詩編講解

16.詩篇22篇1-22節『嘆きと願い』

詩編22篇は、主イエスが十字架上でその冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」ということばを引用して祈られたことで有名です。それゆえ、キリスト者にとって、この詩篇は記念すべき詩篇の一つとなっています。

この詩篇に導かれて私たちはまず、祈り手を墓と絶望の淵に到らせた苦しみの深淵にまで下っていきます。その後、祈りが聞かれたことに対する賛美と感謝に高まり、信仰の勝利がもたらす開かれた目を、私たちに与えてくれます。従って、この詩篇は二つの部分に分けることができます。第一の部分は、1-22節で、嘆きの祈りとなっています。そして、第2の部分は23-32節で、感謝の祈りとなっています。

この詩篇の作者は、人の心に迫ることばと圧倒するイメージとを持って、自分に与えられた苦しみを語っています。この詩人の嘆きは、詩篇の中でも、もっとも感動的な一つとして数えることができます。しかし、この詩篇の作者がいかなる情況の中からこの痛切な嘆きを歌ったのかを、正確に知ることはできません。はっきりしているのは、祈り手の敵が彼の苦悩の原因として現れている点であります。彼を打ち倒す敵の攻撃を受け、窮地に追い込まれ、その魂は深い苦悩の中にあります。この詩を理解するためには、こうした敵の攻撃を受けた作者が、その苦悩の中で信仰の危機に陥っているという点を見逃してはなりません。彼は神への信頼と交わりを回復させるために、必死の努力を傾けています。神を求め、神を見出すこと、これがこの詩の根本的な主題であり、二つの部分を内的にしっかりと結び合わせる働きをしています。

「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」という、苦難の深淵の直中から発する絶望の叫びをもって祈りが始まります。神に見放されて、彼が大声で呼びかけても何の手応えも得られない。そのことが、不安と孤独にある祈り手の心に深い悲しみを与えます。彼の前には、「なぜ」という執拗な問いが立ちふさがり、彼は答える術を知らないのです。祈り手は自分の苦難から神のもとに至る架け橋を見出そうと苦闘し、全存在がひたすら神の近くにあることを願っています。だが彼の眼に見えるのは、裂け目ばかりであり、神との隔たりばかりです。彼の口から発することばは、神に対する非難ではありません。彼の眼に隠れたる神が、彼にとって心をさいなむ謎であることに気付き、その驚愕の思いを言い表しているのであります。神は沈黙したままです。だが彼は叫ばずにはいられないのです。この二つの現実のはざまに、この詩人を苦しめているとてつもない緊張があります。

しかし、このような問いを発する人間はいったい何者なのでしょう。
彼は神の崇高さの前に沈黙すべきではないのか。彼が「だがあなたは、聖所にいまし」(4節)というとき、彼は神の尊厳と自分とのあいだにある隔たりを感じとっています。しかし、まさに、すべての人間的なものを凌駕し、人間の僣越を寄せつけないこの神に対して、神の民イスラエルは特別な関わりを持ってきたのです。イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、この神のおかげであり、それによってイスラエルは歴史上の存在を得たのであります。イスラエルは、この神を、彼らの王、彼らの主として、崇高な救いの神として礼拝し、その礼拝祭儀の場において、賛美の歌を持って祝うことが許されています。ここで詩人が大胆なイメージで祭儀の場面を表現しているように、神は「イスラエルの賛美を受ける方」として、信仰共同体の主として「聖所に」臨在されるのです。

それゆえ、この神に対する父祖たちの信頼と祈りは無駄ではなかったのです。このイスラエルの救済史に思いを馳せることによって、詩人は、苦悩の大海で慰めの小島を見出したような気持ちになりました。神を求めてゆれる彼の眼差しも、救いの出来事を考察する際には、ゆったりとくつろいでいます。彼はその信仰において、父祖たちと繋がっております。それ故、彼もまた、かつて父祖達を助けた神に信頼する根拠を与えられているのであります。このように契約祭儀の場で培われてきた旧約聖書の救済史的な伝統が、個人の信仰に、いかに大きな意義を持っていたかを、私たちはこの箇所から逆に知ることが出来ます。

しかし、この詩人の心をさいなむ苦難と不安は、いつまでもその慰めの場所に留まっていることを許しません。彼の眼差しは、次の瞬間、ふたたび悲しみと痛みのとりこになってしまうのです。彼の思いは、ある時は神に、ある時は自分に、ある時は敵に向けられ、行きつ戻りつしています。彼は自分がまったく惨めな情況におかれているのを感じています。

「わたしは虫けら、とても人とはいえない」(7節)といって、自分がいかに父祖達と違うかを意識しています。彼は敵の眼に、神によって恥を被った人間として映るのを知っています。彼の苦しみは、社会的に置かれた情況から来るものでありません。むしろ敵の嘲りが、神に対する彼のうちなる関係を踏みにじり、彼自身が苦悶し続けている問題について、即ち、主に寄り頼んで救われたいという彼の心からの願いを、皮肉たっぷりに確証を与えるように語られることに対して彼は苦しんでいます。彼を攻撃する敵は言います。神の方からこの詩人とのつながりを破棄したのであれば、いくら待ち望んでも無駄である、と。この信仰の苦難こそ、彼を苦しめている真の刺なのであります。

けれども、この詩人の信仰に対する敵の攻撃は、同時に彼のうちに新たな力を呼び起こしました。再び彼は、神に対する自分の信頼が本当に無駄であろうかと問い返しはじめました。彼を母の胎から出し命を与えたのは神です(10節)。そして、幼い日々から、彼は、神の御手のうちにおかれています。母の胎内にあるときから委ねられている方を差し置いて、この方以外の誰かにより頼むことが果たして可能であろうかと問うとき、答えは否です(12節)。彼は自分の信仰を馬鹿にする敵の嘲笑に晒されても、新たな平安と確かな拠り所を見出すことが出来ました。神こそは、生涯における行動の主体です。この事実を悟るや否や、彼は確かな礎の上に立つことができました。それゆえ、詩人は再び嘆願しつつ、神に向かって手を延します。彼の眼は、これまで深い断絶と隔たりしか眼に映らなかったのに、その同じ場所で、今初めて神の御手に触れるような気がします。彼のうちには信仰の火花が閃き、彼は祈りを持って神に近づきます。苦難が差し迫っている今でも、自分を救いうる唯一の方に守られていることを感じています。

しかし、詩人はまだ完全な勝利をおさめているわけでありません。
13-16節にかけて、彼を襲う新たな不安を比喩的に表しています。このような比喩によって、彼が直面し徹底的に打ちのめされた死の恐怖によって、再び神の問題が彼の頭にもたげてきます。彼を死の恐怖に伏させているのは神御自身にほかなりません。そうであるなら、彼の苦難の背後には、彼が自分の救いを期待できる唯一の神が立っておられるということです。しかし、まだ苦難のうちに隠されている神をも肯定できる信仰の確信が、この詩人にはまだ与えられていません。

「犬どもがわたしを取り囲み」(17節)といって、依然として詩人は、自分に向けられた敵の攻撃に悩まされ、己の無力を感じていることを、ありのままに神の前に包み隠さず告白しています。

しかし、詩人は自分の無力を思い知らされつつ、最後の力を振り絞って神にすがりつき、「主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。・・・・」20節)といって神に切願します。

「わたしの力の神よ」(20節)といって、詩人は神だけが自分の力であることを知っているという信仰を表明しました。神がその近くで具体的な助けを与えてくれるのでなければ、彼は生きていくことが出来ません。ここに旧約聖書の信仰の限界を見ます。しかし彼は、復讐を願わず、神の怒りが敵のうえに下ることを懇願してはいません。ここに、この詩が旧約聖書において特別な位置をもっている理由があります。主イエスがこの詩篇を引用されたのは、敵の攻撃にさらされ、信仰の危機に直面しようとも、それに打ち勝つ力は、神の復讐を期待することによって得られるのではなく、神へのまったき信頼によってのみ与えられることを明らかにするためでありました。この点で、この嘆きの詩篇は、最も深い意味で信頼の詩篇であるということが出来ます。

旧約聖書講解