詩編講解

52.詩篇107編『主は渇いた魂を飽かせ』

この詩篇は、22節において、「感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え」と歌われているように、祝祭において感謝の供え物を捧げる前に歌われた会衆による感謝の歌に属します。祝祭が行われるとき、巡礼のために、国々からあらゆる方角から聖所に多くの人がやって来ます。その際、祭司は会衆に向かって感謝の告白を促します。

1-3節はこの詩篇の導入部に当たりますが、1、2節は祭司が会衆に向かって感謝の告白を促す言葉です。そして、繰り返し苦難のなかで表された神の恵みをたたえ、それに対する感謝の応答を求めます。

神の選びの民は、単に困難から解放させられて神の救済に与かったということにおいて独自な意味を持っているのでありません。出エジプトの解放の出来事は、彼らを主の民、主なる神のみを礼拝する共同体として召し、整えることにその目的がありました。イスラエルは主に選ばれた信仰の共同体として常にこの自覚の下に立つことが求められました。

それゆえ、この詩篇において、感謝と告白のために神の家に集まった会衆は、「救われた者たちの共同体」として自覚を持っていました。彼らは単に困難から解放させられたのではなく、多くの国々と多方面から共同の礼拝を行うために聖所に集まってくることを許される特権に与かったのであります。この事実の中に、彼らは、かつてイスラエルが主の民として形成されるときと同様に、今、自分たちを通して表される神の慈しみと恵みの御手が働いているのを見ることができるのであります。イエス・キリストにあって主の民とされた者として、わたしたちが礼拝において常に覚えねばならないのは、かつてイエス・キリストを通して表された救いの御手がいまも変わりなく働いているという事実を、信仰の目で見るということであります。

そのために御言葉から救済の歴史をたえず思い起こし、あの歴史に表された神の慈しみの御手がいまもわたしたちの上に表されていることを確認していくことが礼拝において重要な要素となります。

4-9節において、約束の地目指して砂漠の地を歩む途上でイスラエルが遭遇した様々な困難と罪にもかかわらず、神が奇しき御手の力によって彼らを助け導き入れようとされたことを想起するなかで、巡礼者は自らの体験を重ね合わせて、神の奇しき救いの導きを深く覚えさせられています。その導きは礼拝祭儀のなかで約束され、待ち望まれたとおり成就したことが確かめられるのであります。

荒野を旅する者が経験する、飢え、渇きは、肉体の疲労だけでなく、まさに魂を衰え果てさせるほど厳しいものであります。その苦難の中で主を求めて叫ぶ者に、主はその苦しみから助け出し、道を迷い再び命を危険にさらさせず、飢えることも、渇くこともないように導きを与えられます。それは、巡礼者にとっては、御言葉の導きにほかなりません。そしてそれは、救済史において示された神の導きが現在の自分にも与えられていることを深く覚える時であり、飢え渇く魂は癒され満たされる時であります。その体験を、9節のように告白しています。

このように救済史における生ける神と出会うという祭儀体験において、祭儀に与かる会衆は、自分も神の歴史のなかに引き入れられていることを見いだします。神の救いの歴史は、父祖の時代の啓示をもって始められているだけでなく、聖なる礼拝祭儀行為の中での神の臨在において、生き生きと礼拝者に迫ってくるのであります。そうした礼拝のなかで、会衆に神のすべての恵みと救いが保証されるのであります。会衆はこれに対し感謝をもって告白することによって、新たに得た救いと信仰の確かさを全地に響きわたらせることができるのであります。

10~32節の三つの連は、特別困難な状況から救われたことにそれぞれ感謝する会衆個々に向かって語りかけられています。

10~16節は、再び自由の身となった捕虜に向けて語りかけられています。
17~22節は、癒された病人に向けて語られています。
23~32節は、海難から免れた船員たちに向けて語られています。

これらの救いの物語は、合唱に合わせて語られているのであります。合唱は歓呼と感謝を持って神の奇しき救いの恵みを告白して、神の栄光をほめたたえています。このようにして、神は、礼拝者にあらゆる困難から救い出す助け手として、偉大で崇高な姿でその臨在を明らかにされるのであります。このような神の現在において、個人の宗教体験、あるいは歴史における特殊な宗教体験は、会衆全体の事柄となります。そのとき、会衆は感謝の祭りの深い意味を理解することができるのであります。

33節以下は、この詩の第二部にあたります。
この部分は、讃美の歌となっています。この讃美の歌において、神の救いの支配の卓越した力を、ほめたたえています。神の救いの支配は、イスラエルの信仰において、神の救済史として最も基本的な出来事として理解されているのであります。それは、葦の海の救い、荒野の旅における守り、土地取得とカナン定着へと連なっていきます。しかし、そこでの背信の罪と、富む者の傲慢の故に、没落と流浪化する民が現れますが、神は富む者を貧しくし、貧しき者を富ませることによって、その立場を逆転させて、真実を果たされます。

神の恵みと救いは、正義と公平によってどこまでも遂行されます。すべてが神の祝福に終わることが確認され、42~43節において、もう一度会衆は神の救いの支配に目を注ぐことが求められているのであります。

「目を注ぐ」とは、歴史に現された神の聖なる救いの出来事を現在のものとし、自分自身も共に体験する救いの出来事として信仰の目で見ることを意味しているのであります。それを信仰の目で見ることのできる者は、神への喜びで満たされるのであります。しかし、神に対するあらゆる批判的な見方と高慢は、神の前で沈黙しなければなりません。神の恵みの業を大切にし、いつまでも信仰をもって心に刻みつけよとの命令は、わたしたちが本当に神の前に賢くあれとの命令でもあります。

このように神を深く思い、感謝し、目を注ぐものこそ、本当に知恵ある賢いものであることをこの詩篇は教えているのであります。

旧約聖書講解