士師記講解

12.士師記11章29-40節『エフタの勝利と誓い』

イスラエルの民が偶像崇拝の罪を犯したとき、神は異教の民を審判者としてたて悔い改めへと導くということが、士師記において繰り返し明らかにされています。ギレアド、ベニヤミン、エフライムの偶像崇拝の罪を裁く裁き手はアンモン人でした。彼らがその罪を悔い神に立ち返ったとき、神は彼らのためにさばきつかさとしてエフタを立てました。エフタは遊女の子で系図的には父親がいない、イスラエル社会にあって何の権利も持たない存在でした。彼の母は異教の女でしかも遊女です。腹違いの兄たちはエフタを厄介者のように追い出しました。社会的に見捨てられたエフタは、ラモテ・ギレアドの近くにあると思われるトブの地に住み、そこでならず者の指導者になりました。

エフタを追い出したギレアドに、アンモン人たちが攻めてきて、ギレアドの人々は適当な指導者を持たず、これと戦うことができないで悩まされていました。ギレアドの長老たちは、危機を感じて追い出したエフタにギレアドの頭として迎え、その危機を乗り越えようと致しました。エフタは、最初この勝手な言い分に腹を立てましたが、彼らの求めを受諾致しました。こうしてエフタは、ギレアドの頭として、この地がイスラエルに主なる神によって与えられた権利と経緯とをアンモン人の前に明らかにしました。

しかし、このエフタの使信はアンモン人によって拒絶され、エフタはマナセとギレアドの人々を戦いのために奮起させ、ミツパの神殿に集めました。エフタはここで、もし神が勝利を下さるなら、勝利の帰還をしたとき戸口で迎えるものを全焼のいけにえとして、神に捧げますという誓いをしました。この後で明らかになるように、エフタは神の祝福を受け勝利を手にしましたが、エフタを迎えたのはエフタの一人娘でした。エフタはタンバリンを鳴らして踊りながら迎えに出た最初の人物が自分の一人娘であることを知ったとき、余りにも大きな犠牲の大きさに愕然として打ちのめさせられました。

エフタはアンモン人にイスラエルの権利を主張するとき、正しい信仰の認識と判断を示していました。しかし、実際にアンモンと戦うとき、彼の信仰の確信が揺らぎました。そこで、エフタは主の勝利を自分のもとに引き寄せようと小細工をしようと致しました。

エフタの勝利は、29節に記されているように、主の霊がエフタに臨んだことによって与えられたカリスマ的な資質と主が彼らをエフタの手に渡されたことによります。しかし、エフタは戦いに対する不安な心理から、主の前に個人的な誓願をして、主の勝利を自分の手で何とかしようと望んだその事が彼の罪となり、その誓いの故に苦しまねばならないことになりました。

このところにおいて明らかにされている重要なことは、エフタの勝利はその誓願の結果ではなく、エフタに臨んだ主の霊によるカリスマ的な資質の上よりの一方的な恵みの結果です。

聖書は個人の信仰の良心による誓願を決して禁じてはいません。しかし、このような誓願をする場合、祭司を通じて行う必要がありました。また、彼はその願いが聞かれるためには、犠牲が必要であると認識していましたが、神は犠牲よりも悔いし砕けし心をもって礼拝するものであることを何よりも望まれ、その様な者とともにおられるということを忘れてしまいました。

そして、何よりイスラエルにおいて人身御供にすることは厳しく禁じられていました。エフタはある面でイスラエルの信仰と権利を継承することに対して熱心でありましたが、その信仰の確信はしばしば彼が幼いときカナンの遊女をしていた母の異教宗教的な慣習や考えなどによって、混乱させられていました。神は確かにエフタに勝利を賜りました。しかしそれは、エフタが正しかったからではなく、主の霊が彼に臨み、主が彼を導いたからです。

エフタはこのように素晴らしい主の勝利を経験致しましたが、その愚かな誓願の故に、大きな代償を払わなければならなくなりました。冷静に考えれば、勝利のときにイスラエルでは最初に迎えに出るのが、娘たちであることを想像することができました。ミリアムの歓迎、サウルの勝利の帰還のときの歓迎がいずれも身内のものの女たちであることを思えば、一番先に自分の娘が迎えに出る可能性は充分あることは予想できたはずです。エフタはこの点で慎重さを欠いていました。そして、何よりも異教の人々がするような人身犠牲による神への感謝をあらわしたのも間違っていました。

旧約の信徒の犠牲は全て動物犠牲で、それは来るべきキリストの贖いを予表するものです。人間の考えによらない神の御計画と定めにしたがった代理贖罪としてなされる其自体が恵みです。人はこの恵みに信仰をもって与ることができるだけです。人の良心的な誓願さえ功績にすることのできない圧倒的な神の恵みとして、イエス・キリストの十字架の福音の前に感謝するのみです。エフタは、この十字架の福音の前に跪き、恵みとして与えられるキリストの出来事により頼み、そこにのみ留まるものとなるという真の信仰をこの時欠いていました。

エフタの人間的な努力によって神の恵みを得ようとするその努力は、最愛の一人娘を犠牲としなければならないという、高価な代償が求められました。この御言葉は、神の御心にかなわない人間の勝手な努力と工夫の虚しさを明らかにします。それがどんなに間違っていても、神に対してなされた誓いは誠実に履行されなければなりません。

エフタは最初に現れたのが一人娘であることを知って、自分のした誓いの持つ意義の大きさを知らされました。この父の愚かな誓いの犠牲となったエフタの一人娘は、主に対して口を開いたことは、取り消せないからそれを自分に行ってほしいという実に健気な信仰を言い表しました。彼女はただ自分が処女であることを山々を回り、友達とともに泣き悲しむために必要な2か月の猶予のときを父に求めました。彼女はその猶予のときを過ぎて父に誓ったことを行わせました。

この物語は、真の信仰からでない人間的な誓願の愚かさを明らかにします。特に、信仰の戦いの勝利が神の恵みによることが問題になっているときに、人間的なしかも異教的な影響を受けた考えから行う誓願は、最も大切な命をも失う危険をともなう結果となることもあり得ることを示しています。御言葉に従わない犠牲をとおして献身を言い表そうとする試みの愚かさがこうして明らかにされています。

パレスチナには、異教の祭儀タンムズ神話があります。それは、パレスチナの風土を物語る神話でもあります。パレスチナでは植物は僅かの雨を得て芽を出し、花を咲かせようとします。しかし、美しく咲いた花も夏が来ると枯れ、羊の乳は止まります。エゼキエル書8章14節にはエルサレムの北の門に座って女たちがタンムズのために泣いたとあります。これは、イスラエルに異教の祭儀が取り入れられた証拠とされています。しかし、イスラエルの人たちは、このタンムズ祭儀をいつまでも異教の祭儀としてとどめたのではありません。

このエフタの娘の死もそうしたタンムズ祭儀の考えが投影されているとある注解者たちは考えています。私もその可能性を否定できないと思っています。しかし、異教のタンムズ祭儀では神が死にます。しかし、イスラエルでは死ぬのは神の被造物であって神ではありません。イスラエルの神は死にません。死ぬのは草であり人間です。嘆かなくてはならないのは、人間についてであって、神についてではない、というのがイスラエルの伝統的考えです。

イザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。」という有名な御言葉がありますが、人間の愚かな試みや考えはやがては必ず滅びていく、しかし、神の言葉は永遠に立ち、これを信じる者も、裏切られないという告白です。そうであるなら、エフタの愚かな誓いの犠牲となった娘が神の言葉への信頼を示したその信仰は、信じた御言葉とともに主がよしとされるところとなっているはずです。

旧約聖書講解