士師記講解

19.士師記19章1-30節『ギブアの暴行』

19章から残りの部分はベニヤミンとの戦いの記事で占められています。しかし、これらの物語は今日のわたしたちの倫理感からは想像しにくい内容で満ちています。変にこじつけて解釈しようと致しますと余計判らなくなります。聖書は人間の罪を包み隠さず赤裸々に描きます。神が恵み憐れみ契約を結び交わりをもたれたイスラエルの歴史の中で、このような驚くべき不道徳と罪が見られたということに、躓きと戸惑いを覚えますが、これが歴史の中で起こった事実であるのでしょう。たびたび出てくる「イスラエルに王のなかった時代」の混乱と無秩序の原因は、王がいなかったことでなく、見られるべきはずの契約の民としての信仰と一致がなかったということです。

これらの物語が伝えてくれる真理は、この事です。

王国以前の時代に、一人のレビ人がエフライムの山地の奥ふかくに住み、ベツレヘムの住民の中から一人の女を側女として娶っていました。いさかいが起こったのか、彼女はベツレヘムの父のところに帰り、夫は彼女を追いかけ宥めようとしました。そして、和解して、しばらく舅のところに祝いのために滞在したあと、レビ人は側女を連れてエフライムの山地に帰ろうとしましたが、娘を去らすことを躊躇した父親は何度も口実を付けて引き止めようとしました。しかし、5日目の夕刻近くレビ人は決心して彼女を連れて舅の家を出ました。ベツレヘムから北へ向かって帰途に着きました。すぐ北の町はエブスです。エルサレムと呼ばれる前の名です。エブスに来たとき日が暮れかかっていたので、彼に付き添っていた若者がこの町に滞在しようと言いましたが、エブスの町はまだカナン人の町でしたので、彼はこの町に滞在することを好まず、さらに北上してギブアにまで行くことにしました。ギブアについたとき、日はすっかり沈んでいました。この町は同じイスラエルの部族であるベニヤミン人の町でしたので、彼らを快く受け入れてくれると思ったのですが、市が催される広場に座っても誰も家に泊まるように進めてくれる人がいません。

結局、レビ人の一行を留めてくれたのは、彼と同じエフライムの山地の出である一人の老人でした。ギブアでこの旅人を歓待したのがベニヤミン人ではなかったという事実が、イスラエルにおける不一致を示しています。

そればかりか、この町の、「ならず者」が男色をしようとその夜、旅人を尋ねてきました。「ならず者たち」は、直訳すると「ベリアルの子ら」です。この言葉はサムエル下16:7や22:5や詩篇18:4などで用いられ、いずれも邪な者、或いは「死すべき者」、「滅ぶべき世界」について用いられています。

ベリアルの子らが望んだことは、創世記19章におけるソドムの物語のような悪です。このような男色は、カナンに見られた特に宗教祭儀に行われたであろうことがらです。宿を提供した老人の必死の説得にも耳を傾けようとしない様子を見て、レビ人は自分の側女を彼らに差し出し、彼らは彼女を一晩中レイプし、彼女はこの暴行を受け死にました。今日と違いまして、古代社会ではイスラエルといえども女の立場は十分な人権の対象とされていません。この事の道徳的是非を今日の基準で問うなら、このレビ人の行動は是認されるはずがありません。しかし、聖書は聖書の世界で理解しないと事柄が見えてきません。この物語において中心を占めているのは、イスラエルにおける不一致と不信仰がもたらすおぞましい姿です。

共に出エジプトを経験した契約の民の中でこのようなおぞましい出来事が起こった。しかも最も持ち込まれてはならないカナンの忌むべき風習がイスラエル社会の中に入り込んでしまっている、という事実を聖書は隠さずに報告しています。イスラエルは真の主に選ばれて契約の民となったので、後はもう大丈夫と言うわけには行きません。

神の契約の交わりを重んじ、御言葉を中心とした信仰と一致の努力を欠くとき、このようなベニヤミン人の問題から自由になれません。レビ人は同じイスラエルの部族の中であれば大丈夫という安心と期待は見事に打ち砕かれました。彼は死んだ側女の遺体をロバに乗せて自分の家に帰り、その死体を十二の部分にきり分けました。その数はイスラエル十二部族の数を表します。彼は自分の側女の受けた辱めを見て、失われているイスラエルの契約の信仰の回復を訴える必要にかられました。真に、出エジプト以来見たこともない恥ずべき事態がイスラエルの中にあるのです。彼はこの問題を全イスラエルに提起しました。

このギブアの暴行の記憶は、悪の記念としてホセア書9:9と10:9に書き留められています。イスラエルがイスラエルとして一致し立ち行く道は、出エジプトにおける主の救いと選びに与かり契約の交わりに入れられているという信仰と一致を示すときにのみ開かれています。

今日、わたしたちの教会の交わりにおいても同じことがいえます。同じ教会員だからという人間的なレベルで一致を見出そうとするなら、そこには真の一致を見出すことができなくなります。同じ主の救いに与かり、主にあって兄弟姉妹に入れられているという信仰の確認と一致がなければなりません。教会は、ある意味でいつも脆い基盤のうえに立っています。主イエス・キリストにある信仰だけが一致をもたらす基礎です。このレビ人とその側女において起こった苦難の出来事は、主イエス・キリストの受難の型です。主イエス・キリストは、ご自身の苦しみを通して教会の中に真の一致をもたらしてくださいます。丁度、このレビ人とその側女において起こったような、否それ以上の大きな十字架の苦しみを通して、一致をもたらしてくださいます。わたしたちは聖餐式で頂くパンと葡萄酒を通して、いつも主から賜る救い、それが聖餐に共に与る兄弟姉妹がキリストと結び合わされている幸いを覚えることができます。教会はこの聖餐の交わりを中心にして一致してゆきます。しかし、それは機械的にというのではありません。

レビ人がギブアの出来事を「心に留め、よく考えて語れ」、と問いましたように、十字架の主のことを何時も互いによく覚え合い、主を中心にした信仰の交わりが大切であることを語り合う共同体となることが求められています。

旧約聖書講解