ヨシュア記講解

18.ヨシュア記24章1節-28節『シケムの契約』

ヨシュア記23章に続き、本章でもヨシュアの告別説教が記されています。この二つの告別説教の主な相違点は、23章では礼拝すべき方法が、24章では誰を礼拝すべきかが重要な問題としている点です。

シケムは新約聖書ヨハネ福音書4章においても知られ、今日でもよく知られている古い聖所を含む土地の中心地です。8章30-35節には、ベテルに由来する重要な伝承について言及されていますが、その後それが何らかの理由でシケムに移ったと推定されています。

ベテルで「石」が一つの役割を果たしたように、シケムでも特別な石への言及がなされています(26節)。伝承は所与の事物と結びつくのが常です。このシケムにおける部族会議の物語が一つの重要な「大きな石」と関連付けられ、野の石の聖なる性質がそれと併存する聖なる木によって明確化したことはほとんど疑いないとヘルツベルクは推定しています。実際「大きな石」と「テレビンの木」が主の聖所の神域に属するものであることが明言されています。

この聖所の起源は族長時代に置かれ(創世記12:6,33:18―20,35:2―4)、ここでは、テレビンの木の有する聖所は既に存在しているという事実がはっきりと語られています。シケムには、アブラハムとヤコブの伝承が結び付けられているだけでなく、ヨシュアの伝承とも結びつけられています。ヨシュアもエフライム人であり、シケムはヨセフ族の中心聖所であるからです。ここでは「ヨセフの家」が集合したことが記されています。

そして直ちに、全イスラエルがヨセフの「家」と連帯して聖なる契約を結んだ(15節)と考えられます。マルチン・ノートは、これによって成立して十二部族連合(アンフィクチオニー)について明らかにしています。

その際、信仰共同体としての民の根本的な在り方として重要となるのは、イスラエルの神、ヤハウエを選び、他の神々を除き去ることです。しかも先祖たちが崇拝していた神々のみならず、新たに獲得した土地の神々をも除き去ることです。これは極めて重要な意味をもちます。古代人の思考では神と土地は結びついています。実際、先祖たちが「川の向こう側(=ユーフラテス川の向こう側)」(2節)に住んでいた時には彼らはそこに属する神々を礼拝していました。エジプトに他諸部族がそこの神々の支配権の下にあったように、その土地の他の神々を礼拝していました。ですから、24章2節の「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。」という自己理解は、イスラエルの十二部族が一つの民として、どのように歩むべきかを示す重要な導入句としての意味を持ちます。イスラエルの十二部族が一つの民として歩むために必要なことは、自分たちを選び、約束の土地へ導き入れた主(ヤハウエ)を畏れ、主をのみ礼拝し、主にのみ仕えることです。

それゆえ、14節で、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」、という言葉は、イスラエル十二部族が一つの民として歩むことができる指標を示す重要な意味を持ちます。パレスチナへの入植は、イスラエル十二部族の民を新しい宗教、即ち「アモリ人の神々」の領域に導き入れることを意味していました(15節)。そのため、入植した民は大きな危機に直面することになりました。その深刻さを後に預言者たちが認識し、その土地の神である「バアル」に対するヤハウエの戦いを第一に優先すべき事柄と考えました。ヨシュア記の編集者は、この戦いの過程を知っています。それゆえ、まず最初に重要となる決定的なことは、民がどの神を今、礼拝すべきなのか、それは、新しい土地の神か、それともこれまでの放浪を導いてくださった神か、という問いであって、この問いこそが何より重要な意味を持っています。先祖たちを導いた神(ヤハウエ)には、土地に規制されない性質があり、それは古代人の宗教的思考には全く異質で特異なものでありました。ヘブライ人への手紙11:9,13には、これに神学的な洞察を加えています。先祖たちは「よそ者であり、仮住まいの者」と呼ばれ、「幕屋に住んだ」と述べられています。エサウは定住権を与えられましたが、族長たちの生活は依然として不安定でありました。しかし、見知らぬ土地を放浪する時代は、一つの土地に固定されない神が導く特別の時代です。メソポタミアからエジプトを経てパレスチナに至るまで、神の導きはどんな妨害によっても妨げられず貫徹されました。その最終的な目標として、主によって約束された土地が授与されるのです。

13節は、ヨシュアの説教の最も重要な思想を明らかにしています。族長たちを召し出し、エジプトから導き出し、荒れ野で保護し、土地を取得したのは主(ヤハウエ)であり、主こそが今や放浪途上にある民の上に土地を手渡す、という思想です。主ご自身は場所を超越したお方です。主の支配領域はいかなる土地にも拘束されません。それは、この土地取得に関して、イスラエルが包括的に認識すべきことであることを示しています。

主(ヤハウエ)が土地空間を超越する神であることは旧約聖書では重要な真理です。民が自らの意思で居住地を定めることは危険を意味しました。民は、今や他の神の管轄権にいるのではないか、ひょっとして「ヤハウエ」は「バアル」に編入されるのではないか、と民が勝手に考える危険があったからです。カナンの地で土地取得が実現したのは、この土地取得が土地に拘束されぬ超越性を有する神(ヤハウエ)の導きによるものであるからです。ヤハウエこそが「大河の向こう」とエジプトの土地に拘束された神々とは異なり、また、「アモリ人の神々」とも異なるのです。14,15節で民がつきつけられた決定的な問いは、ただ単にこの神を選ぶかあの神を選ぶかという選択に関わるだけではなく、土地に拘束される神々を選ぶか、土地を超越する神を選ぶかという選択であったのです。これは十戒、とりわけ第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)に係る事柄でありました。

旧約聖書は、ヤハウエが歴史を創り出す神でることを示しています。すなわち、神ご自身が民の歴史を導くのであって、しかもヤハウエは時間と空間に拘束されない創造者として超越の神です。自然にも拘束されない神は、まさしく万物を超越し、万物を従わせ、万物を形づくるのです。この神がご自身の土地に関して裁量権を持たないとすれば、それはむしろ圧倒的なしるしなのです。神はそもそもすべての土地に関して裁量権を有するのです。神がこの唯一の土地をご自分の民のために取得することは神の決断によるからです。

主を選びとる決断はヨシュアと彼の「家」(ヨセフの部族)によってはっきりと告白されました(15節)。その決断を「民」が同意することによって、その決断が共有されることになりました(16-18節)。これによって二つのことが確認されることになりました。

第一に、神学的に重要な確認です。土地取得は民が他の諸民族の宗教に入り交ることを意味せず、反対に、民が経験してきた主によるこれまでの導きを確認し強化することを意味するということです。

したがって、民が今や属する新しい状況では、新たな誠実さ忠実さが求められます。それは後に預言者たちが直面した危機的状況を示すものであります。もしこの危機的状況を克服できるならば、後代の大きな危機、即ち土地の喪失(前587年におけるバビロン捕囚)によって引き起こされる危機をも克服できであろう、ということを示す意義を持っています。土地と結びついた神と民との関係は、土地の喪失によって失われますが、土地に拘束されない、民も土地も創造できる超越の神に結び付けられ、その神の所有とされている民は、たとえ約束の土地を失うようなことがあっても、その神の導きの下、その神との関係の中で新しく、主の民としての歩みを始めることができるからです。

第二に確認できることは歴史的な事実です。シケムでの部族会議は、全イスラエルが主に対する義務として「契約」を結んだことを描いています(25節)。この伝承はヨシュアを土地入植の指導者と見るだけでなく、唯一の神の権威によるまとめ役と見ています。

ヨシュア記24章2節以下は、申命記26章5節以下同様「歴史的回顧」を行い、イスラエルの立つべき信仰共同体としての在り方についての信仰告白をしています。聖書は歴史書ではありませんが、聖書には歴史的事実を示唆する宝庫であって、イスラエルのクレド(信仰告白)と呼ばれるこの部分にもそれがはっきりと表れています。シケムでの部族会議は、初期に入植した諸部族が信仰のレベルと同時に政治的なレベルにおいて唯一の神の下に自らを規定した瞬間を描いているのであり、ヤハウエの名によってヨシュアとその民「ヨセフ」のほか「ベニヤミン」も土地に入植したことを明らかにしています。シケムの部族会議は実際において入植の完了を告げています。ヨシュア記の編集者は、「バアル」をめぐる幾世紀もの戦いを見渡し、イスラエルの居住地が定まった当初からヤハウエ信仰に降りかかった根本的な危機を見て知っています。彼にとってシケムでの部族会議は特に重要性を有し、彼はこの危険を指し示すと同時に、民の同意を伴うおごそかな契約の締結によって、この危険に対する防波堤を築こうとしたのです。彼にとって他の神々を拒絶することはいわば宗教改革的な行為であり、それは、ヤコブがパレスチナへの帰還の際に他の神々を除去したのと似ています(創35:1以下、そこでもシケムが重要となる)。

25-28節は契約締結の締めくくり部分です。ここに申命記史家の思想を見ることができます。この契約は元々聖所で行われた義務の宣誓であって、「大きな石」とシケムの聖木(テレビン)とが宣誓の証人と考えられたが、ここではさらに「これらの言葉」すなわち「掟と法」が神の律法の書に書きとどめられる。後の時代、とりわけ土地を失った後の時代には、律法の書とその中に記されたものは拘束力を持つ「証人」となります。初期の時代の「大きな石」がそれにとってかわっています。この書きとめられるという行為によってヨシュアの契約は、モーセの契約の継続及び確認となっています。申命記史家はヨシュアの契約を救済史的な文脈に引き寄せ、居住地を定められた民はこれまで通り、また新たに神の契約の中に立つのであって、これから起こることのすべてはそこから照らしだされることになるのです。

このことを「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」(ヨシュア記1:1)の告別説教、即ち遺言(契約)として語られ、民との間で結ばれたことの意味は、今後の全ての歴史、時代、空間の中での、信仰共同体としてのイスラエル(教会)としてのその信仰の在り方を決定づける重要な意味を持ちます。それは、まさしくヨシュア記1章1節-9節において語られていることの成就なのです。

イスラエルは自らのクレド(信仰告白)として、ヨシュア記24章2節以下と、申命記26章5節以下を持つことができたということは、どのような危機の時代にあっても、自分が誰であるかというアイデンティティーの問題を、自分たちを選んだ神がどのような方であるかということと深く結びついた問題であることを絶えず認識させる意味を持つものとなりました。

この認識は、新約時代を生きるわたしたちにとっても重要です。真の揺るぎない信仰は、このようなクレドを持つことによって、それを自分の生命的問題として告白し、生きることは、ただ神のみに拘束され、しかし、世に存在するすべてのものから自由にされている自己を認識させるものとなります。この意味を深く受け止めることが大切です。
ヨシュア記24章29節-33節にヨシュアの死と埋葬の記事がありますが、ヨシュア記の講解はこれで終わることにします。

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