マラキ書講解

3.マラキ書2章1-9節『真の礼拝回復への神の熱意』

この段落は、第1部の「正しい礼拝」(1:6-10)に続く、第2部に相当します。第1部で告発された祭司に対する判決が、主題となっています。

マラキは、祭司たちに有罪判決を伝えます(1節)。1節はヘブル語原文では名詞文です。直訳すれば、「今、あなたたちにこの命令が、祭司たちよ」となります。動詞を省くことによって、「この命令」が強調されています。但し、「命令」の具体的内容は、はっきりしません。第1部との関連から考えると「神を畏れよ」となるかもしれません。

2節から、預言者は、条件付きの警告を告げます。条件付きというのは、回心によって事態が変わる可能性があるからです。2節冒頭の否定の条件文は、原文では、「もし聞かないなら、もし心に留めずに…栄光を帰さないなら」となります。二度繰り返し、強調されています。この条件文に対する帰結文は、「わたしは…呪いを送り、祝福を呪いに変える」となっていますが、「祝福を呪いに変える」は、原文は「祝福を呪う」です。その意味は、祝福として与えられた良い物が失われる、あるいは、祭司が口にする祝福の言葉が力を失って、何も良いものを生み出しはしない、ということです。「いや既に呪いに変えてしまった」は完了形の動詞が使われています。既に呪いに変わってしまったなら、「聞いて、心に留めても」無意味と思われますが、この判決理由として、「これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ」と述べられています。だから、「既に呪いに変えてしまった」という神の言葉は、撤回不可能な現実となってしまっていることが、述べられています。

申命記28:20以下では、契約違反に対する「呪い」が、イスラエルの民全体に向けて語られていますが、今「呪い」は祭司の上に現実となっていることが、明らかにされます。「呪い」の具体的内容は3節で語られています。

「子孫を脅かし」は、祭司の家系が衰退することを意味します。しかし、「子孫」は母音を変えて読むと「腕」となります。そう読み替えると、ここは、「あなたたちの腕を切り落とす」となります。そのように読む方が、次行の「顔」とのつながりが良くなります。その際、「腕を切り落とす」は、文字どおりの意味ではなく、祭司の職務からの追放、と理解されるべきです。申命記28章の「呪い」が、「滅亡」や「死」をもってあらわされると述べられるのに比べ、職務からの追放という厳しさの中にあっても、命まで奪われないという、神の深い愛と忍耐を見ることができます。

「汚物」は、動物の排泄物のことではなく、いけにえに捧げられた動物の「内臓」を指します。それら「汚物」は、犠牲祭儀には「救済」の役に立たないので、「祭りの犠牲の捨てられたもの」としての扱いしか受けません。本来祭司は、民を神の告げる救いに導く役割を担っていました。それを妨げる「汚物」を取り除くのが、祭司のつとめでありました。汚物は、救いへと至る道を阻むものとして、取り除かれるべきですが、しかし今や、祭司が、民に救いに至るのを妨げる「汚物」の役割を果たすものになり下がってしまっていました。だから、そのようなものとしてふさわしい扱いとするため、「あなたたちは、その上に投げ捨てられる」という「呪い」の判決が告げられるのです。

4節は、刑罰の目的が告げられています。「レビと結んだわが契約」が過去にあったと述べる明確な箇所はモーセ五書にはありません。それをほのめかす言葉は、エレミヤ33:21や民数記25:11-13にあります。申命記33:8-11には、レビの特別な地位と役割が述べられています。ここには、それを念頭に置いた表現が取られています。祭司の機能は、民の救いにとって、欠かすことのできないものでありました。正しい礼拝が失われるところには、救いはありません。堕落した「汚物」のような存在と化した祭司がいるからといって、祭司職が消滅したのでは、正しい礼拝はますます困難となります。律法への誠実さを失い、忠実にその職務を全うしない祭司は、「その(汚物)の上に投げ捨てられる」かもしれませんが、「レビと結んだわが契約」は「保たれる」のです。それゆえ、祭司の「職務」は残ります。ここに、神の職務保全への強い愛、を見ることができます。汚れたままで残さず、本来の姿に回復させようとする、神の変わらない熱情を見ることが、「正しい礼拝」の回復になくてならぬものです。この神の御心を、「愛」として受けとめるところに、真の悔い改めが生れます。

5-7節には、理想の祭司像が述べられています。「命と平和のため」は、原文には「ため」がありません。だから直訳すると「彼とわたしの契約は命と平和である」となります。神は彼に「命と平和」を与えます。彼の応答は「わたしを畏れ」ることでなければなりません。神とレビ人との契約は、対等ではないのです。契約の主体は、どこまでも神です。レビは、契約の客体であるにすぎません。だから、神がレビとの「わが契約」をもたれるのです。契約において、神から与えられる「命と平和」は、レビの側に「畏れ」をもたらします。それは、信仰であって、義務ではありません。「信仰」のない義務による「畏れ」は、形式的に、しかも歪められた形で「祭儀」を守ることはできるかもしれませんが、喜びと献身による「礼拝」とはならないのです。だから、5節の「彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいていた」は、信仰の礼拝のあり方を教える大切な言葉です。

6-7節には、レビ人(祭司)の役割が語られています。「彼の口」と「唇」とが、繰り返し強調されています。祭司たちに対する、預言者たちの多くの非難(ホセア5:1、イザヤ28:7、エレミヤ2:8、ゼファニヤ3:4)がなされているにもかかわらず、ここでは、単純に過去の良き時代の祭司の姿が、回顧されています。ここでは、祭司の本来の役割は、「犠牲」を捧げることではなく、「教える」ことにあることが、明らかにされています。祭司は、こうして神と「共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせ」る役割を担っていたのでありました。旧訳聖書において「使者」は、普通「預言者」に対して用いられます。祭司が「使者」と呼ばれるのは、旧約聖書中この箇所だけです。祭儀が重要な地位を占め始めるイスラエルの礼拝の中で、祭司の本来のつとめが、神に関する知識を守り、教える人として「主の使者」である、と告げるこの言葉には、 重い意味があります。

だが現実の祭司は、もはや「主の使者」といえない現実にありました(8-9節)。8節冒頭は、「だが、あなたたちは」と人称代名詞を置いて、強調されています。祭司は「道を踏みはずし」、「多くの人々を罪から立ち帰らせ」ず、間違った「教えによって多くの人をつまずかせ」ていたのです。自分の方から「レビとの契約を破棄」してしまっていたのです。

9節は、8節の「あなたたち」に対して、「わたし」が強調して置かれています。あなたたちが「わが契約」を破棄し、軽んじるので、「わたしも、あなたたちを民のすべてに軽んじられる価値なきものにした」という判決が告げられています。神の契約を破棄し軽んじる者には、それにふさわしい扱いがなされるというのです。9節後半の「人を偏り見つつ教えた」は、直訳すると、「顔をトーラーへと上げる者がいない」であります。もめ事に裁決を下す時に、トーラーの指示を求め、公平さを期すのが、祭司のつとめです。しかし、そのようなことを一切せず、公平さを欠いた判断を、勝手気ままに下した、ということがいわれています。神から示される「価値判断」を軽んずる者は、それにふさわしく「軽んじられる価値なき者」として、その職務を解き、捨て去られるしかないのです。

この御言葉から、「顔を聖書へと向ける」者となっているか、との神の問い掛けを聞く思いがします。そうなっていない日々を過ごす者は、礼拝を守っていても、神との契約を破棄してしまっているような生活をしていることになります。そのような歩みを続けるなら、「軽んじられる価値なき者」としての扱いしか受けない、という厳しい審きがあることを覚えねばなりません。

しかし、ここにも、大きな神の愛が示されています。彼は、職務を取り上げられ、捨て去られているけれども、命までは奪われてはいないのです。ここに、悔い改めを求めて、立ち帰りを待つ、神の深い愛があります。神は、悔い改めを求めて、この宣告をしておられるのです。審きではなく、悔い改めを求める神の深い愛の言葉を聞けるように、悔い改めて、そのつとめに勤しめ、との神の御声を聞くことが大切です。

旧約聖書講解