列王記講解

15.列王記上21:1-29『土地は誰のもの』

本章のナボトのぶどう畑をめぐる問題は、イスラエルの宗教的伝統と結びついた「土地所有」の権利の根幹に触れるものです。アハブが一介のイスラエル人に過ぎないイズレエルのナボトを無実の罪で処刑し、彼のぶどう畑を取り上げたことは、イスラエルの宗教伝統を否定し、他の民の間で行われていた絶対王権をイスラエルにも徹底しようとする企てでありました。その意味で、このような考えをもつアハブ王制の存続は、イスラエルの信仰にとって取り返しのつかない危機に直面することになります。この物語は、この危機に人々がどのように行動したか、できなかったかをありのままに報告し、この危機を救う人物として期待されたエリヤの働きを報告しています。

イスラエルの王アハブは、ここで「サマリアの王」(1節)であるといわれています。そこがイスラエルの王都でありますから、別に不思議な書き方という必要がないかもしれませんが、列王記の記者は、これから物語る行為がイスラエルの王にふさわしくないものであるので、それを暗示するようにこのような表現をとったのかもしれません。

サマリアはイスラエルの中央部にあり、町は海抜430メートル以上ある山の上にあり、夏の暑さをしのぐのによい位置にありました。アハブはサマリアを夏の都として用い、イズレエル平野に冬の宮廷を持っていました。ナボトのぶどう畑は、アハブの冬の館に隣接する地にありました。アハブは「土地所有」に関するイスラエルの法に無知であったわけでありません。王といえどもそう簡単にその伝統法を無視することができないことを知っていたからこそ、ナボトに丁重に、しかも相当と思われる条件で、土地譲渡の話を持ちかけています。

しかしナボトの答えは、否定的でした。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)と答えています。レビ記25章23節に、「土地はわたし(主)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。」といわれています。この御言葉は、ヘブライ人にとって、土地は神から授かったものであり、個人的な利害関係から勝手に売ったり買ったりできるものではないことを教えています。ナボトは特別アハブに盾突こうと思ってそう返事したのでありません。彼はただ神から授かったものに、人は自由にできないという事を答えたに過ぎないのです。

アハブはナボトの返事を聞き、内心、やはりそうかと思ったに違いありません。彼もヘブライ人でしたから、ナボトのいう事がわからないわけではなかったのです。しかし、ナボトが王としての自分の要求に応じなかったことに対しては、腹立たしさを覚えました。イスラエルの国王である自分が、自分の隣に住む自分に支配されている一人の民でしかない者の土地すら自由にできないことに腹立たしさを覚えたのです。食事ものどが通らなくなり、寝台に横たわって顔を背けて不機嫌な顔をしていたのは、そのためです。アハブは政治家としても軍の最高指揮官としても決して無能な人間ではありませんでした。しかし、自分の願望をイスラエルの伝統法を前にして実現できないことへの苛立ちをこのように表したのです。

イスラエルの伝統に立たないところで育ったフェニキア出身の彼の妻イゼベルは、この王の不機嫌の理由を聞き、何でそんな理由で夫が悩んでいるのか、理解できませんでした。彼女が育ったフェニキアでは絶対王政による支配が行われていました。その制度の下では、王はその支配する国土を自分のものとして自由に用いることができました。だからイゼベルは、アハブに向かって、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」(7節)と述べて王の機嫌をなだめ、その考えの下に直ぐに行動を起こしています。

イゼベルはアハブ王の名で、手紙を書き、王の印を押し、ナボトの町の長老や貴族たちに送っています。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」(9-10節)というものです。

これは、偽証を立てて無実のナボトを殺せという命令です。この手紙を受け取った町の長老や貴族たちが何の躊躇もなくそれを行ったように書かれていますが、実際には、手紙を受け取った長老たちの手は震えていたと思われます。手紙は確かに王の名で書かれ、王の捺印もあります。しかし実際の命令を出したのはアハブ自身ではなく、その妃イゼベルであることは誰の目にも明らかであったからです。ナボトが、イスラエルの土地法という伝統から、王の要求を毅然と拒んだその態度から見ても、ナボトの町の人々は、彼がイスラエルの宗教伝統を重んじ、主の前に忠実な人間であることを認めていたと思われます。だから、何を理由に断食を布告しえるのか。大きな災いが起こってその原因を究明しなければならないというのであれば分かりますが、その様な兆候はどう見てもナボトとの関係では見られないからです。ナボトがどのように神と王を冒涜したのかさえ十分明らかにされているように思えません。イスラエルの法では、確かに裁判で二人の証言があれば罪に定めることができます。しかしその証言者は雇われ者の、しかも「ならず者」です。町の人は、ナボトが主を畏れる人間であることを知っているのと同じように、それらのならず者がどれほど主を恐れない人間であるかも知っていたことでしょうから、合点が行かなかったはずです。しかもこの要求を聞き実行することは、イスラエルの共同体の基本となる土地法を否定することに繋がることになることは、冷静にものを考える人であれば直ぐ分かることでありました。いいかえれば、明日は同じ理由で自分も処刑され、土地を奪われるかもしれないからです。さりとて、この王の要求を拒むほど毅然とした態度をとるには、非常な勇気と信仰がいりました。ああこんな時に、エリヤがいてくれなら…、と無力な人々は思ったことでしょう。

しかし預言者エリヤは直ぐに現れませんでした。この町の信仰が問われ、彼らは王の名のもとになされた虚偽のナボト告発に同調し、無実のナボト殺害に荷担し、自らの命を救ったことは、彼らの思いを絶望的なものにしたことでしょう。

ナボトは絶望的な気持ちで民衆が投げた石の前に打たれて死にました。イゼベルはそんな民衆の心など知りません。彼女は宗教性も文化も違う人間です。後にイエフが革命を起こし、息子ヨラムを暗殺し、彼が「イズレエルに来たとき、イゼベルはそれを聞いて、目に化粧をし、髪を結い、窓から見下ろしていた」(列王下9:30)といわれます。彼女は目に濃いアイシャドーを塗り、髪を高く束ね、恐らく王女の着る藍のドレスを着て、表情一つ変えずナボトの死の知らせを聞いたことでしょう。そして、直ちにナボトのぶどう畑を自分のものにするよう促すように、「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」とイゼベルはアハブに告げたのです。

アハブはまるで催眠術でもかけられたように、いそいそとナボトのぶどう畑に下っています。列王記の記者はこのアハブの行為を、「その妻イゼベルに唆された」(25節)と、幾分同情的に書いています。しかし、本当にイゼベルに唆されたとはいえ、ナボトが死んだことを聞かされて、いそいそと彼の畑にやって来るアハブは、それでもイスラエルの王といえるのか、と問うています。

事ここに至って始めて、主の言葉が預言者エリヤに臨み、アハブ王に対する主の審きが告げられています。それぞれの業が主の前に問われる時です。「主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。」(19節)

アハブにとって、エリヤは、耳に快くないことを告げ、自分の進みたい道を妨げる「敵」(20節)のような存在です。しかし、自分がイスラエルの王である限り、忘れてはならない信仰の良心を呼び覚ますものとして、無視しえない存在でありました。アハブは、エリヤが語る主の審きを聞くと、「衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。」(27節)と言われています。

彼はエリヤの言葉によってその信仰の良心がわずかでも呼び覚まされ、悔いる心が与えられたのです。アハブはこの悔い改めのゆえに、「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。」(19節)と告げられていた主の裁きは、「彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」と緩和されています。

しかしその裁きそのものは取り去られてはいません。アハブはその土地をナボトに返したという報告は記されていません。悔い改め、ナボトの子孫に対しそれ相応の取り扱いを行ったという報告もありません。自分を唆したイゼベルと離婚したとも書かれていません。そういう具体的な悔い改めの実は結んでいるわけではないのですが、主はご自身の前に謙り、少しでもイスラエルの宗教伝統に立ち返ろうとしたアハブの態度を評価される忍耐深い主の愛を列王記の記者は見ています。

しかし、「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はなかった」(25節)といって、彼の罪そのものは赦されなかったことを明らかにしています。アハブの罪は、一人のイスラエル人の土地を奪うという問題に留まらない大きな問題があったからです。土地は主のものです。彼が主の権利を侵害したまま、彼とその子孫が平穏無事に繁栄を享受できるどころか、主の裁きを免れることもできないのです。

それにしてもナボトの子孫はどうなったか、むしろわたしたちはそのことに大きな関心を抱きます。先祖伝来の土地を所有することは、その社会でその地位を所有することと一体です。先祖伝来の土地を失うことは、社会での地位も失うことになります。ナボトの子孫は、土地を失うことによって、その地位を失うことになります。物語がその土地回復と地位回復について何も述べないのですから、その回復がなされたという事は断言できません。しかし、預言者エリヤを通して、アハブの罪に対して裁きが告げられていることと、その子孫の滅亡が告げられていることは、ナボトの子孫に対する主による名誉回復を十分暗示します。たとえそうでなくても、先祖伝来の土地を主よりのものとして守ろうとしたナボトとその子孫を主が省みられないと考えるのは、信仰の問題としてむしろ不可能です。主はその約束を信じたものに、それを実現されるお方であるからです。

いずれにしても、このアハブの土地法の伝統破りの行為は、他の国々のように王を求めたイスラエルの国の行き着く先を示す出来事して報告されています。それは人間が王として支配し、神をも自分の思い通りに支配しようとする、異教の偶像宗教から生じる絶対王政の行き着く先です。イスラエルはこの危機をこれからも味わいつづけます。この物語は、それをもはや民衆の力で阻止しえなかったことを示してもいます。しかし、主はご自身の熱情により、預言者にご自身の御旨を告げさせ、その誤りから引き戻そうとされます。その誤りにいかない道は、ただ一つ、この神の約束にとどまり、神の声に聞く民であることを、王と民の一人一人に問われています。その事を自覚し、まず一人が神に立ち返る、そこに信仰の共同体としての真の希望が開かれることをこの物語は告げています。

旧約聖書講解