列王記講解

19.列王記下3:1-27『モアブ王メシャの謀反』

本章には、アハブの死後、イスラエルに反旗を翻したモアブの王メシャ(1:1,3:5)を成敗するため、イスラエルの王ヨラムがユダの王ヨシャファトとエドムの王に呼びかけて戦った時の様子が記されています。

イスラエルに対するメシャの謀反は、聖書外の資料からも知られています。それは『メシャ碑文』といわれているものです。ドイツ人宣教師クラインが1868年デボンで碑石を発見し、彼はそれを400ドルで買い取るようアラビヤ人と契約したといわれていますが、それ以前にフランスのオリエント学者クレルモン・ガノーがその存在を伝えています。クレルモン・ガノーは数行の写しと拓本を手に入れたとされています。彼はその碑文の拓本を取るためにアラビヤ人をモアブに送り、そのために1800ドルを払いました。シケムのトルコ総督はその碑文の譲り渡しを要求しました。そこでこの碑文の価値に目をつけた付近の住民たちは、多数に分割すれば余分に金が入ると考え、この石をいくつかの断片に割ったために文字はひどく傷んでしまいました。クレルモン・ガノーは、その一人一人から破片を買い集め、2個の大破片と18個の小破片を手に入れることが出来ました。彼は拓本を手がかりに、それらの碑文の破片をつなぎ合わせ、復元に成功しました。現在、パリのルーブル美術館に保存されています。この碑文によれば、オムリとその子の時代にモアブの神ケモシの名においてモアブ人を圧迫したイスラエル人をどのように排撃したかを語っています。列王記はモアブ王メシャの謀反がアハズ王の死後なされたとありますが、メシャ碑文では、その時期がアハズ王の時代とされています。しかしメシャの碑文より列王記の方が正しい、というのが最近の見方です。王の死は従属国にとって謀反のチャンスです。メシャはアハブの死を、強い彼に対する勝利と述べることによって、自分の成功を誇張したのかもしれません。

3章にはアハズヤのことが記されていませんが、メシャの謀反はアハズヤの時代になされ、多くの地が彼によって征服され、イスラエルはモアブで多くの支配地を失うことになりました。アハズヤには子がありませんでしたので、彼の弟ヨラムがイスラエルの王位を継ぎ、ヨラムはモアブにおける失地を回復するために、ユダの王ヨシャファトとエドムに呼びかけ、モアブとの戦いに一緒に参加するよう求めました。当時、これらの国は、イスラエルに従属する関係にあったので、ヨラムの呼びかけに直ちに従っています。

ヨラムについて、列王記の記者は、「彼は主の目に悪とされることを行ったが、ただ彼の父や母ほどではなかった。父が作ったバアルの石柱を彼は取り除いた。しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を自分も犯し続け、それを離れなかった。」(2-3節)という評価を下しています。彼はオムリ王朝最後の王となりました。イエフによって暗殺され最期を迎えます(9:24節)。イエフはその殺害をナボトのぶどう畑のことで主が報復をエリヤに託宣されたことの成就として説明しています。ヨラムは「父が作ったバアルの石柱を取り除いた」ことで、彼の主の前になした悪が、「彼の父や母ほどではなかった」という評価を与えられていますが、アハブの示した悔い改めにより、彼に下される裁きを引き受ける形で迎えるその死は、彼の家の罪が主の裁きを免れえないほど深いものであったことを改めて思わされます。

ヨラムからモアブ王への報復の戦いに参加するよう呼びかけを受けたユダの王ヨシャファトは、アラムとの戦いの時に彼の父アハブから参加への呼びかけを受けた時と同じように(上22章)、「わたしも攻め上ります。わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」と答え、参戦しています。ここでもユダはイスラエルに従属する立場ですが、ヨシャファトは年齢も60歳を超え円熟した判断力を持っていました。主に対する信仰を見ても、「彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った。」(上22:43)「彼は父アサの時代に残っていた神殿男娼の残りをこの国から除き去った。」(上22:47)という評価を得ており、彼の信仰と行動がその戦いに大きな影響を与えることになります。

攻撃の経路は、最も直線的に行おうと思えば、エリコからヨルダン川を越え、モアブの領土を南下し、死海の東側に達する道が選ばれるはずですが、メシャはアルノン川の北の強力な拠点を奪還し、それらを既に要塞化していましたので、死海の西岸から南回りの「エドムの荒野の道」(8節)が選ばれました。エドムはユダの支配下にありましたので、「エドムの王」もこれに加わったといわれていますが、このときエドムに王はなく、その人物はユダの王ヨシャファトが立てた役人(上22:48)であったと思われます。連合軍はゼレデ川を東方にぐるり回り道して東側の「エドムの荒野の道を」入ろうとしましたが、そこは砂漠地帯であるため、「迂回するのに七日を費やし、部隊と連れて来た家畜のための水が底をついてしまった。」(9節)といわれています。

ヨラムは戦いに際し主の託宣を求めたわけでありません。それだのに、水の危機に直面すると、彼は、「ああ、主はこの三人の王をモアブの手に渡すために呼び集められたのか」と主に抗議をしています。彼の信仰に対する列王記の記者の低い評価は、このあたりにも見いだせます。

戦いには預言者たちも同行していたと思われます。ヨシャファトはイスラエルの王ヨラムが困窮している様子を見て、「ここには我々が主の御旨を尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と尋ねています。彼は、「父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行う」(上22:44)ことをいつも心がける王として行動しています。このヨシャファトの問いに、イスラエルの王の家臣の一人は、「ここには、エリヤの手に水を注いでいた、シャファトの子エリシャがいます」と答えています。

この返事を聞いたヨシャファトはエリシャの事を前から知っていたように、「彼には主の言葉があります」(12節)といって、エリシャが主の真実の預言者であることを証言しています。この言葉を聞いたヨラムはエリシャの下にヨシャファトと共に行き、主の託宣を求めました。

主の託宣を求められたエリシャは、「わたしはあなたとどんなかかわりがあるのですか。あなたの父の預言者たちや母の預言者たちのもとに行きなさい。」(13節)といって一度拒否します。ヨラムは父アハブほどバアル宗教にのめり込まず、一定の距離をとっていましたが、「彼は、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を自分も犯し続け、それを離れなかった。」(下3:3)ことがエリシャから拒絶される原因として考えられます。しかし最終的には、ヨシャファトに対する敬意のゆえに、エリシャはその要請に応じ(14節)、主の託宣を告げています(16-19節)。涸れ谷に水が満ち溢れるという奇跡も「主の目には小さなことである」と告げ、自然世界を支配しておられる主の絶対的な主権とその力を明らかにします。

エリシャの預言が実現し、イスラエルに「家畜の動物と共にそれを飲む」(17節)という癒しを与えられただけでなく、川に満ち溢れる水を見たモアブの目を混乱させ、動揺させ、主が戦いを勝利に導かれました。イスラエルが占領できなかったのは「キル・ハレセト」だけでありました(25節)。

「モアブの王は戦いが自分の力の及ばないものになってきたのを見て、剣を携えた兵七百人を引き連れ、エドムの王に向かって突進しようとしたが、果たせなかった。」(26節)といわれています。

モアブの王は背水の陣を敷いて戦い、勝てず敗走したのは、何らかの国家上の罪に対する神ケモシの罰であると見なしました。「そこで神の怒りをなだめるために、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。」(27節)といわれています。神の怒りをなだめるためとはいえ、王の後継者となるはずの長男を犠牲として捧げる王の行為は、味方の人間を鼓舞し、戦闘への意欲を駆り立てる効果を発揮しました。しかし、このような行為は、迷信としてイスラエルにおいては堅く禁じられていました。

エレミヤ書7章30-31節には、「まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない」と、人身御供を厳しく批判する預言者の言葉が記されています。

人目によくつく城壁の上でなされたこの行為は、イスラエルの人々の目に強烈な印象を与え、恐怖心を強く与えたことと思われます。本来なら、この行為のゆえに、モアブの王に対する厳しい主の裁きが語られてしかるべきであると思われるのに、この行為の後に記されているのは、意外にも、「イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。」(27節)という言葉です。主の怒りがモアブに下されるのでなく、なぜイスラエルなのか、このモアブの王が長男を人身御供とした行為がここで非難されず、イスラエルに対して怒りが向けられたのは、どう考えても合点の行かない感じがします。

イスラエルのこの戦いにおける勝利は、預言者エリシャの取り次ぐ託宣の約束に基づきます。そうであるなら、主によってイスラエルに禁じられていたこの人身御供にイスラエルが怯(ひる)み、恐れをなしたのでは、彼らがイスラエルを導かれる主を恐れるのでなく、偶像の神ケモシの報復を恐れ怯んだ、という不信仰の表明をしたということになります。イスラエルに向けられる主の怒りと、この戦いにおける最終的敗北の原因は、このイスラエルの不信仰に根本的な原因があります。

信仰で始めた行為は、敵のどのような恐怖を感じらさせる行動にも動揺せず、最後まで主を信頼し、その敵を打ち砕くまで戦いぬくことにより全うされます。これを全うしないなら、99パーセントの勝利も水泡に帰すこともあるという警告としてこれらの言葉は語られています。

旧約聖書講解