詩編講解

19.詩編第25篇『主に望みを置く者は恥を受けず』

詩編25篇は、自分の信仰にかかわる問題を真摯に受けとめている思慮深い人間の「嘆きの祈り」です。この詩は、一個人が静かな孤独のうちに育んだ信仰の歌ですが、この歌の持つ普遍的な真実の力によって、見捨てられた孤独な人々にとって尽きざる慰めの泉となっています。

この詩は「いろは歌」のように、各行の始めの文字がヘブル語のアルファベットの順になっています。そのため、自由な詩的想像力と明晰な思考の進展を犠牲にされています。技巧的・外面的な形式による言葉の結びつきを無理に行っているのが見られます。

1-7節までと15節以降では個人的な祈願が中心になっていますが、8-14節では、格言の形式を用いた一般的な考察がなされています。

今回は、1-7節の個人的な祈願を中心に学びたく思います。

1-3節の冒頭の言葉は、この詩篇全体を貫く基調音です。

神にあってのみ魂は高められ、人は神にのみより頼むことができる、と詩人は歌っています。人のあいだでは幻滅や悲哀なしに済むことは決してありません。しかし、神に信頼する者だけが、「恥」を見ないですむという期待を神は裏切られない、この事をこの詩人は個人的な経験を通して知った普遍的な信仰の真理として、祈りを捧げています。自分の経験は、すべての信徒に当てはまる真理と一致しうる、と詩人は確信しているのであります。この事実に彼の祈りの確信と慰めは根ざしています。神の真実を理由なく斥け、不誠実と裏切りをもってこれに報いる者だけが、神に対する幻滅を味わうことを、彼は信仰の目で見つめています。自分の敵となっている邪な者たちは、そのような運命をたどるがいい、と彼はうっちゃっています(3節)。

彼は、自分が神と結びついているという強い確信をもっているにも関わらず、否、そのような確信が与えられているからこそ、もしも神の恵みがなければ、神の真実と憐れみがなければ、生きてゆくことも神の道を歩むこともできないことを知っています(4節)。

だから彼は、「主よ、あなたのわたしに示し あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください」(4,5節)と祈り続けています。体が日々の糧を必要とするように、魂も日々、神に向かって高められることを必要としています。それには、神の視座から自分が歩む道についての見通しと教示を受ける必要があります。私たちは、そのように日々教えられることによって、神への服従の力を得ることができます。私たちは自分が神と強く結びついていると信じるなら、神の恵み、神の真実と哀れみを欠いては生きていけないことを自覚し、そのような者としてふさわしく、ますます熱心に、これら一切を与えられるように求め、毎日祈り続ける必要があるのです。

人間の倫理的な認識は、人間の知恵の結果もたらされるものではなく、また、道徳的な生き方は、人間の努力による業績でもなく、いずれも神の恵みと哀れみによる賜物である、とこの詩篇の作者は見ているのであります。

神の憐れみと慈しみがとこしえから人間を治め、神がご自分の本質に真実であり続けることを人が信じることによって、その倫理的な認識が支えられてきたのです。人は神に望みを置くことを忘れるとき、己が力だけを頼りとするようになり、この世界は敵への恐れと猜疑心で満ち溢れることになるでしょう。それゆえ、この詩人は、望みをただ神にのみ置きます。そして、神の義と真実が神ご自身の誠実さによって、この世界に貫かれることを信じていますから、この世界が倫理的な状態に保たれることも同時に信じることができるのであります。

彼は、この望みのゆえに、絶えず自らの罪を真摯な態度で見つめ、自覚するよう促されました。

彼は、7節、11節、18節において、三たび神に罪の赦しを乞い、罪の数の多さと重さを、自分自身に対しても、神に対しても隠し立てをしていません。若いときの軽率な抑えがたい情熱にかられて犯した罪の数々が、壮年の日の意識的な過ちと同様に思い起こされ、彼はその罪に苦しみます。人の犯した罪は消えることがありません。ただ神が、その罪に目をとめず、その慈しみによって罪を覆い、見過ごされる神だけが、神と人間のあいだの断絶を埋めることができるからです。それ自体が恵みであり、彼はこの恵みの神に望みを置きます。そうであるからこそ、彼は罪から遠ざかることを祈り願います。彼はこの恵みの神に絶えず目を注ぎ、再び罪を犯すことのないようにと祈り、主の契約の道を熱心に学び、生きることを願っているのであります。

こうして詩人は、旧約聖書の普遍的な信仰、「主を畏れることはすべての知恵の始め」に達し、神を畏れる者に主は選ぶべき道を教え、その人を恵みで満されるという奥義を悟らせてくださるであろうと高らかに歌います。

そして、彼はこの恵みの主に目を注ぎ、信頼の告白をします。彼は信頼の告白のあとに、再び、嘆きの祈りでこの詩篇を締め括っています。敵たちに脅かされて孤独のうちにあったが、それ以上に、彼は自分自身の罪に圧迫されて、孤独のうちに恵み深い神の下に身を寄せ、庇護を助け求める、と最初の祈りの言葉を繰り返しています。この祈りの繰り返しは、彼の神への信仰の執着、執拗さを表しています。彼はそれほど深く神に望みを置いているのであります。彼はその祈りの中から、「あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません」(3節)という信仰の確信を与えられたのであります。

この詩編から教えられることは、実際に神にのみ望みを置いて、神を信頼し、祈りの歩みをする者に、神は恥ではなく主の慈しみを、益々豊かに確信させ、平安を与えられる方であるという、信仰の認識であります。

旧約聖書講解