列王記講解

22.列王記下5:1-27『ナアマンの癒し-全地の主-』

本章には、重い皮膚病に悩む、誇り高い異教徒ナアマンが、病を癒されて、謙虚に主に仕える者となって帰る物語(1-19節a)と、主の預言者であるエリシャに仕える身でありながら、真の信仰を示さず、主への感謝を着服しようとしたゲハジが、その故に、ナアマンの病を移されてしまい、エリシャの下を立ち去ってしまう物語(19節b-27節)とが記されています。

本章は、この二人の主に対する信仰の相違を通して、主の救いと恵みが、自動的に主の民に表されるのではなく、また異邦人や異教徒に及ばないのでもなく、主は自由にイスラエルを超え、全地の神として、その救いの支配を表されるお方であることを明らかにしています。イザヤ書40-55章とヨナ書に見られる、すべての人を配慮し救いへと導かれる主なる神の救いの普遍性・世界性と共通したメッセージを持っている点で、本章は、非常に福音的な物語です。

さて、ナアマンはアラムの王に仕える軍司令官であると1節に記されていますが、アラム王の名もイスラエル王の名も記されていません。恐らくアラムの王は、列王記下8:7に出てくるベン・ハダドで、イスラエルの王はヨラムでしょう。物語は、ナアマンが「主君に重んじられ、気に入られていた」理由を、「主がかつて彼を用いアラムに勝利を与えられたからである」と述べています。イスラエルの敵で、異教国アラムの軍司令官であるナアマンを、イスラエルの神ヤハウエが用いてアラムに勝利を与える、という事実を語ることにより、神の支配と導きがすでにエリシャとの出会いに先立ちナアマンに表されていることを明らかにしています。ヤハウエは全ての戦いの勝利を導かれる神で、イスラエル以外にも勝利を与える神であり、全地の主であることを明らかにしています。つまり、異教徒ナアマンもまた神の選ばれし勇士であり、神の選びの器としてイスラエルを敗北させる行為をした人物であることが最初に報告されています。しかし、語り手は、その彼が「重い皮膚病を患っていた」事実を同時に報告し、彼が神の憐れみを必要とする人間であることを指し示しています。

神の憐れみの準備は、戦いでイスラエルの地から捕虜とされた一人の少女が彼の妻の召し使いにされていることによってなされています。彼女は女主人に、エリシャの存在を伝え、イスラエルの預言者である彼によって、主人ナアマンの病を癒してもらうよう進言します。ナアマンは彼女の言葉をアラムの王に伝え、王は、彼にイスラエルの預言者の所に行く許可を与えるだけでなく、イスラエルの王に手紙を送るという破格の扱いを約束します。これによってナアマンが如何に王の厚い信頼を得ていたかが判ります。

ナアマンはこのような王の寛大な扱いを受けて「銀十キカル(約340キロ)、金六千シェケル(約68キロ)、着替えの服十着を携えて」、アラムの王が書いた手紙を持ってイスラエルの王の下を訪れます。この訪問に慌てたのは、イスラエルの王です。アラムの王の考えからすれば、ナアマンの皮膚病を癒し得るような預言者は、当然王の宮廷に召抱えられ、王のために働く存在であるはずですから、その手紙は王に特別な便宜を図るよう期待するという内容となります。言い換えれば、戦争に勝利しイスラエルを支配下においているアラム王は、この要望が聞かれないなら、イスラエルを攻め、完全に抑圧支配する口実を得られることになるので、そのような意図を持って手紙が書かれたのではないか、とイスラエルの王は手紙を見て恐れたのです。この恐れは、アラムの王にまで知られている預言者エリシャの存在を、イスラエルの王は知らない!事を示しています。イスラエルの王は、主の預言者に聞く習慣を持たない、いたずらに心を騒がせる不信仰な人間であることを示しました。

エリシャはイスラエルの王が衣を裂いて、悲しみと嘆きを表したことを聞き、王がなぜそのような行動を取ったか、人を遣わして尋ね、ナアマンを自分のところに来させるよう伝えます。そうすれば彼はイスラエルに預言者がいることを知るようになると語り(8節)、エリシャは主の召しに対する揺るぎない確信を表わしています。

ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立ちました(9節)。ナアマンは馬上から、自分の皮膚病の癒しをエリシャに要望しました。彼は自分が癒しを求める立場であっても、イスラエルを支配するアラムの軍司令官であるという誇りを持っていましたので、頭を下げて身を低くして頼むことはできないという高慢な思いを抱いていたことでしょう。いずれにせよこの時点で、エリシャとナアマンは直接会っていません。

エリシャは、使いの者をやって、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」(10節)とナアマンに告げますが、彼はこのやり方が大変無礼だと感じ激怒し、「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」(11-12節)と言って、身を翻して、憤慨しながら去って行きました。

ナアマンのように異教的な魔術の世界に生きてきた者にとって、魔術的なしぐさ一つ示さない、この預言者の命令はどう考えても納得がいかないのです。その期待を裏切られただけでなく、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」という命令も、祖国ダマスコを流れる清い川を知っている彼には、なぜヨルダン川でなければならないか、合点が行かなかったのです。彼は祖国を愛する強烈なナショナリストです。実際にはそうしているわけではありませんが、彼が身を低くして、自分たちが支配している国の預言者に、自分の病を癒してもらいたい、とわざわざやって来ているのに、預言者らしい宗教的なしぐさ一つせず、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」と命じるエリシャの行為は、自分を辱めるものであるとナアマンは考え、我慢できなかったのです。

しかし、家来たちは、「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」(13節)といって主人のナアマンをいさめ、翻意を促しました。エリシャは決して行うに困難なことを命じたのではありません。むしろそれはあまりにも簡単で単純な命令でありました。

「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」と言うエリシャの命令は、それによって癒そうとする神の御旨を伝える言葉です。それは、御言葉です。その御言葉に聞き従う信仰が求められていたのです。聞くだけでなく、命じられたことを実行する、信仰が求められていたのです。ヨルダン川に七度身を浸し、体を洗う、それは実に単純な行為です。それを七回繰り返すことは、しかし、純粋な信仰がいります。繰り返し身を浸し、洗う中で、神はその病を癒す変化の兆しを、その度毎に与えられたなら、確信は与えられ易かったことでしょう。しかし、一度、二度、三度、四度と繰り返しても、一向に病が良くなる兆しが現れなえれば、疑いの心が芽生え、信仰が揺らぎます。その揺らぐ思いを断ち切って、七度繰り返すことは、本当に信じないと出来ません。この「七」という数字は、完全を表します。信仰の完全な従順、癒しの完全を表すのです。

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」(14節)といわれています。神は完全な信仰の服従を示したナアマンを完全に癒されたのです。

ナアマンはこの癒しを感謝し、随行員全員を連れて、神の人エリシャの前に立ち(馬上ではない!)、謙って、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」という信仰の告白をし、「今この僕からの贈り物をお受け取りください。」と言って感謝を表そうとしました。ナアマンの信仰告白は、非イスラエル人で、しかも外国の王のしもべによるものであるだけに、それ以前になされたどの告白よりも、優れた意味を持ちます。その告白によって、彼は主なるヤハウエは、イスラエルのみならず全地の神であることを証し、他の全ての神々は偽ものであることを明らかにしたからです。ナアマンがエリシャにしようとした贈り物の量は、常識を超えた多さでありました。

エリシャは、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」といって辞退しました。命令を直接与えたのが自分であるとしても、ナアマンを癒したのは自分ではなく、生ける主の働きによる、というのです。だから栄光は主に帰されるべきで、それを自分が受け取るべきでない、とエリシャは伝えるのです。それでも、ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、エリシャは断り続けました。

ナアマンは、「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」(17-18節)といって、エリシャに許可を求めました。

ナアマンが「土」を求めたのは、イスラエルの神が「土地」と結びつき、それがために、その神を信じ礼拝するためには、その地にあった「土」が必要であると考えたからではなく、その「土」がエリシャを訪問し、主の救いをそこで経験した喜びを想起させるものとして、その「土」を持ち帰りたいと願ったのでしょう。ナアマンは、これ以後、主なるヤハウエのみを礼拝し、「今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」との決意を明らかにします。

しかしナアマンは、王に仕えるしもべとしての職務を持つ身です。信仰を持てば、異教徒の王に仕えることは出来ないといって、イスラエルに亡命するのも一つの信仰的決断と言えるかもしれません。そうではなく日常性の只中に戻り、異教的な環境の中で真の信仰を守ることは、より多くの迫害と困難を伴いますが、非常に価値ある意味のある行為です。ナアマンは後者の選択をしました。ナアマンの主要な仕事は、王がリモンの神殿でひれ伏して礼拝をささげる時、介添え役をすることでした。だから国に帰って、今までどおり自分の職務に戻ろうとするなら、その仕事から逃れることが出来ません。ナアマンはこの問題に苦悩し、「ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。」と二度も繰り返し、エリシャにお願いしています。主を信じる者として、その任を果たすことの矛盾をナアマンは感じています。その信仰は極めて健全です。その矛盾を生きたくなければ、その職を投げ出さずにはおれません。今のように信仰の自由が認められない時代での話です。

エリシャはナアマンの深い苦悩を理解し、彼に「安心していきなさい」という赦しを語りました。異教世界での一つの信仰のあり方を示す意味で、このエリシャの許可は重要な意味をもちます。

ナアマンがこうしてエリシャと別れて少し行った時、ゲハジがナアマンの後を追って行きます。それは、「わたしの主人は、あのアラム人ナアマンが持って来たものを何も受け取らずに帰してしまった。主は生きておられる。彼を追いかけて何かもらってこよう」という強欲な下心から出た行動です。異教徒であったナアマンが改宗し、異教世界に戻ってどのように信仰の神礼拝と信仰を守るか苦闘しているのに、主に仕えるつとめを持つゲハジが主を恐れず、自分の私服を肥やそうとする、罪を犯そうとしている薄ら寒い現実がここにあります。それにしても、彼がエリシャと同じように、「主は生きておられる」(16,20節)という言葉を用いていることに、大きな驚きを覚えます。エリシャはその告白を持って、主に栄光を帰し、一切自分の利益を求めようとしないのに、ゲハジは、主に栄光を帰す言葉を吐きながら、自分の利益のみを求める邪な背信に走ろうとしています。

ナアマンは後を追いかけてやってきた従者ゲハジを主に仕える者であると認めているので、敬意を払い、「戦車から飛び降り」、丁重に接しています。エリシャの前で高慢に振舞っていたナアマンの姿はここには見られません。

ゲハジは、「わたしの主人がわたしを遣わしてこう言いました。『今し方預言者の仲間の若い者が二人エフライムの山地から着いた。彼らに銀一キカルと着替えの服二着を与えてほしい。』」と言って、それらのものをナアマンから騙し取ろうとします。これに対して ナアマンは、「どうぞ、二キカル取ってください」と言って、二つの袋に銀二キカルを詰め、着替えの服二着を添えて、自分の従者二人に渡した、といわれています。

ゲハジはこれらのものを受け取り、自分の家に隠しますが、エリシャは、ゲハジに「お前はどこに行っていたのか」と問います。「僕はどこにも行っていません」といって白を切るゲハジに、エリシャは、「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか。今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。」といって、その行為を非難しています。預言者の心はその背信現場を透視する驚くべき力をもちます。この異邦人の救いという神の驚くべき恵みが表されている「今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。」とゲハジに悔い改めと猛省を促しています。

ゲハジはその罪のゆえに、ナアマンの皮膚病を移され、自身と子孫に引き受けねばならないものとなった主の裁きを聞かねばならなくなります。そしてそれが現実となり、ゲハジは重い皮膚病を患って、エリシャの前から立ち去りました。

この物語は、一方で、異教徒ナアマンの劇的な回心とその真実な信仰を通して、主なるヤハウエは全地の主としてその救いを、どこにおいても、どのようにしても、なし得るお方であることを示し、もう一方で、主に仕える者の富の誘惑に負ける背信を語り、救いが自動的に与えられるものでないことを示し、慰めと警告を語ります。そして異教世界の中で生きねばならない信仰者の課題と可能性を示してくれます。人をおごらせることなく、信仰へ導かれる主の救いの確かさ見る事が大切です。信仰の問題としては、一見優しく思える主の救いの招きに、素直になかなか聞けない原因として、自分のもつイメージでそれはおかしいと退ける人間の高慢と愚かさを覚えさせられます。神が示す単純素朴な信仰の線を受け入れ、それに聞き、従うことの大切さを教えられます。

旧約聖書講解