詩編講解

28.詩篇第37篇『あなたの道を主に委ねよ』

この詩篇は、数々の苦闘や豊かな経験をもつ老人の円熟した信仰からでた格言です。

作者は、冒頭の1節で罪人たちのことで激するなという忠告から語りはじめています。正しく歩もうとする者は、悪事や不正に対して激しい憤りを感じます。しかし、その事に心を奪われすぎますと、自分の信仰が揺さぶられ、他人を批判していた自分さえも、その不正に加担することになってしまう危険があります。この詩篇の作者は、その危険から守ろうと、この忠告から始めているのであります。罪人は神に刃向かっているがゆえに、永続することは出来ません。この詩篇の詩人にとって、このことは動かしがたい事実となっています。この確信こそ、作者の信仰を支える根本原理であります。

信仰者は物事を永遠の神の側から見つめて判断します。それ故、草のように瞬く間に枯れるものに執着することはありません。

そして、このような洞察に導かれて、もっと積極的・肯定的な姿勢で事柄を見る視点を信仰者は与えられていきます。人は地上で起こる事柄全体が神の御手に握られていることを知るなら、すべてを治めたもうお方である神の御手に一任し、安心して忍耐強く待つことが出来ます。これこそ正しい信頼の姿であります。そうすることによって人間は、今自分に与えられている使命を、自分の持ち場において忠実に果たしていくことに専念できますし、専念しなければなりません。これが神を信ずる者の人生の意味であります。その事を知る人には、眼差しを人から神の方に転じて、すべてを神への喜びによって照らし出し、こうした喜びに包まれて、心の奥深い願いが成就されるのを見ることが許されるのであります。

今ここに語りかけていますのは、神が自分の要件を掌中に収めてくださっているということが何を意味するのかわきまえている人間であります。その信仰を23-24節において次のように表されています。

主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
主がその手をとらえていてくださる。

この詩篇の作者は、祈りの姿勢において自分の生きる道全体を神に委ね、自分が完全に神の真実な御手のうちに置かれていることを知っています。それ故、彼は自分がひっそり神のうちに守られているという喜びを噛み締めて生きているのであります。この喜びによって彼の生きる道は朝の光にいつも包まれています。彼はこの信仰の希望においてあらゆる誘惑を克服できるのであります。

それ故、作者は「主を待ち焦がれよ」と言うことが出来るのであります。静かに神を待ち望む姿勢は、棚ぼた式に与えられるのではありません。それは人間的な自我の主張に対する自分との苦闘を通して得られる勝利の冠でもあります。

神を信ずる者と信じない者とに関する裁きが既に決定されているということを信仰者は知っています。罪と罪人は永遠に繁栄することはあり得ません。それ故、土地を与えるという神の約束は、信ずる者だけに当てはまります(34節)。作者はここでおそらくアブラハムとその子孫に与えられた、土地についての約束のことを念頭においていると思われます。作者は、その約束を自分と同時代の信徒に対する神の言葉として受け止めているのであります。この約束の言葉への信仰と主への望みとは一体であります。

主を信じる者は、神なき者の悪巧みに対する抗議の答えとして神を指し示します。主ご自身がご自分に逆らう者の消え去る運命を知り、一笑に付しておられるのであれば、それを殊更取り上げて激怒する必要もありません。真の信仰者は神から来る保証と確証のほか何も必要としません。地上の事柄を神ご自身の目に映る以上に重大なものとして取ることをしない勇気と先見の明それ自体を、この詩人は神から与えられているのであります。

信仰の目で見ることを学んだ者にとっては、満足と感謝をもって享受しているわずかな所有物の方が、罪によって得られ罪のうちに消費されてしまう富よりも勝ります。不正の富は決して栄えません。なぜなら、そこには天来の祝福が欠けているからです。それが9-11節において見事に対比されて歌われています。

神は愛の配慮によって信ずる者を支えてくださいます。そうであるなら、これと同じ論理によれば、神なき者は神への敵対の故に没落せざるを得ません。

23、24節は、実に慰めと励ましに満ちた言に満ちています。私の愛唱聖句の一つにしている言でもあります。

神を信じない者の場合とは反対に、神に信頼を寄せて生きる者にとって、自分のうえに起こってくる不幸は、決して完全な崩壊を意味するものではありません。なぜなら、そのような不幸の最中にあっても、神は神に信頼する者とのつながりを保っていてくださるからであります。ですから、神に属する者たちは、そのときにも神から見捨てられることはなく、苦難の最中に自分たちに差し延べられる神の手を掴むことが許されているのであります。もし、私たちが様々な苦難を神に見捨てられる出来事として理解するなら、それこそ完全な崩壊に繋がるでしょう。しかし、そうではないのです。神は神なき者を脅かされますが、神に信頼を寄せ神に縋って生きる者からその御手を放されることはないのであります。

この詩篇の作者は、37節において「平和な人には未来がある」と語ります。罪人にはそのような希望がありません。なぜなら、その未来は滅びしかないからであります。希望のない生は生きるに値しません。だが神を信ずる者の希望は神です。神により頼む者は、神においてすべてを得ることができるのであります。このお方こそ、苦難と患難の最中における救い主であり、また助け主であるからです。神とともにある人生は、希望と力を与えられており、神のない人生は、滅びしかない、これがこの詩全体に一貫して貫かれている信仰の単純明快な論理であります。

旧約聖書講解