詩編講解

15.詩編19篇『天は神の栄光を物語り、律法は完全な神知識を与える』

詩編19篇は二つの異なる歌が合わさってできています。2-7節までは自然を賛美した詩であり、8-15節は主の律法を賛美した詩であります。2-7節の自然賛美の歌は詩篇8篇と内容的に似ています。8篇の作者の目がどちらかというと創造者と被造物の関係への洞察に向かっているのに比べて、19篇の作者は自然の内部における神の啓示の独自性に目を向けています。

詩編19篇の作者は、自然の美に対する叙情的な鋭い感受性を備えています。彼は自然全体がより高い存在に仕え、神賛美の担い手となり、神啓示の媒介者となっていることを洞察しています。天や大空、昼と夜は、彼にとって神の威光と創造の御業の偉大さを物語る証し人です。

「昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る」と、詩人は歌うことによって、創造者である神が自然の壮麗さの中からその威光をもって語りかけて来るのを、信仰の眼で見つめます。詩人にとって、創造された世界は、神の知恵と啓示の担い手となって、脈々と毎日毎日神の知識を伝える媒介として理解されています。自然は、神の創造がいかなるものであるかを語る創造の書であり、神の啓示の書物です。自然は、全世界に対して神がいかなるお方であるかを示す神の自己啓示の作品です。神は、この自然の中に世界と秩序についての真の知識を太い文字で書き込まれておられるのです。

NHKの科学番組で、生命の神秘を伝えるDNAの遺伝子情報に関する成り立ちについて推理する話を見たことがあります。科学者は新たに発見された化石などをもとに今まで判らなかった新しい生命誕生の秘密に迫り、人間のような高等生物がいかにして誕生していったかという過程を解きほぐそうとしています。生命体に刻み込まれた遺伝子情報を基に、それがいつどの様にして伝えられることになっていったのかという謎ときをしていく番組です。現代生物学は「進化論」という仮説の下に成り立っています。確かにこの仮説のおかげでたくさんの生命に関する神秘が解けて、宇宙創世の秘密についていろんなことが判りかけてきたと言えます。自然という書物を科学者はいろんな事実を分析し、繋ぎ合わせ、推理し、その推理の正しさを証明するために色々な仮説を立てていきますが、それらの仮説は常に暫定的なものに止まります。

科学的探究が神の創造世界の神秘のベールを一枚一枚はぎ取るように、真理に迫っていることは確かです。しかしそれによって、神の領域が狭められ、神の存在が否定されるのではないかなどと少しも恐れる必要はありません。「進化論」を認めることは、神を否定し信仰を否定することに繋がるという極端な立場を取るキリスト者や教会が表れましたが、聖書はこれについて否定も肯定もしません。科学は自然の所与の条件を前提にして自然の歴史を物語ろうとします。これに対して聖書は、その自然を創造したのは神であると語ります。自然という所与の条件を与えたのは神です。人が探究し判ることは、その自然の不思議な組合せによってできる生命の神秘に過ぎません。神の創造の業は、ご自身が作られた自然をも用いながら、なお継続されています。科学者は、自然を観察することによって、その創造の過程の謎を解く仕事をしています。彼らは、この世界を創られた神の偉大さの影をその仕事から見出し、気づかされていくことになるでしょう。

神の創造を信じる者は、科学者の知恵も用いて神の創造の書である自然を読むことができます。この書を読むことのできる信仰者にとって、毎日毎日が、神の創造の歴史を記した尽きざる生命の原点の新たな一頁が刻まれた時であるのを知っています。

自然は、人間が話すように声を出して語ることがありません。それゆえ、私たちはその声を聞きません。しかし、神のことばは、この自然のうちにも刻み込まれています。自然に刻み込まれた神のことばは、人間のことばの持つ限界に拘束されることがありません。私たち人間は、ことばの限界によって互いに意思の疎通を妨げられています。しかし、人間のことばのうちで、自然における神の啓示の声なき声を、聴きとることも理解することもできないものは何一つとしてありません。神の創造者としての世界秩序についての知識は、すべての国々において知られています。自然法則に見られる天体の運行や、昼と夜の交替などからその秩序を読み取ることができるからです。このように自然の「その言葉は世界の果てに向かう」(5節)ものとして理解されています。天は世界にとって神の知識を記した書物なのです。

この詩人は、だからといって熱狂的な自然崇拝者になっているのではありません。彼はこの世界を造られた神に、畏敬の念をもって近づき、信仰の目をもって自然を観察し洞察致します。それ故、自然は彼にとって死んだ声なき物質の堆積物でなければ、自然世界に見られる物理的・化学的諸法則が生命のない公式ではなく、誰にでも理解できる、神の生きたことばをあらわす文字としての意味をもっています。神はことばを用いて、沈黙せる自然に、神の力と知恵について語らせているのです。神の仕事場の内奥に向けられたこのような深い眼差しは、自然に関する芸術的な把握と学問的な把握とが、宗教的な畏敬の念によって結び付けられ、神によって与えられる統一的・調和的な洞察をもつことによって得ることができます。この洞察こそ、この詩を独自で偉大なものにしています。

5節の後半からの太陽についての叙述は、詩人の芸術的な感覚と学問的知識が、創造者としての神の知恵という宗教的な視点の下に総括されています。彼は異教の宗教に見られる神話的な表象を借りて、太陽を花婿になぞらえて語ります。異教の太陽神は、夜、海の中で恋人の腕に抱かれて休みます。ここに見られる戦いに臨む勇士のイメージも、おそらく異教の神話的な起源を持つと思われます。しかし、詩人は、これらの神話的なモチーフに、不思議なほど自由でこだわりなく対処しています。彼は、森羅万象の唯一の創造者を信じています。その信仰が、彼を異教的な迷信から自由にしています。詩人は、これらの異教に見られる神話を単に詩的な比喩として用いているに過ぎません。彼の創造者なる神に対するこの堂々とした信仰が、自然に対するすべての不安と小心な心を持つことから解放しています。そのような信仰の自由に支えられて、彼は神話において語られている深い意味を正しく汲み取ることさえできます。彼はまさに詩人として、神話のうちに詩的空想の声を聴き、耳を澄まして、自然の印象深いことばに応える人間の根源的な反響を聞き取るのです。

彼は芸術家の感覚をもって自然を観察するだけでありません。彼は思想家としての探究的な眼差しももっています。異教の学問は、天体の運行を観察しました。詩人は、神話に対するのと同じ自由さと理解力とをもって、異教の学問に接しています。なぜなら、異教の学問も、其自体としては自然のうちなる神秘の文字を解読するための人間的な一つの試みに他ならないことを知っているからです。この秘密の文字は、すべての人間が読めるように神の指をもって刻みつけられ、それによって自然が神の力と知恵を告知するようになっているからです。このように、詩人は、偏見に凝り固まった小心な人間が目を閉ざしてしまう事柄に対しても、神への豊かな信仰から理解力とセンスとを与えられています。異教宗教の詩的な自然観察や学問に対する閉鎖的な態度しか取れない狭量な信仰の姿勢からは、神の自然に刻まれた豊かな知識を深く読み取ることができません。私たちは神の創造とそこに刻まれた深い神の知恵を信じるなら、この詩人のように、異教の神話の知識も、自然を観察した学問も、いずれも神の創造の神秘を探ろうとした人間の努力の姿として積極的に評価することができますし、彼らもまた確実に神の創造の知恵の一つを読み取っているものとして、その知恵を活用する自由を持つことができます。

2-7節の詩篇の詩人は、異教徒の科学の知識と神話的表象をも用いて、自然に表されている神の栄光について語りました。彼は、一方で異教徒ですら自然を通して神を知っている事実を積極的に評価する自由さを持っています。しかし、彼はその事によって、自然を通して知る神知識の不完全さを同時に明らかにしているのです。

8-15節 『律法への賛美と祈り』

8-15節は、神についての完全な知識は、神がご自身の意思を示す文字で書かれた律法を通して、即ち、御言葉を通してはじめて与えられることを明らかにしています。イスラエルの民が何故他の民に比べて正しい神知識と高い倫理を持つことができたのか、その秘密は神がこの民にだけ律法を示し、ご自身の意思を特別に啓示されたからです。詩編の編集者は、19篇をこのように二つの歌を並べることによって、このことを私たちに悟らせたかったのです。自然賛美の歌と律法賛美の歌とがここに並べられねばならない理由が、ここにあります。

8-15節は、さらに二つに分けることができます。8-11節の律法をたたえる歌と、12-15節の個人的な祈りに分けることができます。

8-11節の律法をたたえる歌において、旧約聖書における律法を尊ぶ精神の大切さが示され、律法に含まれている積極的な価値を尊重することが教えられています。律法を尊ぶとは、単に規則を外面的に満たすことを意味しません。そのように限られたものでありません。この詩篇の作者にとって、律法とは、律法のうちに自らを啓示しておられる、活ける神との出会いが起こる場なのです。

また、律法について言われるさまざまな特質は、同時に、律法の背後に立つ神についても当てはまります。神の権威こそ、律法に価値を与えるものにほかなりません。この詩篇は、律法をたたえることによって、実はこの律法に啓示されている神をたたえているのです。律法は、それが神の律法であるがゆえに、完全で、確かで、公正で、純粋で、きよく、真実なのです。神は律法において歴史における神の意思を明らかにしておられるのです。神は律法において、人間が神の前にいかなる態度を取らねばならないかを啓示されます。律法のうちに神の教育と救いの意思が告げ知らされております。律法はそのようなものでありますから、律法こそは、イスラエルの信仰において神の慈しみを知り、そのように慈しまれる神に対する強い信頼を確信する拠り所でもあったのです。この喜ばしい信頼の調べがこの歌の一行ごとに鳴りひびいています。

詩人にとって、律法は神と人間相互のあいだを結ぶ太い信頼の絆です。彼はその様な理解から、律法を豊かな生命の泉として尊重する知識を得ています。律法こそ人に新たな生命力を与え、その魂を生き返らせる神の力なのです。無知で迷う者に確かな知恵を授け、心を喜ばせ、目を明るくし、未来永劫にわたって義とする言葉が含まれているのです。律法は彼にとって、「純金にもまさる」価値のある宝なのです。

詩人は、かくも自分が律法に守られているかを自覚し、その身に与えられた祝福を感じることができます。彼はその深い確信から個人的な祈りに移行していきます(12-15節)。彼にとって、真に大切なのは、良心の平安です。そのことは、知らずに犯している罪の赦しを求める祈りと、隠れた罪から守られるように祈り求める祈願のうちに示されています(13節)。彼は、不注意な過ちを犯す人間的な不完全さと、簡単に誘惑に陥る人間的な弱さとを知り尽くしています。しかし、彼は、罪を赦し、罪から守ることのできる神の恵みについても知っています。彼はそのことを良く知っているから祈るのです。彼は祈りが聞かれることを、信仰によって確信し、罪から解放されるその時を、喜ばしげに待ち望みます。

「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように」(15節)という言葉を付け加えて、この祈りを結ぼうとします。

ここに、彼の祈りの姿勢の深さを知る手がかりがあります。彼は単に言葉と行いにおいて神の意思を満たすだけでなく、神に対して心の扉を完全に開け放ち、神に心の思いをつぶさに見てもらうことこそ、神に対する人間の正しい関わり方であることを知っています。神の前における幼子のように素朴で、信頼に満ちた開放的な態度によって、彼は神の御前に自分の弱さについての懸念を、少しも隠そうとしません。この開かれた心こそこの詩全体の基調音であります。この基調音が持続的に鳴りひびくことによって、この詩編は、私たちの心に触れてくるのです。

この詩においてわたしたちが出会うのは、律法という堅固な岸辺の間を、ゆったりと流れてゆく神賛美の豊かで深い信仰の在り方です。

旧約聖書講解