士師記講解

7.士師記6章25節-32節『家庭における宗教改革』

これはギデオンの召命における第二の出来事です。ギデオンは同僚と同じ様にミデアン人の攻撃を恐れる気の小さい人物であったことを既に学びました。しかし、ギデオンは主の召しを受け、主が共にいてくださるという印を与えられて、その信仰が高められ、彼自身の破れの多い生活が改められて、主の前に祭壇を築く、主にある平安を回復致しました。主の預言者・さばきつかさとして召しを受けたギデオンが取り掛かるように命じられた最初の戦いは、家庭の中にある偶像問題でした。主はギデオン個人の信仰の回復だけでなく、ギデオンの家全体の主との間にある破れている宗教性の回復を求められました。イスラエルの救いは、外なる敵との戦いをする前に内にある偶像を取り除く必要がありました。

カナン入場を前にしてモーセが繰り返し、カナンの偶像礼拝を行ってはならないと警告していたのに、イスラエルがカナンに定着してすぐカナンの農業習慣を取り入れていく中で、カナンのバアル宗教が一緒に入り込んできました。ギデオンの家も例外ではありませんでした。今日、日本のクリスチャンホームの中に、知らず知らずの内に同じ様な偶像宗教の習慣が入り込む危険が一杯あります。異教宗教の祭儀は視覚的で未熟な信仰者には魅力的で誘惑に満ちています。ギデオンの父ヨアシュ(主は与えられた)の名には、ヤァーウェの字が入っていますが、彼の信仰はバアル宗教と混肴した内容となっていました。真の主への礼拝を完全にやめたわけではないが、バアル宗教と混ぜ合わせた形で礼拝するという惨めな姿になっていました。

しかし、これは「あなたには、わたしのほかに、神々があってはならない」という第一戒の明白な違反でした。神が召したもう預言者の家でさえこの有り様です。ましてやイスラエルの全体にどれほど大きな偶像崇拝の罪に侵されていたか、推して知るべしです。「あなたの父の雄牛を・・・連れ出し」と言われていますが、雄牛(ショル)は、ラスシャムラの粘土板によると神です。至高神エルの顕現の一形態とされています。この牛は犠牲のために取ってあったのでしょう。主はギデオンにこの牛を取ってきて、ギデオンの父が持っているバアルの祭壇を取り壊して、その側にあるアシュラ像も切り倒して主のために祭壇を築くように命じられました。

ギデオンは第一の召命のときも、主の前に恐れと弱さを示しましたが、ここでも決して英雄的に振る舞ってはいません。父の家の者や町の人の仕返しを恐れて夜のうちにおそるおそる主の命令にしたがっているに過ぎません。ギデオンには、主に従う意思とともにこの世の人への気遣いと恐れが残っていたのです。後の日のギデオンの英雄的な戦いぶりから想像できない弱さを未だ残していました。信仰生活における成長と雄々しさはこうした戦いの一つ一つを通して実際には身についていくものです。

聖書は雄々しい戦いぶりではなく、弱さを覚えつつも主の命令に聞き従うことの大切さを、寧ろもっと大切なこととして示します。隠れながらの恐れながらの戦いであっても、真っ直ぐな姿勢で主のみ声に聞き従おうとする信仰者を主は祝福してくださいます。

ギデオンは夜のうちに、自分のしもべ十人を引き連れて、主の命令を実行致しました。しかし、翌朝には、それが町の人に知れ、ギデオンの仕業であることがたちまち知れ渡りました。町の人は、ギデオンの父ヨアシュの所に行き、すぐに息子を引き渡して殺せとかんかんになって、言い寄りました。ギデオンのこの所業はしかし、失い掛けていた父ヨアシュの真の神、主への真の信仰を回復させるきっかけとなりました。

父ヨアシュは、「もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう」(31節)、と応えることによって、事柄の解決を、バアルの神とイスラエルの真の神の戦いに委ねることに致しました。後の日にエリヤが一人でカルメル山で数百人のバアルの預言者とアシュラの預言者と戦ったように、争いはバアルが力ある神か空虚な神かを問うものとして争われることになりました。

ヨアシュはおそらく息子ギデオンに最初エルバアルと名付けていたと思われます。それには、「バアルが増してくださるように」と言う意味があったからです。しかし、ギデオンがこの戦いに勝ってからは、その名はもう一つの意味をもつようになりました。それは、「バアルをして自ら戦わしめよ」という意味です。

主がこの戦いを通して、ギデオンとその父ヨアシュの前に明らかにされた大切なことは、恐れつつも主との正しい関係に立つために信仰の戦いをする者と共にいまし、そのような主との関係に立つ者に勝利を与えられるということを明らかにされた点です。偶像の神は人の心に偶像を抱かせる故に恐ろしく感じます。しかし、一旦それが本当に虚構であり偶像であることがハッキリしたとき、人はその魔術的な恐れから解放されていきます。ギデオンがバアルの祭壇を破壊したあとも生きているというその事実が、バアルが空虚な偶像でしかありえないことの証明となっています。

この勝利の力は、今もわたしたち一人一人に与えられています。主の御言葉に聞くことこそ勝利の力です。何故なら、御言葉は勝利者イエス・キリストの御言葉だからです。御言葉は、現実の信仰の戦いの中でその力を獲得し、信じるものを勇気づける力そのものなのです。ギデオンの家における宗教改革は、小さな一歩であったかもしれません。しかし、この小さな一歩は、イスラエル全体に大きな力を獲得していく第一歩だったのです。ルターの信仰において起こった宗教改革の火種が燎源の火の如く広がったように、ギデオンの信仰において起こったことは、決して小さくはなかったのです。御言葉は一人の人から、大きな感化と力を何時も及ぼす力をもった神の力なのです。私一人くらいという信仰ではなく、まず私が救われ変わることによってという信仰を持つことが大切です。神が私の家と国の上に表してくださる宗教改革の力を信じて委ねていく信仰が大事なのです。

わたしたち一人一人が一人のギデオンになることが求められているのです。

旧約聖書講解