列王記講解

27.列王記下14:1-29『内戦と見せかけの繁栄時代』

北イスラエルのヨアシュの即位(前802年)とほぼ同時期に、南ユダ王国では彼と同名のヨアシュ王が臣下によって暗殺され、息子アマツヤ(在位前801-787年、前773年没)が替わって王となりました(列王下12:22)。

アマツヤは肯定的評価を得ていますが、「ダビデほどではなかった」といわれていますし、「主の目に正しいことをことごとく行った」とはいえ、「聖なる高台は取り除かなかった」という限定つきです。彼は「国を掌握する」ようになると、「父ヨアシュ王を殺害した家臣たちを殺した」(5節)といわれています。これは報復のためというより、王権の基盤を固めるためになされたと思われます。彼はイエフと違って(列王下10章)、「モーセの律法の書」が命じるところに従い(申命記24:16)、「殺害者の子供たちは殺さなかった」といわれています。

アマツヤは、ダビデ時代に支配をしていた、そしてヨラムの時代に反旗を翻し独立したエドム(列王下8:20)を「塩の谷」で撃ち、紅海へ通じる通商路を確保することができました。22節を見ますと、アマツヤの子アザルヤの時代に、紅海の町エイラトをユダ王国に帰属させることに成功しています。しかし、続くアハズの時代には、それを再び失っています(下16:6)。

「1万人のエドム人を打ち」(7節)自信を持ったアマツヤは、イスラエルの王ヨアシュに使者を遣わし、交戦の申し入れをしています。しかし、ヨアシュも長期間にわたってイスラエル王国を苦しめていたアラム(ダマスコ)から領土を取り戻した後であったので(列王下13:25)、強気の返事を行っています(9-10節)。そして二人とも引っ込みがつかなくなり、ついに戦いに突入することになりました。

イスラエル王ヨアシュが攻め上ってきて、ユダのベト・シェメシュ(エルサレムから約40キロ西のシェフェラに位置する町)が戦場の舞台となりました。戦いは、北イスラエル王国の圧勝に終わりました。惨敗したユダの兵士たちは「おのおのその天幕に逃げ帰って」しまい、アマツヤは捕虜として捕らえられました。

ヨアシュは、エルサレムの城壁を「エフライムの門から角の門に至るまで、400アンマ(約180メートル)にわたって破壊し」、「神殿と王宮の宝物」を戦利品として奪い去り、サマリアに凱旋したといわれます。この事件は、南北両王国の戦いで一方の首都が他方によって征服された唯一の例となりました。

アマツヤが捕虜の身からいつ解放されたのかは不明ですが、17節によると、アマツヤは彼を捕虜としたイスラエルの王ヨアシュの死後なお15年も生き永らえたといわれています。しかし、アマツヤがその後統治したとは書かれていません。恐らくアマツヤが捕虜として連行された後、当時16歳であった彼の息子アザルヤが民によって王位につけられたといわれています(21節)。

その後アマツヤは、帰還を許されますが、エルサレムで謀反が起こり、前773年に、逃亡先のラキシュで父(ユダの)ヨアシュと同じように暗殺されました(19節)。その理由は記されていませんが、彼が王位を回復しようとして画策したためかもしれません。

北王国では、前787年にヤロブアム二世(在位前787-747年)が王位につき、南ユダ王国では、アザルヤ(別名ウジヤ、在以前787-736年)がほぼ同時に即位しました。この時代には、ダマスコのアラム人の勢力はほぼ解体されて脅威を与える存在ではなくなっていました。アッシリア自体も国内の分裂で一時的に衰退していましたので、王国分裂後の南北両王国にとって珍しい平和の時代となりました。

北王国のヤロブアム二世は、父ヨアシュの領土回復策をさらに推し進め、「レボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した」(25節)といわれています。これは、彼が、それまでアラム人、アンモン人、モアブ人によって支配されていた領土を奪回したことを意味します。さらに28節には、ヤロブアム二世がダマスコやハマトも支配するに至ったことが示唆されています。

ヤロブアム二世の時代、イスラエルは、ヨルダン東岸を下るルートやフェニキア諸都市から内陸に向かうルートなどの主要な通商路を支配下に置いたものと思われます。これによって交易や通行税を通じて、膨大な富みを北王国にもたらせました。

ヤロブアム二世治下のイスラエルが、ソロモン時代に勝るとも劣らない経済的繁栄を享受したことは、サマリアで発掘されたこの時代の豪華な宮殿、王室領から宮廷に運び込まれた物品を記録する「サマリヤ・オストラカ」(63の陶片)、上層階級に人々の豪奢な生活ぶりを描く預言者たちの言葉などから推し量ることができます。

この言葉を聞け。
サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。
弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ。
「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」と
夫に向かって言う者らよ。(アモス書4:1)

お前たちは象牙の寝台に横たわり
長いすに寝そべり
羊の群れから小羊を取り
牛舎から子牛を取って宴を開き
竪琴の音に合わせて歌に興じ
ダビデのように楽器を考え出す。
大杯でぶどう酒を飲み
最高の香油を身に注ぐ。
しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。(アモス6:4-6)

イスラエルはその造り主を忘れた。
彼らは宮殿を建て連ねた。
ユダも要塞の町を増し加えたが
わたしはその町々に火を送り
火は城郭を焼き尽くす。(ホセア書8:14)

イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。
実もそれに等しい。
実を結ぶにつれて、祭壇を増し
国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
彼らの偽る心は、今や罰せられる。
主は彼らの祭壇を打ち砕き
聖なる柱を倒される。(ホセア10:1-2)

しかし、このような経済的繁栄から利益を得るのは、少数の特権階級の人々だけでした。このような富の集中は、貨幣経済の浸透以来始まっていた階級と社会層の分離に拍車をかけ、国民の間に貧富の格差を増大させることになりました。富める者はその経済力を背景に大土地所有を推進し、農民の多くは没落し農奴化していきました。

このような見せ掛けの繁栄と社会的矛盾の増大の中から、イスラエルの最初の記述預言者であるアモスとホセアが登場します。

彼らは、一方で強者による弱者の抑圧や不正の横行を告発し(アモス5:10-12,8:4-6,ホセア4:1-3,12:8-9など)、他方では形骸化した礼拝(アモス4:11-13,5:21-24、ホセア6:1-3,8:11-14など)や異教的要素の蔓延(アモス5:25-27、ホセア4:11-14,10:5-8,13:2-3など)を糾弾し、神の避け難い審判を告知しました(アモス5:16-20,8:9-14,9:1-4、ホセア5:1-7,7:13-16など)。

列王記を書いた申命記的歴史家は、多くの点でアモスと見解を同じくしています。しかし、アモスや他の記述預言者の言葉も記していません。ヤロブアム二世時代の北王国の小春日和は、バビロン捕囚の時代を生きる編集者とその読者にとって、永続的な繁栄、政治的結末を生むものではなく、その繁栄はその到来と同じ速さで消滅するものであることを知っていました。たった7節でヤロブアム二世の時代の記述を終えているのは、その故です。その関心は、もっぱらヤロブアム二世が、神との契約に忠実であったかどうかに置かれています。「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった。」(24節)と記すだけです。

25-27節に、イスラエルの繁栄した理由が述べられています。それは「預言者、アミタイの子ヨナ」の預言によることと、「主がイスラエルをヤロブアム(二世)によって救われた」ことによることが述べられています。

「アミタイの子ヨナ」はヨナ書の著者と同名ですが、ヨナ書には25節のような言葉はありませんし、旧約聖書のどこにもありません。おそらくヨナ書の匿名の著者が、この25節に登場する「アミタイの子ヨナ」を自著の作者としたのであろうといわれています。

26-27節は、ヤロブアム二世の長い治世を合理化するための弁明ではありません。すべての出来事を、神の意思から見ようとする、列王記の神学的な主張と見るべきでしょう。つまり、王はどのように善いことをしようとも、反対にどんな悪いことをしようとも、神の意志に決定的な影響を与えることはできないということです。歴史は、神の支配の中で、摂理的に導かれるということです。ここで神は、審判を通して不従順な民に語りかけておられます。だが神の審判が目指していたのは、破壊ではなく、ご自分の民イスラエルの悔い改めと復興です。したがって、27節にある最後の使信は希望であって、絶望ではありません。

旧約聖書講解