詩編講解

35.詩編50篇『まことの礼拝』

この詩編は、「まことの礼拝」について教えています。旧約時代の民の礼拝は、犠牲を捧げる祭儀が中心であったため、そこに形式的にそれを守って礼拝をしていれば、神は自分を祝福してくれるという安易な期待をもって臨む、神との取引の場に転落させてしまう危険がいつも存在していました。この詩編は、そのような間違った考えでなされる礼拝を告発する神を示し、まことの礼拝のあり方を教えています。預言者たちは、偽りの礼拝を告発し、真の神への立ち返りを、御言葉に聞くことにおいて表す信仰を求めましたが、この詩編はそのような預言者と同じ信仰に立って歌われています。この詩編は、主なるヤハウエが、礼拝祭儀の場に、審きのために(4節)、また救いの啓示のために(23節)、民の前に姿をあらわす神であることを明らかにしています。旧約の契約祭儀の本質は、神と人との交わりが犠牲を捧げることによって保たれるのではなく、祭儀に参加する会衆がへりくだった心で神をたたえ(14,23節)神を告白し、神の戒めに従うこと(16節以下)にありました。その本質は、新約の霊的礼拝につながる重要な教えを含んでいます。詩編50篇はその意味で新約の礼拝につながる、礼拝の本質を教えています。

詩編50篇は3部構成になっています。

第1部は、1-6節です。ここでは神礼拝とは、神がご自身を啓示し現臨される御前で起こる出来事であることを明らかにしています。

第2部は、7-15節で、ここでは奉献祭儀の問題点が指摘され、正しい神礼拝のあり方を教えています。

第3部は、16-23節で、ここでは神なき者の不道徳の指摘と、契約の民としての正しい倫理的なあり方を教えています。

この詩編全体を通して教えられている大切な点は、神礼拝と生活(倫理)が切り離すことができないものであり、神はこの二面で人間を支配し、導かれるお方であるということであります。

まず第1部の1-6節から学ぶことにしましょう。
詩人は、冒頭で、「神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。」と告白しています。「日の出るところ」は東を指し、「日の入るところ」は西を指します。それゆえこの言葉は、主なるヤハウエが「東の端から西の端まで」全地を支配しておられることを明らかにしています。神が、人々の前に高く聳え立ち、ご自分を礼拝するために集まっているものに向かって発する声に耳を傾けて聞くよう呼びかけています。この呼びかけの言葉は、礼拝とはこのように顕現される神と出会うことによって成立するものであり、神の呼びかけの言葉に聞くことによって交わりが保たれるという礼拝の本質を明らかにしています。

しかし、ここで呼びかけられている会衆は、礼拝をそのように理解し守っていなかったので、3節において、審きのために来られた神が示されています。神は民の不信実の罪を審くために礼拝の場に臨在しておられることが示されています。神礼拝は、神に向かって信実に生きるものにとって、救いを得させる喜びと祝福の機会となりますが、その根本的態度において不敬虔な者は、その罪を「焼き尽くす火」となられる聖なる方の御前にまかり出ることになるので、その罪が炙り出される場となります。礼拝の場は、このように聖なる神の前に、わたしたちの生き方全体が問われるところであることが明らかにされ、その自己吟味の中で神の御前にまかりでよとの招きがなされているのであります。天と地で神が正しい方であることを告げ、神御自ら正しい裁きを行われていることを、礼拝の場でその認識が与えられることは、神礼拝の問題だけでなく、わたしたちの生き方全体を考える上で重要な意味を持っています。

イスラエルはヤハウエを主として告白します。そしてわたしたちは、救い主イエスを同じく主として告白します。それは、わたしたちの主となり、救い主となられたお方を、礼拝しこのお方にしたがって生きることを告白する言葉であることを示しているのであります。

この詩篇の第2部、冒頭の7節の「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。」という言葉は、わたしたちと神の関係と、その中での生き方の本質が見事に示されています。

神礼拝において、主の民として、主と告白している方の言葉を、真にそのような方の言葉として聞いているか、「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。」という呼びかけの言葉は、わたしたちの礼拝の根本姿勢を問うているのであります。そして、「わたしは神、わたしはお前の神。」という言葉は、神をお前はそのような方と認識し、本当にこのわたしに跪いて心からの献身の態度で礼拝し、このわたしの言葉に聞き従って生きることを第一としているかを問うているのであります。7-15節は、まことの礼拝、正しい神礼拝のあり方を示す言葉で満ちています。

しかし神礼拝についてのこの根本的な正しい理解の道筋を誤解した人間は、礼拝の場を自分の敬虔を証明し、誇る場にし、またその敬虔さや、犠牲の量や質で、神の祝福を得ようと真に逆立ちした努力をしていました。それは今の時代のわたしたちにも決して無関係な態度ということはできません。わたしたちの礼拝の態度においても、本質においてこのような面が同じように見られることがあります。

先ず犠牲の量が多ければ、あるいは質が高ければと誤解している人間に対しては、神は人間の贈り物を必要とする存在ではなく、神は、ご自身の存在と命の問題として、何ものにも依存しない独立自存の自立の存在であることを明らかにされます。神はどこまでも完全に自給自足の存在である方であって、そのような方として、むしろ人間、獣などを所有する主であり、それらの被造物の日用の必要を満たす方であられます。それゆえ、獣を犠牲として捧げ、これを食べないと神が生きていけないと考えるのは、真に倒錯した人間の考える神の人間化、物質化へ引き下げることになります。それこそ神を低くし辱める、とんでもない不敬虔な態度であると主は告発されるのであります。

これに対して、真実の神礼拝のあり方が14-15節に示されています。
ここでは二つのことがいわれています。第一に、真実な神礼拝とは、神への讃美告白をいけにえとして捧げ、それを満願の捧げものとする礼拝を守ることが教えられています。そのことによって犠牲を用いる祭儀が全面的に否定されたのでも、無効であるといわれたのでもありません。神への信仰の讃美と告白を欠いた形式だけの犠牲祭儀を守ることの無意味さが述べられているのであります。わたしたちの神礼拝が本当に神を神として崇め、神に本当の信仰の告白、讃美が帰せられる、そのような神礼拝が守られているか、14節の言葉はわたしたちの心にそのこと問い掛けているのであります。

そして第二に、15節において、「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」といって、主を呼び求めること、主を信頼して、苦難の中にあっても救うことのできる神に、救いを祈り求めることこそ、礼拝者にふさわしい態度であることが教えられています。ご利益を期待する信仰は間違っていますが、主の救いを期待し、それを祈り求めない信仰というのも真の信仰ではありません。本当に神を神とする礼拝、生き方というのは、主なる神にすべての問題を告白し、委ね、信頼することであります。それこそが礼拝者のふさわしい根本的態度で、神の「栄光を輝かす」事になることを主は約束しておられます。礼拝において、人間は神の下に立つのです。偶像礼拝は、神を人間の願望の下に立たせます。

正しい神礼拝は正しい信仰生活を生みます。そのことが第3部16-23節の主題となっています。これらの言葉は、「神に背く者」(16節)に向かって述べられています。その心の根本において神を信じない者に向けての、主の言葉です。それは表面的には主を信じる者として生活しているが、実際的な信仰生活で神の言葉を退けている人にむけられて語られています。預言者イザヤは、「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザヤ書29:13)という主の言葉を明らかにしています。戒めを諳んじることができ、知識としてもってはいるが、真に主を畏れ、主が示す正義と公平を重んじず、自分の都合のよいように解釈しようとする似非信仰を、「心はわたしから遠く離れている」という主の言葉をもって批判しているのであります。

16-17節において、イザヤ書と同じ視点に立った主の叱責の言葉が記されています。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。」そして民がどのように逆立ちした生き方をしているか18-20節にその罪が具体的に列挙されています。

彼らがこのように行動する背景には、沈黙しておられる神の問題がありました。どんなに不正や虚偽により繁栄している人があっても、主の裁きが行われるように見えず、その反対に主に忠実に生きているのに、苦難の中を歩み恵まれない生活をしている困窮者が多くいた社会的な問題があったと思われます。神はそのような社会の中で沈黙し、無力で弱い存在として考えられ、益々不正が横行していた問題がここで考察されています。

しかし、そのような神の沈黙を前にして、そのような実際的不敬虔の罪を犯しつづける者に、「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。」(21-22節)という言葉で、主なる神は警告しておられます。神の沈黙は神の無力を示すものではなく、神の忍耐の時を示すものであることを認識せよ、との警告がここに示されているのであります。

言い換えれば、このような一時的倒錯による虚偽なるものの繁栄に、真の神礼拝と真実な主の民としての歩みを歩んでいる者は、たとえ現状が最悪のように思えても、悲観することはないという励ましが語られているのであります。

それゆえ、この詩篇の結びの言葉は、「告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」という慰めが語られています。「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか」(詩編14:2)と探される方です。真に主をのみ神とし、神にのみ悔いし砕けし心で神を礼拝し、神の言葉に聴き従って生きる者を、神は求めておられます。そして神はそのものを祝福しようとされているのであります。そのようなものとして共に歩みましょう。

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