列王記講解

30.列王記下18:1-19:20『ユダの王ヒゼキヤとセンナケリブとの戦い』

18章1-12節には、ヒゼキヤの治世の序文が、記されています。ヒゼキヤは、彼の父アハズと違って、その治世が申命記史家によって高く評価されています。ヒゼキヤ(在位前778年あるいは725-697年、あるいは704-681年)の即位は、イスラエルの王「ホシェアの治世の三年」とされていますので、紀元前729年か728年にあたるはずです。しかし、13節にヒゼキヤの「治世第14年」にアッシリアのセンナケリブの攻撃を受けたと記されています。アッシリアの記録によればこの攻撃は、紀元前701年ですから、これと一致しません。この矛盾を説明する試みがなされていますが、一致した見解はありません。

「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」(5節)と、その治世に対する最高の評価が、申命記史家によって与えられていますが、これと同じ評価が23章25節でヨシヤ王にも与えられています。ヒゼキヤは、「聖なる高台」や「石柱」や「青銅の蛇」を取り除き、王国の中から偶像を一掃し、真のヤハウエ礼拝に立ち帰るよう宗教改革を断行しています。これは後のヨシヤの宗教改革と同じように徹底してなされましたので、このような高い評価が与えられているのでしょう。ヒゼキヤの改革は、広い範囲で行われました。「青銅の蛇」は、モーセに遡るもの(民数記21:6-9)でありますが、彼の時代、蛇の像を用いるカナンの豊穣祭儀の影響を受け、偶像化され、礼拝の対象とされていたのでしょう。だからこれは、モーセに対する批判ではなく、そのように転用した人々に対する非難として、彼の行為が語られています。

ヒゼキヤは「アッシリア王に刃向かい、彼に服従しなかった」(7節)といわれていますが、彼の統治の初期は、そうではありません。前713年にエドム、モアブなど多くの小国家が、ペリシテの国家アシドドの指揮の下に、アッシリアに対して蜂起した時、ヒゼキヤもまた、反乱軍に加わりました。その背後で、エジプトの第25王朝(エチオピア人王朝)のシャバカが、支援を約束していました。しかし、預言者イザヤは、アハズの時代同様、主への信頼を説き、エジプトの助力をあてにすることに、警告を与えています(イザヤ20:1-6)。イザヤの態度は正しかった。なぜなら、サルゴンが前711年に反乱を鎮圧した時、エジプトは逃れてきたアシュドドの王を、あっさりアッシリア側に引き渡してしまったからです。アシュドドの領土は、アッシリアの属州にされ、ユダは、エドムやモアブと共にアッシリアに降伏したので、そのような運命だけは免れることができました。列王記は、ヒゼキヤが、アッシリアに反抗を望まない従属国の全ての王を除こうとしていた事実を、「彼はペリシテ人を、ガザとその領域まで、見張りの塔から砦の町まで攻撃した。」(8節)という言葉で記しています。「見張りの塔から砦の町まで」という表現は決り文句で、最小の町を守る見張り台から、要塞を持つ大きな町に至るまで、ヒゼキヤは、抵抗が可能な全ての中心地を占領したことを、物語っています。

9-12節は、17章3-6節のサマリア崩壊の記事を繰り返しています。

13-16節は、前701年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダの砦の町を占拠した時の様子が記されています。ここでヒゼキヤが、「銀三百キカルと金三十キカル」と「主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀」を贈り、「金で覆った主の神殿の扉と柱」まで切り取って、アッシリアの王に贈ったといわれています。

17節から19章37節にかけて、センナケリブにエルサレムを包囲された時、預言者イザヤに励まされて、ヒゼキヤは包囲を耐え抜き、ついに奇跡的な方法で助けられたことが描かれています。

18章13-16節は、ヒゼキヤの屈辱的な撤退を記しているのに、18章17節から19章37節は、ヒゼキヤの粘り強い抵抗が、アッシリアを撤退させたことを述べています。この二つの記事は、同一のことを述べているのか、別のことを述べているのか議論が分かれています。

アッシリアの記録によれば、エルサレム攻撃は一度だけなされ、その描写は、18章13-16節とかなり一致し、その攻撃は前701年です。

しかし、18章13節-20章13節の記述は、イザヤ書36章-39章とほぼ一致し、イザヤ書には、列王記下18章14-16節にあたる記述が全く欠けています。そして19章9節のクシュの王ティルハカは、紀元前689年に王位についています。

サルゴン2世(在位前721-705年)の後を継いだセンナケリブ(在位前704-681年)は、最初は国内を掌握するのに苦労していましたが、平定し終わると、前701年にパレスチナに軍を進めました。ヒゼキヤは、バビロン、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国による反アッシリア同盟の盟主となりました。この同盟には、ペリシテ人国家であるアシュケロン、エクロンも属していました。ここでも預言者イザヤは、エジプトに信頼してはならないと警告しました(イザヤ30:1-5)。ヒゼキヤは、防備を補強し、ギホンの泉の水を守られた水路を通じて、町に水を引くために、シロアムの水路を掘りました。この水路は今日でも見られ、その開通を記念する碑文が1880年に発見されています。

センナケリブは、まずフェニキア人の海岸諸都市を撃ち、そこから南に転じました。アシュドド、モアブ、アンモンは直ちに屈服しました。センナケリブは、同盟軍を支援するために北上してきたエジプト軍を、エルテケで撃退しました。さらにアシュケロン、エクロンを制圧し、ユダの全地に進入し46の町を征服しました。

その時の様子が、センナケリブの年代記に、次のように記されています。

「ユダの地のヒゼキヤは、朕のくびきを負わなかった。丸太を敷いた斜面を踏み固め、攻城器による突撃、歩兵の戦闘を用い、城壁の陥没箇所や割れ目を通じ、また破城具をもってして、彼の46の城壁を備えた要塞都市、及びその周辺の無数の小都市を包囲し、これを征服した。そしてヒゼキヤ自身を、篭の鳥のように、彼のみやこエルサレムに閉じ込めた。」

17節に、センナケリブが、ラキシュからラブ・シャケを遣わしヒゼキヤに屈服を促す伝言を与えたことが記されていますが、当時の、ユダの最大にして最強の要塞であったラキシュが征服され、この町は、アッシリアの拠点となりました。イザヤは、この時のエルサレムの様子を「娘シオンが残った/包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように。」(イザヤ1:8)と伝えています。

ラキシュから派遣された使者は、新共同訳で「布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。」(17節)とあります。この場所は、ペカとレツィンがエルサレムを包囲しようとした時に、預言者イザヤがアハズ王と会って、主に信頼するようにと説いた場所でもあります(イザヤ7:3)。

宮廷長エルヤキム、書記官シェブナは、イザヤ書22章15-25節にも登場する人物であり、ヒゼキヤを支える、重要な人物であったのでしょう。

19-25節の、ラブ・シャケの説得の中でのキーワードは、「頼る」です。この語は、5節にも用いられており、この章全体のキーワードでもあります。ラブ・シャケは、ヒゼキヤが「我々は我々の神、主に依り頼む」と言い、「エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ」と言っているが、「その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのでは」(22節)、主が助けるはずがない、と主張しています。これは、異教の偶像宗教により頼む人間らしい批判です。国中で主を礼拝する場所を取り除いて、お前たちの神をどうやって礼拝するのだ、どうやって神は民を助けられるというのか、という主張があります。それ故、彼は「主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」といって、主の御心として起こることを告げています。

これを聞いたエルヤキムとシェブナは、アラム語で話すよう、ラブ・シャケに要望しています。ラブ・シャケが、あんまり大きな声で、ユダの言葉でこの非難の言葉を語るので、城壁の上にいる民に聞こえてしまい、その心をくじかれるので、止めてほしいというのです。ラブ・シャケは、エルサレムの民衆の士気をくじくために、ユダの言葉で益々大きな声で民衆に直接語りかけました。

ラブ・シャケは、ヒゼキヤが無能で、あてにならないと告げます。アッシリアの王に信頼すべきであり、そうするなら今と同じ生活ができ、命を得て、死なずに済むと告げます。そして、アッシリアの征服された「ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。」(34-35節)といって、アッシリアに征服された神の無力を告げ、「それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」といって挑戦しています。

民は、王からこれに答えてはならないといわれていたので、「押し黙っていた」と言われています。ヒゼキヤは、「これを聞くと衣を裂き」、預言者イザヤの下に使いを遣わし、ラブ・シャケから主なる神をののしる言葉を、苦渋をもって聞いたことを告げ、主の託宣を求めました(19:1-4)。

これに対しイザヤは、彼らの主を冒涜する言葉を恐れるな、と告げ、主は彼らの中に霊を送り、噂を聞いて自分の地に引き返す、という主の約束を告げました。

ラブ・シャケは、王がラキシュを発ったことを聞いて、リブナを攻撃している王と落ち合います。王はそこで、クシュの王ティルハカが攻撃しようとしていることを聞き、センナケリブは再び、ヒゼキヤに使いを遣わします。ヒゼキヤは、使者の手からセンナケリブからの手紙を受け取り、「主の前に広げ」(19:14)て読み、主に祈りました。ヒゼキヤは、「地上のすべての王国の神」、「天と地をお造りになった方」、「生ける神」に向かって祈っています。アッシリアの王は、「諸国の神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎない」ので、「彼らはこれを滅せ」たといいます。そのような神は元々存在せず、無力な偶像に過ぎないので、センナケリブによって滅ぼすのが神の御心であった、と説くのです。しかし、主は唯一の神で、世界と全ての国を支配する全能主権の神であるので、アッシリアの王の手から救うことができる、という確信を得ました。それ故、「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」(19:19)とヒゼキヤは祈りました。

このヒゼキヤの祈りに、預言者イザヤを通して、主のアッシリアに対する裁きの言葉が、21-28節に示されています。アッシリアがエルサレムに対して罵る言葉は、結局は「イスラエルの聖なる方」を辱めることになります。そして、アッシリアが主の民をどのように扱ったかを知っている、といいます。そしてこの高ぶるアッシリアの、「鼻を鉤にかけ 口にくつわをはめ お前が来た道を通って帰っていくようにする」という裁きが、告げられています。

29-31節では、語りかける相手が、アッシリアからエルサレムに代わっています。2年にわたるアッシリアの包囲の間も、主は民を養い、その後3年目に、通常の作物に戻ることができる、と語ります。それは、「万軍の主の熱情」により実現することが、明らかにされています(19:31)。

32-34節は、センナケリブが城壁のある街を攻め落とす方法が明らかにされ、そのようにユダの46の町が攻め落とされたが、しかしエルサレムの攻撃は成功せず、アッシリアが退却することを、再び強調しています。それは、「わが僕ダビデのために」(19:34)なされることが明らかにされています。

18:13-16が史実を正確に伝えているとすれば、センナケリブの撤退は、ヒゼキヤが莫大な賠償金をセンナケリブに差し出したから、ということになります。アッシリアの史料からも、それがうなずけます。

しかし、事実はどうあれ、エルサレムは、奇跡的に破局を免れたことを列王記は記し、この偶像を除去し、主にのみ立ち帰り、預言者の言葉に耳を傾け、その事態をただ主に信頼してとりなされることを願う、ヒゼキヤの祈りに答えて、主がセンナケリブの攻撃を免れさせたことを、この二つの章は明らかにしています。そこに、歴史を神の救いの歴史として見る信仰の大切さを、列王記の記者は教えています。

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