詩編講解

48.詩編100篇『主に向かって喜べ』

この詩を、わたしたちの教会では、礼拝への招きの言葉として用いていますが、イスラエルにおいては、神殿に入場するときに、合唱隊によって交互に歌われる賛美の歌であったと考えられています。また、礼拝式文の一文であったらしく、この詩篇が朗読されることにより、神の御名とその恵みと真実とが会衆に知らされました。そして、会衆は主の門に進み出て、賛美をもって祝うのであります。

この詩の基本的特色は、神への喜びです。神への喜びこそ、心を向上させる信仰の活力であります。そして、礼拝は、神への喜びが大きく表現される場であり、同時に、主の民の喜びの新しい源泉の場であります。

この歌は、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」と呼びかけ、神を熱心に褒め称えよとの賛美の促しをもって始まっているのであります。神を喜び歓呼することは、祭りを祝うために神殿に集まった会衆のあいだだけに止まるのではなく、全地に響きわたるべきであると歌うのであります。祭りに集う会衆は、この呼びかけのことばによって、神の御前で神を崇めるすべての者と結ばれていることを感じ、信仰における大きな一体感を味わうのであります。

2節の「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進みでよ」との礼拝へのうながしは、神殿における会衆に向けられています。このうながしには、神の臨在への熱烈な喜びに与かるようにとの呼びかけが含まれているのであります。

礼拝の本当の喜びは、神の臨在に触れることから生まれるのであります。
「知れ、主こそ神であると」(3節)との言葉でもって、この歌は本来の賛美へと移行します。そのことから同時に賛美の本質も明らかになります。賛美は神の現在化と、それに関わる神認識のために役立ちます。

会衆は神の御顔の前に進み出て、心を神に向けつつ、神により近づくのであります。だから礼拝は、人間が自分の神に出会い、神への喜びにまったく身を委ねる場であります。人は礼拝の場において神の臨在に触れるとき、人間が神に造られた者であるという意識を呼び覚まされるのであります。この現実の前に、人間的な自意識や自己評価は神の前に消え去るほかありません。人間がもし何ものかであるとするなら、それは自分自身によるのではありませんし、自分がもっているなにかによるのでもありません。たとえ何かを持っていたとしても、それは自分のものではなく、神から与えられた恵みとして所有しているにすぎません。

被造物は、すべてにおいて依存し依拠せしめられている、唯一の創造者であり主である方について、「主はわたしたちを造られた」と言えるだけであります。今ある歴史が神の歴史であり、神の支配にあるということと、神の選びによる救いの思想は、ここで創造の思想と深く密接に結びついているのであります。

歴史が神の歴史であるゆえに、私たちは、神に望みを置き、救いを神に期待することができるのであります。この神の歴史支配の中にあって、神の民として選ばれたことが特別な意味を持つのであります。神はご自身が選ばれた民を愛し、その歴史を選びの民を救うために導かれるということを知っているからであります。

他方、自然と歴史における人間的なものは、創造主への畏敬によって、その限界を守るよう指示されるのであります。「わたしたちは主のもの、主の民/主に養われる羊の群れ」(3節)という言葉は、誇りと謙遜、畏敬と信頼の両方が同時に響きあっているのであります。主は、ご自身が選ばれた羊の群れ一匹、一匹の名を覚え、愛し養ってくださいます(ヨハネ10:14)。羊飼いとしての神、イエス・キリストの恵みの支配を深く覚え、わたしたちは、礼拝においてこの招きの言葉を深く覚えることが大切であります。礼拝においてそれを深く知るものとなるとき、主の民として養われることを第一とせず、迷える羊のように、その群れの交わりから離れるなら、その約束されている命から遠ざかり、それを失うものとなるということを、同時に警告として聞くのであります。しかし、羊としての弱さを自覚しつつ、羊として羊飼いであられる神に従うとき、神にある命を豊かに楽しむ喜ぶことができるのであります。

だから、4節の第二部への導入部の言葉で、このように告げているのであります。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。

この言葉は、祭りに集う会衆が神殿の門を通って前庭にはいる前に、おそらく祭司の合唱によって歌われたものであると思われます。賛美の歌が歌われる中、また自ら賛美の歌を歌いつつ、聖所に入ることが求められているのであります。そこで神を告白し、感謝をもって御名を賛美せよと促されるのであります。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。(5節)

この言葉は、会衆によって応答歌として繰り返し歌われた、礼拝式文の形を取っています。その主題は、神の恵み深さ、神の慈しみと真実の永遠性であり、この不動の土台のうえに、会衆の神体験と彼らの信仰の希望が遠い昔から据えられていたというのであります。

慈しみと恵みは神の本質に属しているのであります。会衆が神を信頼し、神を信じうるのは、契約関係においてであります。それは、神の恵みの心は変わらないということを知っているからであります。この神の恵みと真実への認識こそが、この詩の喜びと感謝の本来の源であります。

それ故、この詩において歌われている喜びは、神からの喜びであります。同時に、その喜びは神へ向かう喜びでもあります。喜びは神から発し神に帰るのであります。この喜びに生きる生は、週ごとに行われる主日礼拝を、喜びをもって、主の民として共に守る中で豊かにされていくのであります。

旧約聖書講解