ヨシュア記講解

14.ヨシュア記14章6節ー15節「わたしにください」

ヨシュア記14章から21章にかけて、ヨルダン川西側の土地分配を9部族半に行う記事が扱っています。ヨシュアは、「主がモーセを通して命じられたように、くじで九つ半の部族に嗣業の土地を割り当て」(14:2)ましたが、ユダ族であり、ケナズ人エフネの子カレブが大胆にヨシュアの前に進み出て、自分に与えられている権利を主張しました。

その光景は、実に感動的で、感銘深いものです。イスラエルの民は、エジプトを脱出し、カナンへの途上にあった時、モーセは主の命によって、カナンの地を探らせるために12部族からそれぞれ代表を出させて、その任に就かせました(民13―14章、申1章)。12人の斥候は40日間カナンの土地の偵察を行った後、カデシュ・バルネアにいるモーセに、それぞれ見たこと、心に感じたことを報告しました。その内10人の斥候は、自分たちが探った土地は、「乳と蜜の流れる所」で実り豊かな土地ではあるが、「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫」(民13:27-29)がいて、「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民13:32・33)と報告しました。

巨大な敵の力を見て、足を震わせながら報告したこの言葉の中には、奴隷の苦役に苦しむイスラエルをエジプトから導き出し、海を渡らせて導かれた主なる神の力の確かさへの信仰が微塵も見られず、人間の無力と不信仰の思いに支配されている姿が浮き彫りにされています。

その時、カレブは民を静め、モーセに向かって、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」(民13:30)、という進言をしました。カレブのこの大胆な主張によって、イスラエル12部族の意思は真っ二つに分かれました。カレブの意見を支持した斥候はヨシュア一人だけで、他の10人の報告を聞き恐ろしくなった人々の中には大声を上げて泣き出すものさえ出る始末でした。

しかし、ヨシュアとカレブは、「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民14:7-9)と言葉を重ねて、主への信頼を表明しました。

12人の斥候は皆同じ光景を見たのです。しかし、その光景は同じようには映りませんでした。その違いは、人間の観察力や洞察力によるのではなく、信仰の目の差でありました。ヨシュアとカレブも、「もし」という留保を付けました。しかし、この「もし」は、不信仰の「もし」ではなく、神の御前における二人の謙遜を表しています。主の御心にかない、主が共にいてくだされば、敵の大きさ、城壁の強大さは問題ではない。カレブの信仰の目には、神がイスラエルに既にしてくださった善き業を想起し、そして、神の約束してくださる将来が映っていたのです。カレブはこの時、既に信仰によって、神の約束したもうすべてを所有していたのです。カレブには、驚くべき単純さ、純粋無垢な信仰がありました。信じるという行為は、本来、単純です。単純であるべきです。神の約束への信頼は、ただ信じるということから生まれるのです。

その時カレブは40歳でした。その時から、カレブは変わることなく主の導きを信じて黙々と主に従い続けて45年間この日が来るのを待ちました。

カレブは、ヨシュアに向かって、「今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます」(ヨシュア記14:10-12)、と述べ、大胆に自分の受け継ぐべき土地の分配を求めました。

カレブは、「わたしはわたしの神、主に従いました」(ヨシュア記14:8)、とはっきり主張できるほどに、主に従い続けてきたのです。カレブは、この言葉を三度も語っています。土地の授与は主の約束に基づき実行されますが、それは決して自明なことではなく、土地を受領するために応じ者たちの真実と従順が前提になっています。真実と従順を欠くならば、分配される土地は再び取り上げられることも起こりました。この意味で、カレブが、「イスラエルの神、主に従い通したからである」(14:14)という信仰の真実な姿を示したことは、ヘブロンの土地を嗣業として受け取ることができたかを示す重要な意味を持っています。

カレブはこの信仰に立って、大胆に「この山地をわたしにください」と、ヨシュアに向かっていうことができたのです。

カナンは神の国の型です。新約時代を生きるわたしたちにとって、神の国は、イエス・キリストへの信仰を通して与えられます。神の国は、肉の原理によらず聖霊の導きに支配され、その導きに明け渡し歩む無垢な信仰者に備えられているのです。「わたしにください」という言葉に必要なのは、信仰だけです。信仰がなければ、そのように大胆に、だれも言うことができません。主を待ち望み、主の約束を信じ、その約束されたものを、「わたしにください」と大胆に表明する信仰をカレブから学びましょう。主は従い通すものに恵み深くその愛を示されるのです。

旧約聖書講解