列王記講解

10.列王記上14:1-16:28『ヤロブアム一世-オムリまで』

この箇所は、ヤロブアム一世(前926-907年)からオムリ(前882-871年)に至るまでの歴史が物語られています。この間に、南のユダ王国では、レハブアム、アビアム、アサの三代の王が治め、北のイスラエル王国では、ヤロブアム一世、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、オムリの六代の王が治めています。

王国分裂の原因は、ソロモン時代に北の諸部族がソロモン時代以来の重税と強制労働に対して抱いていた不満を、ソロモンの息子レハブアムが察知して適切な対応をせず、ソロモン以上の強圧的政策を継続しようとした暗愚と強情さにありました(12章)。これに反発した北の10部族は、ヤロブアムを指導者として擁立し、ユダから独立しますが、それは預言者アヒヤの預言の成就であったことを列王記は伝えています(11章)。

この間の時代、両王国の間には「国境紛争」が絶えず、エジプトの第22王朝を開いたシシャクは、分裂によって生じたイスラエルとユダの弱体化に付け込んで、パレスチナへの遠征を企てています(14:25)。列王記には、エルサレムに対する侵略のことだけが記されていますが、カルナクにあるシシャクの神殿文書によれば、彼は前922年から翌年にかけて、パレスチナ遠征を行ない、ネゲブ、エドムの地、イスラエルの領土を荒らしまわったとあります。ユダは、レハブアムが神殿や王宮の宝物から高価な貢物を捧げたので、同じ運命に陥ることが免れたに過ぎません。しかしこの一件は、両王国の弱体化を象徴する出来事としてここに報告されています。

ヤロブアムは、主の戒めに聞き従い、主の道を歩み、主の目にかなう正しいことを行い、「ダビデと同じように掟と戒めを守るなら」、主は彼と共におり、ダビデのように堅固な家をイスラエルに建てる(11:38)という約束を与えられていましたが、「金の子牛」像を造り(12:28)、それをベテルとダンに置き、「罪の源」となる悪を行い、「悪の道を離れて立ち帰ることがなかった」ため、「その家は地の面から滅ぼし去られることとなった」(13:34)、と言われています。

14章1-20節には、罪の道から離れないヤロブアムとその子孫に下される主の裁きが語られています。ヤロブアムは息子アビヤが死に至るような重い病気になったので、かつて主の祝福を取り次いでくれたシロの預言者アヒヤのところに妻を変装させて、幼い息子に表される主の御心を聞きに行かせました。その際、ヤロブアムはかつて自分に示されたのと同じようによい結果を期待していたに違いありません。アヒヤは老齢で目が見えない状態でしたが、主の御告げを受けていたので、ヤロブアムの妻が変装して来ることを知り、語るべきことを語ることができました。そして彼がヤロブアムの妻に告げた言葉は、ヤロブアムの家とその王朝に対する有罪の宣告でありました。その理由は、彼が民の中から主に選ばれてイスラエルの「指導者」に立てられたのに、ダビデのように主に従って歩まず、罪を犯し続けたからです。「ヤロブアムに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる」(14:11)という悲惨な最期を迎え、墓に葬られて死ねるのはアビヤのみで、「主は御自分のためにヤロブアムの家を断つ王をイスラエルの上に立てられる」(14:14)だけでなく、200年後に起る北王国の崩壊が預言されています(14:15)。ヤロブアムの罪は、イスラエルにカナン化した偶像崇拝導入に道を開き、ヤハウエ宗教を異教的なものに変質させたことにあります。以後のイスラエルの王たちもことごとく「ヤロブアムの罪の道を歩んだ」という否定的な評価を受けています。

偶像崇拝の罪の道を歩んだと言うことに関していえば、南のユダ王国の王たちも、ヤロブアムと変わりません。列王記には、レハブアムにも(14:22-24)、アビアムにも(15:3)同じような罪の指摘がなされています。アビアムについては、「彼の神、主は、ただダビデのゆえにエルサレムにともし火をともし、跡を継ぐ息子を立てて、エルサレムを存続させられた。」(15:4)といわれ、主の大きな裁きとのろいが表されなかったのは、ダビデのゆえに与えられた主の恩恵によることが強調されています。

それでも悪の道をたどり続けるイスラエルに比べて、ユダには時々主の道に立ち返る王が出現した事実を伝えています。ここに登場するアサは、41年間王位にあり、「父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、神殿男娼をその地から追放し、先祖たちの造った偶像をすべて取り除いた。また彼は、母マアカがアシェラの憎むべき像を造ったので、彼女を太后の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、キドロンの谷で焼き捨てた。聖なる高台は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。」(15:11-14)といわれています。彼の改革は、後のヒゼキヤ(下18-20章、預言者イザヤの時代の王)の改革や、ヨシヤ(下22-23章、預言者エレミヤは彼の時代に出現)の改革の先駆としての意味を持つものとして高い評価がされています。しかし、北王国の王たち全てに否定的な評価が「ヤロブアムの罪の道を歩んだ」という言葉で下されています。

王国分裂後のヤロブアム一世からオムリまでのわずか40年ほどの期間に、北のイスラエルは、6人も王が変わり、実に不安定な政治が行なわれています。南のユダは3人で、その政治は安定しています。その原因を列王記の記者は、「愚像崇拝」という宗教的・神学的に説明しますが、もう一つ見逃せないのが、「王位継承」の原理です。ユダ王国では、ダビデ王朝の支配に異議が唱えることはありません。それは世襲的王権の原理によって、すでに最終的決着がつくシステムが確立していたからです。これに対して北のイスラエルでは、サウル王以来の「選任王制の原理」がある程度受け継がれていて、預言者の指名した人物が、民の歓呼による承認に基づいて王位につけられる習慣が覚えられていて、世襲によりその王朝の権力を強固なものにしようとする王たちとの間で、絶えず葛藤が存在しました。北では預言者は、王の政治的、宗教的反対者として登場しては、別の人物を王に指名すると言うことが何度も起りました。当然ながら、現在統治している王とその子孫は、快く王権を手放そうとはしません。そこで指名された者は、暴力的な手段を用いて支配権を手中に収め、自らの権力を確保するために、先王の一族すべてを根こそぎにすると言うことが何度も繰り返されました。挙句の果てには、指名されない人物が、功名心に駆られて簒奪を謀り、暗殺によって政権を奪うという事態も起りました。イスラエル王国の不安定性は、王19人の内、実に8人までが暗殺されているという事実に端的にあらわれています。三代以上にわたって王朝を築くことができたのは、オムリとエヒウのわずか二人だけです。

ヤロブアムの統治期間は22年に及び、ユダの第三代の王アサの治世の始めまで生き長らえています。彼の息子ナダブは治世の第二年に、預言者イエフの指名を受けた(16:2)バシャによって暗殺されます。バシャは主の目に悪とされる道を歩んだヤロブアムの子孫を根絶やしにして、24年間王位につきますが、彼もまたヤロブアムの罪の道を歩み、ヤロブアムの家に告げられていたのと同じ呪いの預言をイエフから聞かされ(16:2-4)、その息子のエラは、王位を継承しますが、わずか2年間王位にあっただけです。しかもペリシテ人との戦争の最中に宴会で泥酔して、戦車隊半分の長であったジムリという人物の謀反により暗殺されています(16:9)。このジムリは預言者から王の指名を受けておらず、その行動は全く恣意的なものに過ぎなかったので、民衆の支持を得られず、民の意見は二つに分かれました。多数派は、召集軍の司令官であったオムリを王位につけようとし、少数派は、ギトナの子ティブニを支持しました。ジムリは実力で王位を簒奪したものの、ティルツァでオムリ軍に包囲されて観念し、わずか七日間天下を取っただけで、王宮に火を放ち自刃(じじん)して果てます。その後ティブニも死に、オムリが王位につき、一連の王位をめぐる混乱に終止符が一応打たれます。このオムリがイスラエルでは珍しくこの代を越え、三代にわたる王朝を築いた最初の王となります(15:25-16:22)。彼はイスラエルの不変の都となるサマリアを、シェメル人からわずか銀2キカルで買い、王都と定めました。オムリ王朝は、他に類を見ないほど世俗的で、イスラエル史の中でも最悪の偶像崇拝の罪を犯しますが、大変繁栄した安定した王朝を築きます。この時代に預言者エリヤが登場します。

これに対してユダ王国の王権は、前述の通り、比較的安定していました。しかし、王国分裂後四十年間、オムリの時代に至るまで、イスラエルとユダの間には常に争いが絶えなかったと言われています(15:7,16)。その原因は、「国境紛争」です。

ダビデが南北両王国の境界に位置するエルサレムにユダの王都を定めたのは、ダビデ王のように民衆を掌握し、あらゆる面でたけた王にはまことに適したことでしたが、この地理的特性が皮肉なことにいまや最大の危険を生むことになりました。繰り返し火の手を上げる国境紛争は、ユダ王アサとイスラエル王バシャの間で本格的な戦闘へと発展し、アラム人と同盟して力に自信を持ったバシャは、エルサレムの北9キロのところにあるラマの町に要塞を築き、南王国の北進を阻もうとしました(16:17)。そこでアサは、ダマスコのベン・ハダド一世に莫大な贈り物をして、バシャとの同盟を破棄させました。ベン・ハダドはかつての盟友であったバシャの領土イスラエルに北方から侵入してきました。バシャはやむなくラマの建設を中止せざるを得なくなり、全精力を傾注しアラムを迎え撃たねばならなくなりました。アサはこの機に乗じて、ベニヤミンの地になだれ込み、バシャ軍の放棄した建築資材を用いてゲバとミツパに要塞を築き、ベニヤミン領土の大部分をユダに編入することに成功します(15:22)。

イスラエルの王オムリは、ユダと協調関係を保ち、彼の時代は両国の敵対関係はやみ、平和な関係が実現します。しかしこの40年の歴史が物語るのは、両王国とも主なる神に対する二心ない礼拝を捨て、偶像化と世俗主義への道をひたすら歩み、罪の増大と王国滅亡への坂を転がるようにして歩む姿です。特に北に成立したオムリ王朝は、その最たるものでありました。その時代を生きる民はどのような生活をしていたのか、列王記はオムリ王朝の時代の生活を描き、堕落した王朝の問題を浮き彫りにして描きます、そして神はその罪を改めさせるために預言者エリヤを遣わされます。その事情は、次回以降に学ぶことにします。

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