マラキ書講解

6.マラキ書3章6-12節『不変の神、不変の信仰』

今日の教会においては、このところを献金の勧めによく用いられることがあります。それは、ある面で正しいといえますが、ここでの教えは捧げもの自体が問題にされているのでなく、主の不変の態度と、契約に対するイスラエルの態度が問題にされている大切な点を見落として、献げ物の問題だけを取り上げる聖書の読み方は、正しい態度とは言えません。

「まことに、主であるわたしは変わることがない」という言葉で、この段落ははじまっています。10-11節に暗示されているように、今この国は、干ばつやイナゴの害による不作に見舞われていいます。この現状がもたらされたのは、神の心変わりが原因であると、民は見なしていました。神殿が再建されれば、豊かな祝福があると、ハガイやゼカリヤを通して約束していた神が、心を変えてしまったからだと、民は不満を表していました。

「まことに、主であるわたしは変わることがない」という言葉は、そのような民の不満が的外れで、決して神には心変わりがないことを示すために、語られています。むしろ、現在の不作の原因が何であるか、民に探求すべきことを、神は明らかにされます。

6節2行目の新共同訳の意味は、解りにくくなっています。このところの原文に忠実な訳は、「あなたたちはヤコブの子であることを止めなかった」か「あなたたちはたえずヤコブの子であった」です。主は、存在においても態度においても、不変の神でありますが、ヤコブはその名の由来が示す通り(創27:36)、「欺くもの」であり続けているというのが、6節に表されている主とヤコブとの対比の意味することです。7節の言葉が、その事実を明らかにしています。

主の心変わりを問題にする、ヤコブの子孫であるイスラエルこそ、主の民として選ばれた民でありながら、父祖たちの日以来、その契約の約束に立って主の律法を守らず、主から離れる歩みをし続けていた事実が、ここに明らかにされています。

それゆえ主は、「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたに立ち帰る」といわれます。この言葉において主は、神が罪を赦し、約束した神の支配の現実と恵みをもたらすために、民が自分の罪を認めて悔い改めを表す必要があることを、明らかにされます。主の恵みは、信仰において受け取る必要があります。その信仰とは、具体的な神礼拝と関わる、一体のものであります。

マラキは、既に1章6節以下において、主を畏れない祭司たちと民の捧げ物のあり方を、問題にしています。ここでは、これまで主から立ち帰りを求められている民が「どのようにして立ち帰ればよいのか」と、罪の自覚を欠く民に向かって、8節において、実に激しい口調で語る主の言葉が明らかにされています。

人は神を偽りうるか。
あなたたちはわたしを偽っていながら
どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と
献納物においてである。

ハガイは、「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでよいのか」といって、神殿建築に関わるべき民の態度を問題にしました。しかし、マラキは、ここで神殿を維持すべき民の態度を問題にしています。マラキの主要な関心は、神殿収入についての祭司階級の個人的な関心ではありません。この段落の主語は、すべて一人称であり、これらの言葉は、すべて主ご自身の言葉であることに、注目しなければなりません。純粋に、宗教的な関心から出た言葉です。

9節と10節後半から11節にかけて、ヤコブの子らであるイスラエルが、どうして神殿への貢納を怠るようになったかの理由が、明らかにされています。旱魃とイナゴの害の打撃による凶作が、わずかな蓄えでやっと自分の必要を満たすことしかできない状態に、民全体が追いやられました。マラキはその災害に、神の刑罰、「呪い」を見ています。イスラエルは、その災害から、どこで自分たちは神の意志を蔑ろにしてきたか自ら検証し、その後で立ち帰るという正しい結論を引き出すべきでありましたが、それをせず、悔い改めないまま古い罪に更に新しい罪を加え、律法に明らかにされている神の意志を行なうという定めに関して、引き続き神を欺いていました。そのような罪に対する呪いとして、これらの出来事があると知り、それにふさわしい態度を表すべきでありました。

それゆえ主は、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ」といわれます。

主の約束と恵みを覚えて、主の語られた言葉、律法を重んじない民に、主は「天の窓」を閉ざし、祝福を与えられることはありません。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ」という主の言葉は、信仰の誠実さの回復を求めた、悔い改めの呼びかけです。「わたしを試してみよ」という言葉は、そのような神の招きがあるときにのみ、有効です。イザヤもまた、アハズ王に対して、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と告げています。しかし、不信仰なアハズ王は、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と答え、主の祝福に与れませんでした。主は、信じる者であるわたしたちと共にいます、インマヌエルの神であります。

10分の1の献金だけが、ここで問題になっているのではありません。10分の1を捧げたら、必ず主の祝福を受けられる、と期待して、献金することが求められているのではありません。10分の1の献げ物は、不作にあえぐ民にとって、厳しい要求に思えたに違いありません。厳しい現実をもたらしたその原因を溯ってみることのできない民には、その厳しさだけが、身にしみて感じられるかもしれません。しかし、そのような中で、主の言葉を真摯に受け止め、「わたしを試せ」という主の言葉に応答できる信仰は、本物です。「傷ついた動物」や「病気の動物」を捧げて、義務を果たしたかのような気になっていた祭司や民がいた中で、この10分の1の献げものの主からの挑戦は、信仰なき者には、とても応えられないと考えられたに違いありません。だからこそ、主の言葉は、10分の1の捧げものそのものより、信仰の献身を求めたことばと解されなければなりません。

主イエスは、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(ルカ12:31)との信仰を求められました。そして、この言葉を語られる主は、「まことに、主であるわたしは変わることがない」といわれるお方であり、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」であることを知り、旱魃に見舞われた危機の中でこそ、その自然をも支配して、不変の力を発揮し得る神に、すべてを委ねて生きる献身の信仰を言い表すべきことが、ここで教えられています。

そうするものに語られている祝福の言葉が、10節後半から12節に示されています。

必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。
また、わたしはあなたたちのために
食い荒らすいなごを滅ぼして
あなたたちの土地の作物が荒らされず
畑のぶどうが不作とならぬようにすると
万軍の主は言われる。
諸国の民は皆、
あなたたちを幸せな者と呼ぶ。
あなたたちが喜びの国となるからだと
万軍の主は言われる。

不変の神は、不変の信仰を人に求めるだけではありません。その神にふさわしい態度を示す者に、また、素晴らしい祝福を約束しておられることを忘れてはなりません。

旧約聖書講解