列王記講解

18.列王記下2:1-25『エリシャ、エリヤの後継者となる』

本章の1-18節は、エリシャがエリヤの後継者として、霊的賜物を継承したことを物語り、19-25節は、エリシャがエリヤの後継預言者として、ふさわしい働きをしている事を物語る二つの奇跡物語が記されています。

本章から、エリシャ物語が始まりますが、本章はエリヤの最期を記しています。その最後が昇天であることが、キリスト教とユダヤ教の双方から重要な意味を持つ出来事として注目されています。

旧約聖書の中で天に上げられたとはっきり述べられている人物は、エノク(創世記5:24)とエリヤだけです。しかしこの物語では、エリシャはモーセの働きを継承するものとして描かれ、その最期は、エノクよりもモーセと強く結び付けられています。モーセは死んで、主によってモアブの谷に葬られましたが、誰も彼が葬られた場所を知らないといわれています(申命記34:5-6)。エリコの預言者たちは、天に上げられたエリヤがどこかの谷に投げ落とされたかもしれないと考え、その体を探そうとしましたが、見つけることが出来なかった(16-17節)、と記す出来事は明らかにモーセの死に匹敵する者として比較されています。そして、彼らの死とその体が地上に発見されない事実は、復活を予見させる出来事として理解されてきました。モーセとエリヤは旧約を代表する人物として、イエスの山上における変貌の際に登場しています(マタイ17:3-4、マルコ9:4-5、ルカ9:30,33)。

モーセは神によってエジプトの地で奴隷とされて苦しむイスラエルの民を救い出すために立てられ、預言者的働きをする神の人として、紅海の水を分け、乾いた地を民と共に渡った偉大な指導者として人々に記憶されていました。ここでエリヤとエリシャは、モーセの時代に契約において神の民とされたイスラエルを導く預言者として、モーセの霊と働きを継承する人物であることが物語られています。

物語は、主が嵐を起こしエリヤを天にあげられた時のこととして人々にその記憶を呼び覚ますように記されて始められています。ヘブル語で風を意味する語と霊を意味する語は同じで、ルーアハという語が用いられます。エリヤが天に上げられる時、主による風が起こされました。エリヤは主の霊によって預言者の働きをしていましたが、彼はまた主の霊によって取り去られる時が来たことが告げられています。

エリヤはその時が来たので、エリシャを連れてギルガルを出ましたが、エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と告げ、エリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたと記されています。そしてベテルとエリコにおいても、同じようなやり取りが繰り返されています。この三度繰り返されるエリヤのエリシャに対する言葉は、拒絶ではなく、エリシャの信仰をテストでありました。エリヤの霊を受け後継者になるエリシャが本当にそれにふさわしい信仰を持っているか、テストされているのです。この光景は、復活の主がペトロに、三度「わたしを愛しているか」と問われた出来事を想起させます(ヨハネ21:15以下)。

エリシャがエリヤのもとを離れないのは、主の霊がエリヤにおいて生きて働いている現実を見ていたからです。主の霊に動かされている預言者からその祝福を受けることは、主から霊を受けることを意味するとエリシャは信じていたからです。この霊を受け継ぐことなくして、エリシャはエリヤと同じように主のために働くことは出来ないと考えていました。だからどんなことがあってもエリヤから離れることは出来ない、とエリシャは答えるのです。それは、ヤボクの渡しで主の使いと格闘して、「祝福してくださるまで離れません」(創世記32:27)といったヤコブの信仰に似ています。信仰とは、主の与えてくださる恵みに執着することです。その力によって与えられているつとめを全うしようとするのが、エリシャの信仰です。それは、わたしたちにも求められている信仰です。

この二人のやり取りを50人の預言者が目撃し証人となっています。エリヤはヨルダン川に差し掛かると、着ていた外套を脱ぎ丸めて川の水を打つと水は左右に分かれ、二人は乾いた地を渡った(8節)とありますが、これはエリヤがモーセのような預言者であり、彼はモーセと同じ働きをなす霊をもつ人物であることが、これらの証人の前で明らかにされました。

エリヤはそれを明らかにした上で、エリシャに「何を願うか」と問うています。エリシャはこのエリヤの問いに、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」(9節)と答えています。エリシャがエリヤに求めた「二つ分」とは、相続にあたって長子が与えられる分です(申命記21:15-17)。長子は他の子供たちの2倍の相続に与りました。そこには他の預言者たちもいましたが、エリシャは、エリヤの長子であることを自覚し、それにふさわしい相続に与ることを望みました。エリシャのこの大胆さ、厚かましさは、その預言者職への使命感の強さでもあります。その願いはエリヤの言うように「むずかしい願い」かもしれません。しかし御心ならその願いはかなえられるものです。エリヤは自分が取り去られるのを見たらその願いはかなえられるという「しるし」を明らかにしました。

エリシャは、エリヤが「火の戦車」に乗り、嵐の中を天に昇っていくエリヤの姿を見ました。この光景は、イスラエルにとって象徴的な意味を持ちます。戦車は、イスラエルのカナン定着の初期時代に、彼らの運命を左右した敵の持つ強力な軍事力を意味していました。カナン人は当時イスラエルにない戦車を所有し、軍事的に圧倒的な優位にたっていました。イスラエルはカナンで征服できたのは、戦車が効果的に使用できない丘陵地帯に限られていました。イスラエルは武器も十分でない歩兵部隊で戦いましたから、戦車が使用できる平地での戦いでは、全く無力でした。またイスラエルには、戦車を扱う専門的知識も、技術も、経済力もありませんでした。このように戦車は自分たちを圧倒する軍事力の象徴と考えられていました。そして、ダビデ・ソロモンの時代になり、王国が強力になった時、戦車を他の国々のように持つことが出来るようになっていました。

ですからここで戦車をエリヤとエリシャに結びつけて語られているのは、彼ら二人の預言者が、戦車と同様の働きを主の民の間にあって果たすことを明らかにするためです。この預言者が語る言葉と業こそ、敵から国を守る戦車以上の力を発揮するものであることを、列王記の記者は物語ろうとしています。

火の戦車に乗って天に昇っていくエリヤを見たエリシャは、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」(12節)と叫んだといわれていますが、これはイエフ王朝の軍事的危機を救ったエリシャが死を迎えたときに、イスラエルの王ヨアシュがエリシャに向かって叫んだ言葉であります(列王下13:14)。ヨアシュにとってエリシャは、父であり、イスラエルを救う戦車であります。しかしエリシャにとって、エリヤは父であり、戦車でありました。イスラエルの王を裁きうる者、イスラエルを救い得る預言者は、戦車の力を持つという信仰がここに見られます。

エリヤ昇天は、やがてエリヤの再来の希望を生み出すようになります(マラキ3:23)。エリシャが落ちてきたエリヤの外套を拾い、それを丸めてヨルダン川の水を打って水が分かれたという出来事は、エリヤの外套を受け継いだエリシャがその職務を継承し(列王上19:19)、エリヤと同じ働きをなしうる同じ権威をもつ預言者であることを物語るエピソードとして記されています。このエリヤとエリシャの関係は、モーセとヨシュアの関係と似ています。

エリシャは預言者の霊とその働きを受け継ぐ者として万事整えられていく様がこのように描かれた後、19節以下に、列王記の編集者はエリシャにまつわる二つの物語を記しています。この二つの物語は預言者エリシャが、その職務に信頼しその言葉に聴き従う者に祝福をもたらし、反対にその職務を冒涜し、聞き従わない者は、たとえ子供といえども、呪われることを明らかにしています。この子供たちに対するエリシャの主の名による呪いに、わたしたちはそこまでしなくてもという驚きを禁じ得ませんが、預言者は神の人に対する信仰をこうして求めます。エリヤは毛衣を着、腰に革帯をし(列王下1:8)人々にそれとわかる格好をしていましたが、エリシャの外見上の特徴は、「はげ頭」(23節)でした。子供たちは、服装からエリシャを預言者と認め、彼に向かって「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と嘲る行為は、預言者が神の言葉を取り次ぐ存在であるだけに、神ご自身を嘲笑し冒涜する行為となります。エリヤは自分が嘲笑されたことに腹を立て、少年たちをにらみつけ、主の名によって呪ったのではなく、自分の職務と一体となっている主を冒涜するその行為のゆえに赦すことが出来なかったのです。それにしても、42名もの子供たちの命が熊に引き裂かれたというこの恐るべき出来事は、主を恐れて生きる信仰の大切さを改めて覚えさせられます。

エリシャのその職務への情熱、主の祝福を求めてのエリヤの祝福への執着、その態度から子供たちの問題に目を向けるとき、わたしたちは初めてその厳しさの正当性を理解することができます。今日の子供たちの上なる権威に対する恐れのなさは、しかし、親の上なるものへの信仰のなさの反映でもあるように思えます。エリシャの時代においても、子供のこのような態度は、親の宗教教育の緩みに原因があったのでしょう。しかし、その責任を親に問うのでなく、子供において問われるところに、わたしたちに対する警告の意味が込められていると思います。この事実を真剣に受け止めるところから、真の悔い改めと、主にある赦しの本当の喜びを理解する道、そして子供に対する真の教育の道が開かれるでしょう。

この章全体は、預言者の霊が、決してその人の持つ個人の異能ではなく、主から与えられる賜物であり、預言者はその力を主の御名のために用いる時、それがふさわしく働き、またその預言者に与えられている賜物への信頼とその言葉への聴従こそが、民の祝福につながることを教えています。

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