ルツ記講解

4.ルツ記4章1-22節『人の悲しみを乗り越える神の祝福の系図』

今日でルツ記の学びは最後になります。夫を失い、二人の息子を失い、失意のどん底でベツレヘムに帰ってきたナオミは、女たちがナオミさんではないか歓呼して向かえるその声に、ナオミ(快い)ではなく、マラ(苦い)と呼んでほしいと言って、「出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです」(1:21)と嘆きの言葉を述べていましたが、彼女の嘆きを喜びと希望に変える時がきました。それをもたらすのは、「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神」といってナオミについてきた亡き息子マフロンの嫁ルツです。彼女がナオミの近親者であると知らず、ボアズの畑で落穂を拾ったことから、ナオミとルツの歩みは急転換することになりました。

夫エリメレクの残した土地を受け継ぐ男子を持たない家族は、その土地を売って手放し、細々と生きる道を選ばざるを得なかったのですが、ボアズの出現によって、ナオミは買戻しの権利と義務を負う近親の者を見出すことができたからです。

ナオミは、嫁のルツに命じて、ボアズの気づかない間に、その思いを遂げようとしますが、ボアズに気づかれました。しかし、ナオミとルツの、神の約束に基づく権利を行使しようとする信仰、特に、姑の言い付けを忠実に果たそうとするルツの誠実な信仰に、ボアズも信仰の誠実さにおいて答えようとします。

これらの行為はレビラート婚制度を背景にして行われていますが、ここでは、その制度が拡張して適用されています。レビラート婚については、申命記25章5-10節にその定めがありますが、この制度で義務を負うのは、兄弟の関係においてです。近親のものにまで拡大して、この制度を適用しているのは、聖書中ここだけです。

ボアズは、ルツに約束したとおり、町の「門」のところへ行き、自分よりも買戻しの義務を負う近親の者にその責任を果たさせようと、証人となる長老たちの前ではっきりさせようとします。町の「門」は、裁判や商談などが行われる場所です。公の証人となる人がそこにいて、その証人の前で、争いごとなどの決着をつける慣わしがありました。

ボアズはその慣わしにしたがって、自分よりも近いエリメレクの近親の者に、証人となる長老の前で、その責任を果たすつもりがあるかどうかを確かめます。ボアズは、その近親の者に、「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」(5節)と告げました。このボアズの言葉を聞いたその近親者は、そこまで責任を果たすと、自分の賜業までも損ないかねないから、「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます」と言って、その意思のないことを表明しました。そして、イスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡をする際に、一切の手続を認証するために、その当事者は履物を脱いで相手に渡すことになっていましたので、その親戚の人は、この習慣にしたがって、履物を証人たちの見ている前で脱ぎ、その権利をボアズに譲りました。

ボアズは長老たちと共にその権利が自分に与えられたことを確認して、今度は、彼がその親戚の人に求めたことを、自らが果たさねばならない義務を負うことを明らかにします。「エリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取」り、「マフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわない」よう義務を果たすことを、ボアズは証人たちの前で宣言しました。

証人となった民と長老たちは、ボアズが迎え入れる婦人とボアズに対して神の祝福を求めて語ります。この場面は、実に感動的な場面です。ここで言及される「ラケルとレア」は、ヤコブ(イスラエル)の妻です。そして、タマルの名が挙げられているのは、彼女もまたレビラート婚制度の下で大胆にその権利を主張し、救い主の歴史で名を連ねることになった女性であったからです。しかし、このルツ記を記した著者は、タマルとルツが救い主の系図に名を連ねることになるということを知っていたわけでありません。この著者が知っていたのは、いずれの女性も異邦の女で、ダビデ王の系図に名を連ねる者となったという事実だけです。

しかし、それでも、この出来事は、やはり特筆大書すべきことであることに違いありません。このボアズとのルツの結婚は、当人たちの想像もできない形で救いの歴史にその名を刻むことになったことに、特別な意味があります。神の救いは、イスラエルという民族に約束されていたとしても、その救いを約束するダビデの家系には、異邦人の血も入っており、男中心の社会にあって、この女たちの信仰において、この救いの歴史につながりが与えられ、この女たちに、その救いの歴史に名をとどめさせることによって、神は、ご自身が与える救いが、すべての人、すべての国にやがて与えられるものであることを明らかにされます。そして、そのようにして、新約のキリスト待望の信仰の道を用意されていることを見逃してはなりません。

このナオミとルツの信仰は、実に驚くべき泥臭さと、地上的な神の約束への執着に支えられた内容です。しかし、互いの愛と誠実は、約束する神への信仰に結びつき、神は、二人の運命を、ボアズという人物を通して導かれます。

ナオミを歓呼して向かえたベツレヘムの女たちは、ここで再び、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」(4章14~15節)といって、ナオミを祝福します。

「出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです」(1章21節)

というナオミの嘆きは、完全に癒され、主にある希望を完全に回復されています。このルツ記には、神ご自身の言葉は記されてはいませんが、実に神の深い恩寵と大きな導きが力強く告げられています。直接語りかける神の言葉がなくても、また希薄であっても、神は、いつも共におられ、神の言葉とその約束に縋り付いて行きる信仰者の道を重んじられるお方であることを、このルツ記は記しています。

「あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。」(1章16節)

というルツの信仰を神は顧み、この信仰から救い主の歴史を導かれるのです。

その救いの歴史において、イスラエルが神の不変の約束と結びつけて特に覚える名は、ダビデを通してです。そのダビデの父エッサイは、ボアズとナオミから生れたオベドの子として生れたことが4章17節に記されています。つまり、ボアズはダビデの曽祖父あたることがこれによって明らかにされているのであります。

そして、4章18節から22節には、ダビデにいたる系図として、あのユダによってタマルが生んだ子ペレツからその名が記されています。このルツ記の巻末に記されている系図は、神の不変の約束を信じるイスラエルの信仰の系図を示すものです。

しかし、この系図に連なるイスラエルの歴史は、様々な試練にさらされ、その信仰はしばしば危機に見舞われました。ダビデは、カナンの地でイスラエルを国家として確立し、その繁栄を築いた王です。しかし、そのイスラエル国家の歴史の大半は、弱小の国家として歩み、たびたび国家存亡の危機に直面しました。

アハズ王の時代、パレスチナの弱小国家群に襲いかかる北の超大国アッシリアの脅威に備え、防衛するため、パレスチナの諸国は、連合して対抗しようとしました。イスラエルはその大きな荒波に巻き込まれて、どう進むべきか思案します。しかしいずれに組することも、歴史を支配し、導かれる主を信じる道から遠ざかる道です。主への信仰の確信を持てずに、人間的知恵で事態を切り抜けようとして右往左往するアハズ王に対し、預言者イザヤは、「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(イザヤ書7章9節)と告げました。そのときイザヤが、主のしるしとして示した預言がインマヌエルという子が与えられるというものでした。この子は、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝」(イザヤ書11章1節)として語られています。

この若枝として育つ子は、「平和の王」として生れることが預言されています(イザヤ書11章2-10節)。

その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。(イザヤ11章2-5節)

エッサイの若枝として生れる子は、「主を恐れ敬う霊に満たされ」、人も動物界も平和に共存して暮らす世界を実現する救い主として生れると、徹底して語られています。

「出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。」(ルツ記1章21節)

といってかつて嘆いたナオミに、異邦人の嫁ルツを通して与えられた子によって、神は、大きな希望と慰めを与えただけでなく、エッサイの子孫として生れる救い主の系図に連なる幸いに与らせておられます。

ルツ記を読む者には、主の約束を信じて生きるものに与えられる、この人間の思いを超えた神の恵みの歴史連鎖を見る目が求められています。旧約聖書から新約聖書に流れる、この神の約束の救いの連鎖の中で、人間の悲しみや苦しみ、無力が、神の恵みの力によって乗り越えられ、希望と喜びへと変えられていく現実を見る時、その恵みの支配が、現在、キリストにある約束、望みに生きる私たちにも変わりなく現されていることを強く覚えさせられます。

旧約聖書講解