詩編講解

17.詩編23篇『主は羊飼い』

この詩篇は神への信頼と感謝を歌っています。詩人は、神への揺るぎない信頼からあふれ出る魂の平安を、この詩全体を通じて歌いあげています。彼はまるで幼児のように無邪気に神の愛と保護を確信し神を信頼し静穏な心でいますが、しかしその無邪気な信頼の調べは、何の労苦も煩いも知らない子供のものではありません。4-5節に見られるように、この詩人は、敵の攻撃を受け、「死の影の谷を行く」ような経験や、「苦しめる者」から迫害を受ける経験さえ味わっています。彼はそういう辛い経験と苦闘を通して魂の静かな夕べの憩い(6節)を見出し、さまざまな危険に脅かされているにもかかわらず、神との交わりのうちに力を得ることが許され、心の平安を得たのです。彼は、神との交わりのうちに力を得ることを許された喜び感謝をこのような形で歌い上げることが出来ました。

彼は「主は羊飼い」といって、自分と主との関係が羊飼いと羊の関係であることを歌っています。旧約聖書において、この関係は、本来、神と個人の一対一の関係ではなく、神と集団との関係を示すものであり、契約の民イスラエルに対する神の救済史的な導きを表すものでありました。それゆえ、ことによるとこの詩人は、祭儀の場で、イスラエルの牧者ヤハウェをほめ歌う会衆の歌にヒントを得て、神に対する彼の個人的な関係を示すのに、羊飼いのイメージを用い、そこに自分の信仰の思いを託したのかもしれません。旧約の聖徒たちは、会衆と礼拝を共にし、その伝統に触れることによって、個人の信仰を新たに燃え立たすきっかけをいかにたびたび与えられたことでしょう。この詩篇は、その事実を知るための重要な手掛かりを与えてくれます。

羊飼いのイメージによって、作者の心にはさまざまの思い出が感謝とともに呼び起こされ、確かな希望を表わしています。主を羊飼いとして持つ彼は、「わたしには何も欠けるところがない」といって、羊飼いである主によっていつも豊かな恵みに満たされていることを告白しています。

そして、2節において、「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」と歌うことによって、青春時代の明るい日々を回想し、緑の牧場や川辺の宿営地に休らう小羊のように、神に守られて何の心配もなく楽しんでいた昔の自分に帰っていきます。けれども、この懐かしい青春の夢は作者の心にもはや消え去ってしまっていたわけではありません。彼は自分の無邪気な幸福を大事に保ってきました。そして、自分を守ってくれる神への思いを大切にしてきました。そしてさらに、神ご自身が、今もなお自分の魂を力づけ、新たな活力と希望によって自分を満たしてくれるのを、信仰の目で見ています。彼はこの信仰の目を礼拝の場で養われました。旧約聖書の信仰は、神の救済の出来事を祭儀の場で現実化するものとして捉える独自なものです。それは、過去・現在・未来に対する眼差しを一つの統一的な観点によって力強く総括する信仰であるということができます。過去・現在・未来を一つの統一的な時として現在化する視点は、事柄を永遠の神の視座から見る信仰から生まれます。彼はその信仰の視座を、祭儀の場で共におられる神の臨在に触れ、神との交わりによって得られる喜びと憩いを経験する中から得ました。

彼は礼拝の場で、主の御名を崇め、御名によって祈ります。そして、「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節)お方であることを体験しました。「御名にふさわしく」は、ヤハウェが自分の民を守り、導き、世話をするために、民のそばに「いる」ことを意味します。神は命の道を歩む旅人の導き手となって現れ、常に守り、導き、世話をする方として、共にいてくださるというのです。人生で肝心なのは、人間の意志が貫徹されることではなく、神の意志が貫徹されることであって、神の御名、神の栄誉と知恵こそが賛美されることであると彼は悟りました。これは、彼のこれまでの人生の意味内容でありましたし、これからもずっとそうであり続けるものでありました。彼は神の視点から自分の生涯を判断することを学びましたので、その生涯は神の義に従うものであり、また神が御名にふさわしく必ず自分の生涯をその義にしたがって導かれるものであることを、彼は確信することが出来ました。

しかし、神は彼に何の災いにも合わせず、平穏な道を歩ませたのではありません。彼ほどの信仰者といえども暗い谷の道を避けて通ることが出来なかったのです。しかし彼は、神の視座から自分の生涯を判断することを学びましたので、「死の陰の谷を行く」(4節)ような窮地に陥り、死を覚悟しなければならないような敵の攻撃を受け、危険にあっても、そのような試練のときにも神は自分を見捨てることなく、むしろ危機の最中にあって、わたしをいつくしみ、わたしの不安と孤独を取り除き、困難な旅路の道案内をしてくださり、護り手となり、慰め手となってくださることを確信しているのであります。だからこそ彼の暗い思い出も、自分が神と親密に神と結びついているという感謝の念によって明るくされ、将来、何が起ころうとも、彼は恐れず、希望と確信を以て対処することが出来るのであります。

「あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)という信仰を、彼は恵まれた平安な日々にだけ持っていたのでなく、敵の攻撃や死の危険にさらされるような試練の日々においても持ち続けたのであります。それは、礼拝の場における神の臨在の体験から養われた、神を視点にした逞(たくま)しい信仰の目による見通しにほかなりません。

「あなたの鞭、あなたの杖」は、直訳すると「あなたの棒と杖」です。棒は羊を狼から守るためのものとして用いられました。杖は羊を導くために用いられました。彼は主が共におられることを、羊飼いの「棒と杖」のように心強く信仰の目で見ていたのであります。

神殿における聖なる祭儀が終わると、歌の響きは収まり、祭礼の衣装を身に着け、頭に香油を注がれた会衆たちは神殿における喜ばしい「捧げ物の食事」に向かいます。彼らは神の客とされ、喜びの食事に与かります。詩人は、この神殿において経験した祭礼のときのことを思い起こし、いくたび神は私のために食卓を整え、親切な主として私を大切にもてなしてくださったことだろうかと思い起こしています。確かに、一生の間、彼はまことに神の客人でありました。彼は敵に苦しめられ悩まされるときも、礼拝の場に向かい、そこで神と交わり、神は、その喜びの食卓に与かることを許し、その喜びが敵の苦しみを忘れさせ、すべての労苦を忘れさせてくれ、立ち上がる勇気を彼に与えました。神との交わりによる喜びが圧倒して迫ってくるので、苦しめる者の存在を小さく見ることが彼には出来ます。苦しめる敵の存在に目を向けるのでなく、かといってそこから目をそらすのでもなく、自分に降り注がれている神の恵み、神との豊かな礼拝の交わりを大切にし、これを喜ぶ生活に眼を向けるとき、彼は苦しめる敵の存在を小さなものとして見ることが出来たのであります。

詩人は、神の豊かな祝福と明るい光が自分の生涯の上に惜しみなく注がれている様を目のあたりにして、幸福のあまり、「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(6節)と叫ばずにはおれません。

そして、詩人は、「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」とこの歌を結んでいます。それは、彼が神殿の礼拝で体験した神の臨在による喜びを出発点とした彼の信仰からくる最もふさわしい、最も美しい、結びの言葉であります。神の臨在の瞬間が信仰者にとって永遠の未来に化するのであります。神の臨在を経験したその瞬間、彼は神の家の客人としてのみならず、神の家の人として、神と密接に繋がる一員となるのであります。そして、彼は「生涯、そこにとどまる」ものであり続けることを願うものとなるのであります。彼の礼拝の交わりにおけるこの神の臨在とその神との近さの内的経験が、このように決定的に彼の生きる基盤を変え、生き方を変革させたのであます。

イエス・キリストは、私たちの主であり羊飼いであられます。私たちは、主の日の礼拝において、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)主イエス・キリストの臨在に触れ、この詩篇の詩人のように決定的に生きる基盤と生き方を変革された者として、彼の達しえたこの信仰告白の賛歌を共に喜び歌うことが許されているのであります。

旧約聖書講解