詩編講解

49.詩編101篇『完全な道』

この詩は、王の詩篇に属します。おそらくこの詩は、王の即位祭をきっかけになされた、王の宣言であろうと言われています。従って、この詩篇の作者は、エルサレムに住むユダの王であると考えられます。作者は、この詩は現状を描写しているのではなく、支配者の態度を規定すべき、高い理想的な決意を表明しています。彼は、他人の行動の指針を上げる前に、王である自分自身に対するあり方を明らかにしています(4-8節)。

この詩において、作者は、国を支配する原理は、一つのより高い意思の前に、支配者も被支配者も同じ責任を持つことを明らかにしています。より高い意思に従うという責任意識が、支配者と被支配者をつなぐ絆となっています。

「慈しみと裁きをわたしは歌い」という言葉でこの詩篇は始まっています。これは作者の決意を表す言葉であります。

「慈しみ」を表すヘブライ語はヘセドです。これは、元来、神がその民に与えた契約関係から発している言葉であります。契約に基づく連帯性は、受けるに値しないものに与えられた神の助けの業としての恵みと誠実を意味します。同時にそのようなものとして慈しみを意味します。この神の態度は、その契約の相手である民の行為の規範となります。したがって、慈しみは、義人の理想像の重要な要素の一つとなります。

「裁き」はミシュパートです。イスラエル法の本質を把握するためには、ミシュパートという概念の正しい理解が不可欠であると言われています。

この語は、先ず、事物や人物を支配する「規範」を、そしてそれら(事物や人物)の「規範に即した」行為、あり方、およびそ権利と義務を表します。ですから、王のミシュパートとか、祭司のミシュパートとか、奴隷のミシュパートなどといわれています。すべての人間、すべての事物が、それぞれにふさわしいミシュパートを持っています。そして、この語は、事物相互、人間相互の間の秩序、共同体全体の福祉のための「規範に即した」行為とあり方を表すときにも用いられます。このように、この語はきわめて多義的な内容を持っています。そして、それぞれのミシュパートは相互に調和と均衡を保つことが求められています。例えば、王のミシュパートは、これとは全く性格を異にする奴隷のミシュパートを承認し、生き生きと展開させ、こうして全体のミシュパートが促進されることが求められているのであります。

しかし、このミシュパートが損なわれることが起こりえます。この一度損なわれたミシュパートを、とりわけ共同体のなかの不利な立場におかれた者への扶助を通して、再建するのに役立つ行為を意味するのが「義」という概念です。これにはツェダカーとか、ツェデクという語が用いられています。

作者は、「慈しみと裁きをわたしは歌い」と言っていますが、彼の意識のなかには、ヘセドとミシュパートだけでなく、ツェダカーも当然あったと思われます。王の規範は神であり、神のヘセド(慈しみ)です。彼は、そこから民への慈しみを表し、共同体全体のミシュパートを配慮していく、そこに王としての責務のすべてが係わっていることを自覚して、その実現こそ自分のあるべき姿であると王としての信仰を告白しているのであります。

彼の王としての現実の行為は民に向けられますが、その行為自体は神への信仰の告白としての意味を持っています。それゆえ、彼は「主よ、あなたに向かって、ほめ歌います」と告白するのであります。

こうして王は自らを個人としても、職務の上でも、神の要求の下に置きます。ですから彼もまた服従するものであって、専制君主ではありません。このように、神に対する正しいあり方から、人々に対する正しいふるまいが出てきます。聖書において、道徳的なあり方と宗教的なあり方とは、切り離しがたく深く結びついているのであります。

支配者の生涯の偉大なその瞬間、彼の心に思い浮かぶのは個々の特定の要求ではありません。全体的なこと、根本的なことが、彼にとってはより重要なのであります。神に対する敬虔で真実な基本的な態度からは、悪いものは何も出てくるはずはありません。それゆえ、彼は「完全な道について解き明かします」と語ることができました。

神を本当に恐れることのない政治家に道徳を語ってほしくありません。今日の聖と俗が区別された社会にあって、世俗世界に属する政治家が道徳を語ることは危険です。神を最高規範とする信仰を正しく持つ政治的指導者だけが、「完全な道について解き明かします」と語ることができます。わたしたちは、本当にその様な為政者が現れることを祈り願わねばなりません。そのために祈ることも大切であります。

彼は、「完全な道について解き明かす」ことを喜びとしますが、それを誇っているわけでありません。彼の本当の願い、本当の望みは、神が王として来られることであります。それゆえ、「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか」と神を待ち望むのです。神と親しくあり、いつも神と一致していたいという心からの祈りを持って、彼は神の訪れを熱望するのであります。幼子が無垢な心で母の帰りを待ちわびるように、家の中を行ったり来たりして、神が訪れてくれるのを待っているのであります。

神の慈しみ、正義に目を向けるということは、卑しいことに目を向けない心を育てることでもあります。その正しさをもって不正や悪を憎むのであります。そうした不正にまつわりつく者たちを許さない統治を彼は目指します。彼は自らが曲がった心を持たなければそれでよいと考えません。そういう心を自分のうちから退け、そういう人と交わることから自分を遠ざける努力も怠らないのであります。正義にだけ目を向けていたらよいというのではありません。追いかけてくる悪から遠ざかることは、権力を握るものには特に大切なことであります。中傷、傲慢、奢り、これらは権力を握る支配者が陥りやすい感情であります。それを自ら許さないという決意を持っていることが大切であります。

そして、王は自ら悪の思想に近づかないし、悪人を近づけないというだけでなく、信仰と真実と誠実と信頼に値する、主に真実な正義を行う人々に対しては、特別に配慮し、そういう人を彼の家で仕えさせようとします。

それ故、6、7節において次のように歌われています。

「わたしはこの地で信頼のおける人々に目を留め
わたしと共に座に着かせ
完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
わたしの家においては
人を欺く者を座に着かせず
偽って語る者をわたしの目の前に立たせません」と。

古代社会にあって王の大切な務めの一つに、裁きを行うことがありました。
そして、イスラエルでは、朝は宮廷で裁判が行われる時間でありました。

「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし
悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」(8節)

この言葉に彼の王としての一貫した姿勢・決意が伺えます。
わたしたちが祈り求めなければならないのは、このような為政者であります。

旧約聖書講解