列王記講解

20.列王記下4:1-7『満たされた油壷』

本章には、エリシャが行った四つの奇跡物語が記されています。これらの奇跡物語は、エリシャがエリヤの正統の預言者職を継ぐ者であることを示しています。

今回学ぶ1-7節は、内容的には上17章8-16節のサレプタの貧しい寡婦にエリヤが行った奇跡とよく似ています。そこでエリヤは、貧しい寡婦が息子と最後の食事のためにとっておいた壷に入ったわずかな小麦粉とわずかな油を用いて、先ず預言者である自分のためにパン菓子を作るように命じ、その貧しい寡婦に、主の言葉に聞く信仰の応答を求めています。

御言葉に聞く者に与えられる主の約束は、
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。

という言葉です。彼女は主の言葉どおり実行し、約束された奇跡を経験しています。このモチーフがこの物語においても流れています。

エリシャ物語においては、エリシャに熱心に仕えた一人の預言者が死に、その妻子が生活に困窮し、多くの負債があるため、息子が連れ去られ奴隷にされそうな危機の中にある預言者の未亡人がエリシャに救いを求めてやってきています。

彼女は夫の事をエリシャに「あなたの僕であるわたしの夫」で、「主を畏れ敬う人」であったといっています。彼女はこのように述べることによって、自分の夫が、先ず自分の夫であることを第一としたのでなく、エリシャに仕える僕であることを強調しています。主のために熱心に仕え、また「主を畏れ敬う人」として忠実に生きたのに、その夫が死ねば、その妻や子がたちまち困窮してしまうという現実は、神の言葉を語る預言者が、当時、社会で正当な扱いを受けていなかったことを示しています。

「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」(出エジプト22:21-22)と律法にありますが、主に忠実に生きた預言者が死に、預言者の子二人が債権の形に奴隷にされようとしている、この現実に驚かされます。

この時のイスラエル社会はこれほど主の預言者を軽んじ、預言者に貧しい生活を強いて平気であったことを示しています。しかし、社会全体がそのように主の言葉に耳を傾けず、預言者を軽んじる罪の問題は、それ自体深刻であっても、それ以上に主のために忠実に生きた預言者が死んで、家族が路頭に迷うほど困窮し、その子供たちが奴隷に売られてしまうほど没落してしまうことは、神の言葉そのものが危機にさらされることになります。御言葉に忠実な者を主は貧しくされ、放置されるなら、人々はますます主の御言葉とそれを語る預言者に対する敬いの態度をますます取らなくなる危険がありました。

しかし、御言葉からの離反は、それに忠実に仕えた夫の死により、困窮を経験した妻子において最も起こりやすい問題でありました。なぜなら、裏切られたという思いが心の奥で沸きやすいからです。しかし、この預言者の妻は、この問題を預言者エリシャの所に持っていきました。つまり彼女は、御言葉による解決を望んだということです。この危機の中でこの預言者の妻は、信仰にとどまりました。使徒パウロは、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)と述べていますが、彼女はまさしく「神とその恵みの言葉とにゆだね」、ただここからのみ神の憐れみと祝福を期待しました。

この求めに対してエリシャは、エリヤのように直接主からの答えがいただける、というように答えるのではなく、「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と答えています。この答えに、二倍の霊を持つ預言者エリシャのエリヤとは違う、しかし本質において同じ主にある解決の道が示されています。人の危機を救う解決の道は、神の中にあります。

しかし、神はそれぞれに賜物を与え、現実の危機を希望に転換させる道を用意されるお方でもあります。このエリシャ物語は、旧約聖書における聖霊論としての特質を備えています。「あなたの家に何があるのか言いなさい」という言葉の裏には、神が与えている恵みの賜物を省みなさい、という促しです。この促しを受けて、彼女は、「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えています。

彼女は、この答えにおいて大きな希望を見出していたわけでありません。むしろ反対であったかもしれません。あるのは「油の壺一つ」それ以外に、「はしための家には何もありません」、彼女が言いたかったのは、この悲観すべき現実です。彼女の目には何もない、あるのは「油の壺一つ」この心もとない現実を前にしてどうしろというのか、口答えしたくなるところです。

この残された「油の壺一つ」は、暑さに耐えるために体に塗るための油を入れておく小さな容器であるという解釈もあります。喪に服している間は、油をつけない風習があったので(サムエル記下12:20、14:2)、この油だけが彼女の夫の死後残されていたのかもしれません。神が彼女の家に残されたのはわずかそれだけです。しかし、そのわずかな賜物は、神がその栄光のために用いられる聖霊の賜物です。

エリシャは、彼女に、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです。」と命令を与えています。

彼女の家にある油の入った壷は、正確には「小瓶」です。近所の人々から沢山の器を借りてきても、小さな瓶に入っている油はわずかしかありません。それを空の「器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです。」という命令は、どう考えても不思議な命令です。そのわずかな油しかないのに、空の器を次々に一杯にするには、油の増殖という奇跡が起きない限り不可能です。

彼女が近所の人に器を借り、そしてその器に油を注ぐその行為自体信仰を必要としています。「戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぐ」ということは、その場所にエリシャはいないということです。まさに神とその恵みの言葉に委ねる信仰がなければ、それは出来ません。

彼女とその息子は、エリシャが命じたとおりに行動しました。可能な限り器は集められ、その全ての器に、小さな小瓶に入っている油を次から次へと注いでいきました。注がれた器は、全て満たされていく、この小さな小瓶に入っているわずかな油から、あふれる神の恵みの力が現された、ここにこの物語の大きなクライマックスがあります。預言者が語る言葉に聞く、それは神の御言葉に聞く行為です。その御言葉に委ねる者に聖霊の力が現され、救いとあらゆる御国の恵みで満たしてくださいます。

油は、差し出された器を全て満たしましたが、その器がなくなるとそれは止んだといわれます。人の思いを空にして、神の恵み聖霊の恵みに謙虚に信頼して器を差し出すものに神は、その恵みを満たし、その者の必要を満たしてくださいます。大胆に大きく器を用意する。それは神の恵みをそれだけ大きく求める生き方を求めることに繋がります。聖霊の働きは、人の明渡し従う行為の中に具体的に現されます。戸の閉められた家に現された恵みは、人の目に隠された密やかな聖霊の働きを現しています。

神の賜物とその業は無限です。しかし人の目には、「油壷一つ」その他何もない、という小さな賜物としか見えません。しかし神は、その僅かな聖霊の賜物を用い、大きな恵みの業をなされるお方です。

この大きな恵みを経験した預言者の妻は、エリシャにそれを報告しました。するとエリシャは、「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」と答えています。負債をそれによって返せただけでなく、「あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」といわれるほど、有り余る恵みに満たされる喜びを与えられました。

神の恵みは、信仰の応答において表されます。神は主権的で自由に恵もうとする者を恵むことがおできになりますが、しかし神はその恵みを信仰の応答において表されます。「わたしの家には何もない」といって恵みの賜物から目をそらすのでなく、「油壷一つ」与えられている恵みに目を向ける信仰を持ち、御言葉に聞き、その賜物が神の恵みの支配の中で現されるよう、自らを器として、聖霊の業に献身していく、生き方が一人一人に求められています。

旧約聖書講解