列王記講解

8.列王記上12:1-33『王国の分裂とヤロブアムの罪』

本章には、ソロモンの死(前926年)後の王国の分裂について記されています。南のユダ王国では、ダビデ王家の血統を引く者が世襲的に王位を継承することが早くから原理として確立していました。それゆえソロモンの死後、その息子であるレハブアムがエルサレムとユダ王国の王位を継承することは自明のこととして何の抵抗もなく受け入れられました。しかし北イスラエル王国では、事情は全く異なっていました。北は十の部族からなり、これらの部族は明らかに無条件で一つの王朝と結びついていたわけではありません。その都度新しい統治者を指名し、契約規定に基づいて、王に選ばれた者に従属するという権利が留保されていました。イスラエルの人々は、レハブアムをイスラエルの王と認めること自体を何が何でも拒否し、認めることはできないという立場を取っていたわけでありません。むしろ契約の規定により、それまでの不公正な問題を取り除くことを望んでいました。

1節に、「すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。」とありますが、その様な契約儀式を行い、新しい王を選ぶべく用意された議会のようなものです。しかし、レハブアムは自分が王となることを期待し、また当然選ばれる者であることを確信していたようです。彼の期待とは裏腹に、北の10部族は、レハブアムを王とする条件を4節において、「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」と提示しました。彼らはソロモン王の時代、神殿建築と王家の建設のため、過重な税負担と過酷な強制を労働強いられていましたので、その軽減を条件にレハブアムが王となることを承認しようとしていました。

レハブアムはこの条件を受け入れるか否か、三日後に答えると返事しました。最初、レハブアムは存命中の父ソロモンに仕えた長老たちに相談しました。長老たちは、「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」(7節)と答えましたが、彼はこの長老たちの助言を捨て、愚かにも自分と共の育ち、自分に仕えていた若者たちの勧めに従い、「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」といって、イスラエルの提案を冷淡にはねつけました。このレハブアムの態度は、エジプトを出て主を礼拝したいというイスラエルの願いを拒み妨害したエジプトのファラオと似ています。ファラオの心を頑なにしたのは主であるといわれていますが、ここでも「こうなったのは主の計らいによる」といわれています。

それは、「かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉」(15節、11:31以下)の成就であることが語られています。

しかし、レハブアムの暗愚と強情さがイスラエルの人々を、ついにダビデ王家との関係を断つ決意をさせることになった事実には変わりありません。イスラエルはユダの若き王レハブアムが少しも耳を貸さないのを見て、イスラエルのすべての人々は、「ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい。」といって、自分の天幕に帰って行ったといわれています。

イスラエルのこの決断の背後にヤロブアムの存在が大きなものとしてあることが、神の計画としても、彼らの思いの中でもあったことが物語られています。ミロ建設(外的から守るための城壁作り)においてソロモンはヤロブアムの有能さを見て、その労役全体の監督に任命しましたが、ヤロブアム自身はソロモン王が進める神殿建築や王宮建設に同胞のイスラエルが徴用され、またそのために多くの税が取り立てられている現状に大きな憤りを覚え、「王に反旗を翻すに至った」(11:27)といわれています。シロの預言者アヒヤは、それが主の計画の中にあることを明らかにしています。しかし、ソロモンはこの反旗を翻すヤロブアムを殺そうとします。そのため彼はソロモンが死ぬまでエジプトに逃れていました。新しい全イスラエルの王選びがなされる議会がシケムで開かれたとき、ヤロブアムはまだエジプトに逃れたままでありましたが、イスラエルの人々は彼を呼び寄せ、ヤロブアムはイスラエルの全会衆とともに、ソロモンの息子レハブアムにイスラエルの意思を伝えたとされますが(3節)、20節を見ますと、ヤロブアムのエジプトからの帰還とイスラエルの王への就任は、シケムの議会での決別後であるような書き方がされています。

実際その場にヤロブアムがいたのかいなかったのかは別としても、この時のイスラエルの決断に彼の存在無くしてありえないことがこの物語全体が語っています。たとえこの時彼がまだエジプトにいたとしても、イスラエルの人々は彼の意思を元にしてすでに行動するようになっていたことだけは確かです。

レハブアム王は、シケムでの議会でイスラエルが自分の決定に従わないのを見ても、相変わらずイスラエルに対する支配を続けようとして、労役監督アドラムを遣わし(18節、4章6節の「アドニラム」と同一人物)、強制労働を継続しその支配を継続しようとしますが、イスラエルの人々は彼を石で撃ち殺します。この事件は、イスラエルとユダの分裂がもはや修復不可能であることを明らかにするものとなりました。さすがに能天気なレハブアム王も、北イスラエルに留まっては危険だと感じ、戦車に乗り込み這々の体でエルサレムに逃げ帰りました。そこでイスラエルの十部族の人々はヤロブアムをイスラエルの王に即けました(20節)。ダビデ王家に従うのはユダ族以外になかったと言われますが、ベニヤミン族はこの時点では態度を明らかにせず、後にユダにつくことになります。

レハブアムの暗愚と強情さが巻き起こした事態は、二つの王国に計り知れない帰結をもたらしました。王の人格がこの二つの王国の結合を完全に廃棄させることになりました。ダビデによって成立したイスラエルとユダの統一大王国は、様々な要素を結合させてその統一を保っていました。しかし今やその統一はバラバラに瓦解することになりました。この王国分裂以後、イスラエルとユダは、西オリエントの大勢力の狭間にあって、ほとんど政治的重要性をもたない二つの小王国として存続していくことになります。ダマスコの支配権はすでにソロモンの代に失われていました。アンモン人に対するダビデ家の王権は、もはや通用しないものとなりました。イスラエル王国の領土は、アンモン人の領土とユダとの間に挟まるものとなりましたが、それでもしばらくの間、イスラエルの王たちは、モアブに対して支配権を有していましたし、ユダもエドムの一部に対して支配権を保持することができました。

エルサレムはもはや大王国の中心ではなく、ユダと言う一小国の首都に過ぎないものとなります。ヤロブアムは、最初、シケムに王宮を建てましたが(25節)、やがてヨルダン川東岸で、ヤボク川の下流にあるペヌエルに都を移します。最終的にはシケムの北東15キロにあるテルザに都は移され、数十年間北王国の首都となります。

王国分裂後しばらくしてヤロブアムは金の子牛像を二体つくり、北王国の祭儀の中心となる聖所をベテルとダンに建設し、それぞれの聖所に安置しましたが、「この事は罪の源となった」(30節)と言われています。これは後に「ヤロブアムの罪」として、北王国の王たち全ての否定的評価を下されることになる罪の源として評価されていますが、なぜヤロブアムがその様な罪を犯すことになったか、その理由が26-27節に明らかにされています。

「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」(26-27節)

ヤロブアムがなぜそのように不安に感じたのかさらに説明を加えるなら、分裂後もエルサレムが全イスラエルの信仰上の占めていた位置について語らねばなりません。王国分裂後も、北イスラエルの人々はエルサレム神殿への巡礼を続けていました。政治的な分離にもかかわらず、エルサレム神殿は、依然としてイスラエル共通の祭儀的中心地と考えられていました。なぜなら、そこにイスラエル十二部族の中央聖所を意味する契約の箱が置かれていたからです。ヤロブアムは、政治的に人心を掌握することはできましたが、宗教的には掌握できていないことにあせりを感じていました。それは彼がイスラエルの人々の心をつかんでいなかったといくことでも、宗教政策として間違った歩みをしていたと言うことではありません。

シロの預言者アヒヤは彼にイスラエル十部族の王となることを預言した際に、「あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。」(11章38節)と告げたとき、ヤロブアムが南王国と宗教的(祭儀的)交流を断つことには同意していませんでした。それゆえ当初彼は、この民の巡礼の行動に何の制限も設けていませんでした。イスラエルは政治的に二つの王国に分裂しても、宗教的には一つであるということは、希望でしたし、政治的にも再統一可能な拠り所となりうるものでありました。政治的分裂の原因は、王となる者の心、人格の変化が大きな要因でした。しかしその様な不幸な分裂があっても、イスラエルは信仰において一つとなりえたのは、エルサレム神殿を中央聖所として、北のイスラエルの人々と南のユダの人々がそこで一緒に礼拝していたからです。

しかしヤロブアムは、このまま放置しておくと民の心が再びユダの王レハブアムに向かい、自分は民に殺されるのではないかと感じるようになったと言われています。

人が宗教的になるのに二つの道があります。一つは、上から与えられる宗教的・信仰的視点です。ソロモン王は信仰生活面でも多くの誤りを犯しましたが、神殿奉献の祈りの中で、神は人の手で作った地上の住まいに住んでいただくにはあまりにも小さく、天も天の天さえも神を住まわせることはできないと告白しました。しかし、自分たちの神への礼拝が成立するためには、主がそこで捧げられる祈りに耳を傾け、目を注ぎ、そこに御名を置かれ、民がその御名を知るようにされるのでなければ礼拝が成立しなくなるという、重要な真理を認識していました。その後、彼の妻たちにより、偶像化への道をたどることになりますが、ソロモンの信仰は、この点で正しかったのです。エルサレムの神殿は、この信仰において、この信仰においてのみ、イスラエルの中心となりえたのです。

しかし、ヤロブアムはもう一つの道をとろうとしました。それは、主の心により一つになることではなく、自分の定めた道で主の民としての心を一つにする、信仰の偶像化への道です。

ヤロブアムは、イスラエルの人がエルサレム神殿に巡礼に行かないようにするために、ベテルとダンに聖所を築き、それぞれに金の子牛像を置き、何よりもまず民の心を主なる神に対してではなく、自分に向けさせ続けようとしました。ヤロブアムは金の子牛像を神であるという信仰をイスラエルに導入しようとしたのではありません。それはカナンのバアル宗教などでも、当初は、神の台座であると考えられていました。ヤロブアムもそれを本来見えない神の王座を運ぶ神の台座としてそれぞれの聖所に置き、その上にいます主を礼拝するように民を導こうとしたと思われます。しかし後にこれらが神的なものとして崇められ、偶像化への道をたどることになります。ヤロブアムのこの宗教政策は、彼を指名したシロの預言者アヒヤをはじめ、預言者たちから、それは偶像礼拝に他ならず、主なるヤハウエからの離反であると見なされ、厳しい批判がなされています。

「ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた。」(32-33節)

これらの言葉の中に、ヤロブアムの定めた礼拝が、「自分の造った」まさしく、自分のための偶像崇拝の道であることが示されています。イスラエル、神の教会の信仰において大切にされてきたこと、これからも大切にされねばならないのは、神が定められる礼拝の形式であり、民のためでなく、主のために捧げる礼拝であり、主に仕え主をのみ礼拝することが、私たちのためにもなるという礼拝観であり、信仰であります。イスラエルは王国の分裂により、政治的一致を失った以上にこの礼拝に対する一致した信仰を失ったことの方がもっと深刻でした。そして、この点で、ヤロブアムの罪は、最悪のものとしてその歴史の中で覚えられ続けることになったのです。

旧約聖書講解