列王記講解

14.列王記上20:1-43『わたしこそ主である』

20章は、前後にあるエリヤ物語の叙述と結びつきが弱く、中途半端な印象を受けます。ここにエリヤは登場しませんし、話の流れは21章と入れ替えた方が22章とつながり具合もよく、21章の『ナボトのぶどう畑』の話も19章とうまくつながるように見えます。

しかし物語を注意深く読みますと、本章は正しい位置に置かれていることが分かります。エリヤが神の山ホレブの洞穴で体験したことは、神は、カルメル山上での対決の場合のように、超自然的な力によってその臨在と真実さを証明されるのではなく、「静かにささやく声」として、人の心に語りかけ、人間に対する感化を通して、人間と社会に影響を与え、人間を神の支配の道具として用い、臨在を明らかにされるということでありましたが、本章はまさに、まさにその様に行為される神が証されています。20章に続く2章は、神が人を通して働かれ、その目的を実現されるという事が明らかにされています。神は王を自分の僕として用い、彼らがそれを拒もうとする時、預言者を用いて彼らを本当の忠誠へと呼び戻されます。

20章物語において、アハブはアラムの王ベン・ハダドと衝突しますが、その衝突はあまりに力が釣り合わず、その結果は明瞭に思われました。それゆえベン・ハダドは最も屈辱的な条件を、アハブに要求できると考え、その様に行動しています。

このベン・ハダドの脅迫事件がいつであったのかここには明らかにされていません。アッシリアの王シャルマナセル3世が軍事遠征を行い、北シリアとフェニキア沿岸の町々に貢物を徴集し、さらに中央シリアへ向かったので、その周辺にある諸国は連合軍を結成し、カルカルに集結してアッシリア軍の侵攻を阻止する戦いが、前853年に起りました。その時、アハブはベン・ハダドと共に連合軍に加わり、戦っています。その時投入された戦車部隊の数は、イスラエルがアラムの数を凌ぎ、全体の半数を占めていたといわれますので、イスラエルはアラムに従属する立場にあったとは思えません。アハブはカルカルの戦いの後まもなく死んでいます。22章1節には、アハブが死ぬ前にアラムとの間に3年間戦いがなかったといわれています。これらの事実から推測しますと、本章に記されている出来事は、前853年のカルカルの戦い以前で、前856年頃に起ったことは確実です。

アラムのベン・ハダドは32人の王侯や多数の軍馬と戦車をそろえ、圧倒的な力の優位に立ってサマリアに進軍し包囲し攻撃を加えたことが1節に報告されています。ベン・ハダドがアハブにこのような屈辱的な要求を突きつけたとき、恐らく彼はイスラエルの領土の大半を支配下に収めていたと思われます。銀や金だけでなく、アハブの「妻子たちを差し出せ」(3,5節)という屈辱的要求は無条件降伏を意味します。アハブは二度目の要求を聞かされた時、国中の長老を集め、その要求について説明していますが、その言葉を見る限り、二度目の要求は、最初の要求と同じです。しかし長老たちや民の反応を見ますと、ベン・ハダドは、人質として王のハレムの女や子供らと共に王の財宝を引き渡すよう要求しただけでなく、さらに兵士たちが欲しいままにサマリアの町を略奪してよいという要求したと思われます。

それゆえ、長老と民は、王にその要求に従わないように懇願し、王はベン・ハダドに使いを送り、後者の要求には応じられないと返答しました。ベン・ハダドはこの返事に怒り、使者をアハブに送って、「もしサマリアに残る塵がわたしと行を共にするすべての民の手のひらを満たすことができるなら、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」(10節)と述べ、神々の前における厳粛な誓約をもって行動することを明らかにしています。

これに対してアハブは、『武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない』(11節)とヘブライ語の諺を持って返答しています。その意味は、戦闘の準備をすることと、それに勝つこととはまったく別の話だ、というもので、日本語的な表現をするなら、「取らぬ狸の皮算用」です。聞き様によっては、アハブは大変自信に満ちた態度のように思えますが、状況は絶望的です。ベン・ハダドがこの言葉を聞いたのは、サマリアからかなり離れた位置に宿営にするため立てていた仮小屋で、他の王たちと酒盛りをしている時です。これからサマリアの町を陥れようとする敵軍の将の余裕ぶりが報告されています。彼は酒に酔った上機嫌で、家臣たちに命じて戦闘配置につけさせました。

恐らく勝算のないアハブはその言葉とは裏腹に、絶望的な気分であったことでしょう。このように状況が絶望的な時に、神は一人の預言者を通してアハブに語りかけ、次のような言葉で勝利を約束されました。

「この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。」(13節)

そして預言者は、敵を出し抜く戦略をアハブに示唆しました。それは諸州から必要最小限の若い将校232名を動員し、イスラエルの民の中から7000人を招集し、酒で酔っ払っている敵陣に速やかに襲撃することです。7000人という数は、神の山ホレブで神がエリヤに忠実な主を信じる民を残すと言われたのと同じ数です。これも象徴的な数として示されています。この人数は、強大な敵軍の前に小さな数ですが、神の支配の中で戦われる戦いには十分な数として示されています。

自信過剰なベン・ハダドは、サマリアからやってくるこれら軍隊を生け捕りにして、無力な敵軍を辱めようと考えていました。しかし実際は、楽勝かと思われたベン・ハダド側が完全な敗北を喫しました。士師記7章には、ミディアン人との戦いにギデオンが2万2千の部隊を率いていて戦おうとした時、主は、多すぎるといってそれを減らさせ、精鋭300人の部隊で戦わせ、救いを約束し、戦いに勝利させられた話が記されています。ここでもイスラエルの勝利は、「ミディアンの日のように」(イザヤ9:3)、主の救いとしてなされました。

アハブはこのように一人の主の預言者に支持され、戦いを決意し、予想外の驚くべき勝利収めることができました。その勝利はあまりにも予想外であったので、説明を必要としていました。そのため、この戦いで予期に反して敗走することになったアラム人は、「彼らの神は山の神だから、彼らは我々に対して優勢だったのです。もし平地で戦えば、我々の方が優勢になるはずです。」(23節)といって、次の戦闘場所を、ヤハウエの命令が及ばない平地を選びました。

二度目の戦いのは、「年が改まった頃」(26節)行なわれたといわれています。パレスチナでは戦争が行なわれる一定の時期が一年の内にありました。それは春の終わりから夏の初期にかけてでありました。その時期は、収穫がすでに済み、人々は十分に戦うことができ、敵軍も戦利品として持ち去るに足るだけの穀物の貯えを得ることができたからです。その戦いの場はアフェクでありました。

しかしここでも予想に反して、アハブの軍隊が勝利をしました。これによって、主なる神ヤハウエは、山地と同じく平地においても出来事を支配し、あらゆる領土の神であることを明らかにし、民はあらゆる場所で主の保護を求めることができ、主もまた彼らの忠誠を求めることができることを明らかにされました。

そして、預言者を通じ、「アラム人は主が山の神であって平野の神ではないと言っているので、わたしはこの大軍をことごとくあなたの手に渡す。こうしてあなたたちは、わたしこそ主であることを知る。」(28節)といわれた主の言葉は、この戦いが主の戦い聖戦であることを明らかにしています。聖戦においてアハブが勝利することは、神が彼のために戦っておられる結果としてもたらされるものであり、聖戦の決まりとして、その勝利で得たものはすべて、神に捧げられ、敵は聖絶すべきものとされていました。

この絶対不利な状況を切り開き勝利に導くのは主です。イスラエルはその勝利によって、この神こそ「主(ヤハウエ)であることを知る」ようになると言われます。神は決して超自然的な力だけでしか、その恵みの支配を表す事ができない方ではありません。神は人間の社会を通して働きかけ、その意思が人を通して示され、救いを実現することがおできになります。多くの人数が揃わず、場所や条件が整っていないときでもそれは可能です。この戦いに必要なのは、神の意志である御言葉に聞き従う信仰でありました。

「両軍は、陣を張って七日間対峙した。七日目になって戦いを交え、イスラエル軍は一日でアラムの歩兵十万人を打ち倒した。」(29節)といわれています。わずか7232名の精鋭で、これだけの敵軍を滅ぼすことは、人の業としては不可能です。イスラエルがヨルダン川を渡り最初に征服した町は、エリコでありました(ヨシュア記6章)。エリコの城壁の周りを6日間、無言で回り、七日目に7回まわり、回り終えた時、ときの声を上げて、その城壁崩れさせ、エリコを陥落させました。この日のイスラエルの勝利は、あのエリコの日を髣髴させる信仰の出来事として記されています。

このイスラエルの大勝利に驚き、完全な敗北を覚悟し、その生命の危険を感じたベン・ハダドは、降伏しアハブに命ごいをしました。アハブはこのようにして助けを求めてきたベン・ハダドを「兄弟」として扱い、しかも彼と協定を結んで、彼を生かしたまま、帰国させました。これを見てわたしたちは、アハブが度量の大きい、平和を願う王であるかのように考えるかもしれませんが、この行為はアハブが勝利の意味を正しく理解しないで、全く自分の力で得た勝利と見なした、という事実を見逃してはなりません。

アハブはこの勝利を神に感謝を表わしていません。神の道具である預言者に対しても同様です。それゆえ、アハブが預言者に相談することなく、ベン・ハダドを釈放するその行為は、傲慢な、背信的行為となりました。それはイスラエルの宗教的伝統に対する軽蔑と、神に対する彼の信仰の欠如を示したものでありました。

それ故、預言者は、象徴的な行為によって、アハブの罪を明らかにし、彼に対する主の裁きを宣言します。「わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手もとから逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる。」(42節)イスラエルはその様な背信の王の下で、心から神に仕えることはできません。一度油注がれ王とされたものの退位や罷免は不可能でした。それ故アハブの死は不可避でした。この預言者の言葉は、その事実を伝えています。

ここで問われている問題は、カルメル山上での場合と同じです。民はバアルか主なる神ヤハウエかいずれかを選ぶ決断をしなければなりません。しかし、それは、カルメル山のように超自然的な方法で解決されるのでなく、人間社会を通して、その関係の中で働きかけられる「静かにささやく声」としての神の言葉に聞くことによって解決されていく道でありました。アハブはこの「静かにささやく声」に聞き従わず、不機嫌になり、王宮に向かい、なおその地位にとどまり、生き長らえていますが、彼の死は不可避であることを42節の預言は明らかにしています。神の声に聞く者には、死があっても命への希望が残されています。しかし神に聞かない者は、生き長らえてもその将来は滅びとしての死しかありません。この厳粛な事実をこの物語から教えられます。神はこの事実を示し、「わたしこそ主である」とご自身を示し、その声に聞く者となるよう、今もわたしたちを招いておられます。

旧約聖書講解