列王記講解

17.列王記下1:1-18『エリヤとアハズヤ』

①列王記上の回顧と下の展望

列王記上は、ソロモンの治世にはじまり、アハブの死で終わっています。その間の歴史は、ソロモンによるエルサレム神殿の建設を頂点に、以後、王国の分裂、偶像崇拝と政治の腐敗堕落の道を歩み続けています。特に、北イスラエルは、「ヤロブアムの罪」の問題として、その傾向が顕著に見られました。オムリ、アハズと続くオムリ王朝では、ダビデ・ソロモン時代に匹敵する政治的・経済的発展を遂げますが、それは、シドン人のエトバアルの娘イゼベルを妻としたアハブの政略結婚に見られるように、見せ掛けの繁栄に過ぎません。アハズの時代に、バアル宗教はイスラエルの中で公然と礼拝されるようになり、神の言葉と真の神礼拝は軽んじられるようになりました。神は、その回復を叫ぶ預言者を起こされましたが、アハブはその声をことごとく圧殺し、退けようとしました。バアル宗教化・偶像化への道をひたすら歩むオムリ王朝と先頭に立って戦ったのが預言者エリヤでした。

列王記上前半の頂点がソロモンの神殿建設であるなら、後半の頂点は、アハブとエリヤの対決です。イスラエルの歴史の中でも最も繁栄の時代を築いたソロモンとアハブ、この二人の王は、異教徒の外国の女性との結婚により、その後の歴史に暗い影を落とすことになるという共通点を持ちますが、個人としての信仰は、全く異なっていました。ソロモンは真の神であるヤハウエを礼拝する神殿をエルサレムに建設しますが、アハブはバアル宗教化への道をひた走ります。

列王記の記者は、その王制の政治的経済的発展にほとんど関心を示していません。イスラエルが真の宗教性を失い、バアル宗教化へ向かう原因に重大な関心を示し、その道を阻止する預言者の働きに注目しています。その頂点にいるエリヤの預言者としての活動は、列王記下では、本章で最後となります。2章には、その後継者となるエリシャを祝福して、天に引き上げられる物語が記されています。こうしてエリヤは舞台から消えていきます。2-10章にかけてエリシャ物語が続きます。このように列王記上の後半と下の前半は、エリヤ・エリシャという預言者の活躍を記し、イスラエルの神の言葉への信仰の回復が主題とされ、全体の頂点をなしています。しかし、エリシャやその後に登場するイザヤやエレミヤに代表される預言者たちの働きにもかかわらず、北イスラエル王国も南ユダ王国も神の言葉に聞き従わず、正しい神礼拝を行わなかったため滅んで行きます。

列王記下は王国衰亡の歴史を物語ります。まず北イスラエルが前722年にアッシリアのサルゴン二世によって、首都サマリアを陥落させられて滅ぼされます。それは、南のユダにとって警告の意味をもち、悔い改めの機会でありましたが、ユダはそれを教訓として学ぶことができませんでした。確かに南ユダ王国では、ヒゼキヤやヨシヤによる宗教改革がなされましたが、その改革は表面的なものに終わり、徹底することなく、衰亡の道を阻止することができませんでした。ついに前587年に南ユダ王国もバビロンの王ネブカドネザルによってエルサレムを陥落させられ、徹底した捕囚政策の前に滅亡してしまいます。列王記下はその滅亡までの歴史を扱っています。

 

②列王記に見られる希望の福音

列王記は、イスラエルが滅び捕囚を経験した原因は、イスラエルが神の言葉を軽んじ、神を正しく礼拝しなかったからであると答えています。アッシリア、バビロンの出現は、歴史の偶然ではなく、神の歴史支配の中で、神の道具として、イスラエルの罪を裁くために、その攻撃の手を加えたと語ります。

神々がその国や領土を支配すると考えられている古代世界では、その国の滅亡は、その国に神はいなかったか、その神は無力であると考えられるのが普通でした。それ故、イスラエルの滅亡は、イスラエルを選んだ神ヤハウエの無力を示すものと理解される可能性がありました。しかし、イスラエルに起こった全てのことは、神がご自分の民を守ることができなかったからでも、その手が短かったからでもなく、イスラエルが神の律法と正しい神礼拝を守らず、外国の宗教を取り込み、最も神が嫌われる偶像の罪を犯したため、それにふさわしい裁きを神が行われたという神学的理由を、列王記は明らかにします。

しかし、列王記はこのようなイスラエルの暗い面だけを語っているのではありません。列王記は希望の福音を語って終わっています。列王記が記されたのは、捕囚期の終わり頃であるあると考えられています。その時期にイスラエルの王たちの歴史を物語ることは、イスラエルの暗い過去を振り返ることですから、それだけでは、暗い面白くないことを思い起こすことだけになりかねません。列王記の記者はそんなことを物語ろうとしたのでありません。列王記の著者たちは、現在の民の窮乏と悲惨が神の言葉の軽視によってもたらされた現実として受けとめました。そうであるなら、そこからの回復への道は、神の言葉の回復から始めなければならない、という強い核心と希望を見出すようになりました。それ故、列王記の記者たちは、神の言葉への信仰の回復、信仰の悔い改めへの呼びかけとして、列王記の使信を物語ろうとしました。エリヤ、エリシャは、まさに神の言葉への信仰が見失われた時代に、ひとり真の使信を携え、その呼びかけを行ったチャンピオンとして登場しています。彼らに表された神ヤハウエの力と奇跡は、御言葉に聞く者に表される恵みであると同時に、これに敵対する者への神の裁きであることを示す両刃の剣としての意味をもちます。

 

③列王記下1章

列王記下1章の出来事は、エリヤの最後の働きを示す象徴的な事件として報告されています。エリヤはカルメル山の出来事以来、神の奇跡的な力を行使していません。彼がアハブの前に登場するのも、ナボトのぶどう畑の時以来です。ここに、アハブ王が死に、その子アハズヤの時代に、エリヤが登場したことが物語られています。

アハズヤは、列王記上22章51-53節に記されているとおり、父アハブにも増して罪深く、バアル宗教に走り、主の怒りを引き起こす歩みを続けた者でありました。それ故、2節の屋上の部屋から転落して病気になったという記述は、単なる偶然の出来事ではなく、それ自体主の審判にかかわることとして記されています。

もしアハズヤの信仰が健全であったなら、ここで悔い改め、イスラエルの真の神、主の御心を求めることのできる預言者のところに使いを遣わし、その言葉に従おうとするはずです。しかしアハズヤが求めたのは、「エクロンの神バアル・ゼブブ」の意志でありました。

「バアル・ゼブブ」とは、「はえの主」という意味があります。バアル宗教は、それぞれの土地の神を認めていましたので、バアル・ゼブブはその地方神であったのでしょう。恐らく、「ゼブブ」は「王子」を意味する「ゼブル」を故意に転化されたのでしょう。新約のマタイ福音書10章25節にも「ベルゼブル」という同じ呼び名が見られます。

その名の意味がどうあろうと、いずれにせよアハズヤは主なるヤハウエを求めず、異教の神の名を求めて助かろうとしたところに罪がありました。主の使いは、このアハズヤの罪を裁くためにエリヤに臨み、主の御旨を告げ、バアル・ゼブブに伺いに行く王の使者たちに、主の御旨を明らかにするよう命じています。

それ故、エリヤは再び預言者として語ります。エリヤが主の使いから託されて、アハズヤの使者たちに語った「あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。 それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」(3-4節)というメッセージは、王の身に起こったことが決して偶然の出来事ではないことを信じさせるに十分なものとして受けとめられました。

アハズヤの出来事は、彼自身の主への背信行為に対する刑罰として主によって引き起こされました。アハズヤは真の神であるヤハウエではなく、エクロンの神バアル・ゼブブの力によってその病からの救済を求めましたが、それは、イスラエルを支配し、また世界を支配するのは、主なるヤハウエでないことを意味する行為でありました。そうなれば、主への信仰はますます民から軽んじられることになります。それ故、エリヤは主の代弁者として介入し、主の審判を語る必要がありました。そのことはエリヤよりも、主ご自身が感じておられました。エリヤに主の使いが現れたのはそのためです。

しかし、神はその御旨を直接語らず、預言者を立て、預言者を通して語り、事柄を実現されようとしました。これは非常に重要な意味をもちます。それは、バアル宗教にも預言者がおり、真の預言者を判断する目印が必要とされていた時代にあって、真の預言者の言葉は必ず実現する、ということを明らかにする必要があったからです。

アハズヤの死の出来事は、エリヤの預言者職が真実であることを示すものとしてここに報告されています。エリヤが神の御旨を語っている限り、これに聞き、悔い改めなければ、その裁きは避けえません。決して裁きは自動的に起こることとして語られていたわけでありません。裁きは同時に悔い改めへの招き、福音としての意味をもっていたのです。

アハズヤは、自ら遣わした使者たちが予想したより早く帰ったので、不思議に思い、「なぜ帰って来たのか」その理由を尋ね、彼らが聞いたというそのメッセージを聞き、それを語るものの風貌を訊ね、そのメッセージを告げたのがティシュベ人エリヤであることを確認しています。その上で、軍隊を動員してエリヤを捕らえてその語るのを止めさせようとしたアハズヤの行為は、彼が決定的に神の言葉を語る預言者を重んじない者であり、従って、神の言葉に聞き従わない者であり、神の意思に自分を従わせようとするのでなく、自分の意志で神の御心を曲げようとする者であることを明らかにするものとなりました。

アハズヤはエリヤを捕らえるために3度にわたって五十人隊を遣わしていますが、前の二つの五十人隊は、ただアハズヤの背信の意思のみに聞き従う同罪者として行為しています。第三の五十人隊の長は、真の神と神の人エリヤを恐れる使いとして、エリヤの前にひざまずき、懇願しています。

これら3人の五十人隊の長は、いずれもエリヤを「神の人」と呼んでいますが、エリヤは五十人隊の長に答えて、「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう」と言うと、先の二つの部隊は、「天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。」(10節)といわれています。

ここでは、「神の人」(イシュ・エロヒーム)と「神の火」(エシュ・エロヒーム)が語呂合わせとして用いられています。神の人に神の火が与えられ、神の審判の担い手としてその力を行使しています。

第三の五十人隊の長は、この事実を信仰の目で重く受けとめ、悔い改めの姿勢で、エリヤに命を救ってくださいと懇請しているのです。主の使いは、エリヤに彼と一緒に降りて行き、王のところへ行き、審きの言葉を語るように命じています。

エリヤは、アハズヤに「主はこう言われる。『あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして使者を遣わしたが、それはイスラエルにその言葉を求めることのできる神はいないということか。それゆえあなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」(16節)と決定的な主の審きを告げ、アハズヤは「エリヤが告げた主の言葉どおりに死んだ」(17節)といわれています。

アハズヤは、既に与えられていた神の意志を知っていたにもかかわらず、悔い改めず、むしろ預言者が語る主の御心を取り消そうとして、自らの死を必然のものとしました。これが17節の告げていることです。

神の人と神の人が語る言葉を退ける者は、己が命を失います。しかし、これに聞き、悔い改めて、謙る者には、命が与えられます。第三の五十人隊の長のように悔い改め謙る者に、神は天からの火を免れさせられます。この事実を列王記が語っていることを理解することが大切です。エリヤの語る審きの言葉は、信仰を持って聞き、悔い改めて受け入れる者にとって、救いの福音として働きます。しかし、これに心から耳を傾けず、自らの力で阻止しようとする者には、避けえない神の審判が臨んできます。ここに神の義と人間の罪が明らかにされます。しかし、一度徹底して、神の審きに聞き、悔い改めようとする信仰には希望があることをこの物語はかたっています。それを読み取ることが大切です。

旧約聖書講解