べられるように、祭司の仕事の一つに就かせてください』と言うであろう。」皮肉な取り扱いを受けるといわれています。

この物語は、主を重んじるサムエルとその家族と主を重んじないエリの息子たちに対する取り扱いを通して「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。」主のみ胸が強く心を指す言葉で記されています。子の躾や教育の難しさが叫ばれている今日の時代にあって、この物語はわたしたちの心を強く打ちます。身を切るような主の前における献身、それを何が何でも第一にする信仰、それを喜ぶ信仰に与えられる者となるサムエルとその家族でありたいと願います。願うだけでなく、現実に生きることが求められています。

旧約聖書講解